アレスとプシュケの冒険 ~減らない国での出来事~

汐見舜一

死にまみれたプロローグ

 その悲鳴は夢の中で響いているのだと、アレスは初め思った。しかし、びりびりと震えているのは紛れもなく現実の空気だった。


 まさか……!

 一瞬で眠気が吹き飛んだ。


 アレスは飛び起きると枕元の剣を掴み取り、野営のテントを飛び出した。

 

 あちこちで火の手が上がっていた。炎があたり一帯を暴力的に照らし出し、深夜の闇をすっかり追い払ってしまっている。


 アレスは絶句して、その場に立ち尽くすしかなかった。

 

 すぐにプシュケも、アレスの後を追うようにして、テントから飛び出してきた。そして眼前の惨状を目の当たりにして表情を凍らせた。


「なんなんだよ、これ……」


 野営地のテントはあらかた燃やされ、その周辺では剣と剣がぶつかり合っていた。矢が飛び交い、怒鳴り声と悲鳴が交差し、血飛沫が上がる。

 旅団の仲間たちが次々と斬られ、射られ、死んでいく。


 敵は、漆黒の外套――いや、よく見るとそれは雨具であることが分かる――を纏った連中だった。みんな一様にフードをかぶり、目元に影を落としている。


「なあアレス、あいつら〈スカベンジャー〉なのか……?」

 プシュケが絞り出すように、震える声で言った。

 

 スカベンジャーとは、手あたり次第に村やキャラバンを襲撃し、物資や子供を強奪していくクズどものことだ。連中の襲撃には、今まで幾度となく遭ってきた。

 しかし、いま目の前で暴れている雨具の連中は、今までのスカベンジャーどもとは性質が異なるように思える。どうして「異なる」と感じるのだろうかと一瞬不思議に思ったが、アレスはすぐにピンときた。


「あの連中は大人だけでなく子供も容赦なく殺しています……」


 普通、スカベンジャーは、子供は無傷で誘拐しようとするものだ。子供は貴重な商品だからだ。今の時代、子供は金塊よりもよっぽど高値で売れる。奴隷や兵士の卵として買われることがほとんどだ。幼い子供は魂が未発達なので、簡単に洗脳ができ、扱いやすいのだ。そんな垂涎もののお宝であるはずの子供を、雨具の連中は容赦なく、なんの躊躇いもなく、斬り、射り、殺していく。命と商品価値が血飛沫と共に雲散し、魂が天へと返されていく。

 

 雨具の連中の異質さは、それだけじゃない。なんと連中は、死体が身に着けている高価な装飾品にも関心を示さないのだ。強欲の権化であるスカベンジャーにあるまじき淡白さだ。まるで、殺戮そのものが目的のようだ。

 

雨具の一人が、こちらに気づいた。剣を片手に、早足で近づいてくる。


「プシュケ、下がってください」

 アレスは鞘から剣を抜いて構えると、相手を睨みつけた。

 

 雨具の男は、まるで草を刈り取るかのように、なんの躊躇もなく剣を振り上げた。

 だが、その剣が振り下ろされることはなかった。永久に不可能になった。気が付くと、ヤツの腹から一本の刃が生えていた。その刃はすぐに腹の中に消えた。そしてヤツは、地面に倒れてしまった。

 ヤツの背後から、長身の中年女性が姿を現した。彼女は刃に付着した血を服で乱暴に拭うと、アレスとプシュケに向かって微笑みかけた。


「シャリテさん!」

 アレスは安堵のあまり涙がこみ上げてきた。

 

 プシュケはシャリテに飛びついて、声をあげて泣いた。


「プシュケ、アレス、逃げるわよ」


 シャリテはプシュケの小さな体をひょいと持ち上げて腕に抱えると、走り出した。アレスはその背中に続いた。


 林にたどり着くと、テリの兄貴が、馬の縄を木から大急ぎでほどいていた。


「プシュケ、アレス、急げっ!」

 テリの兄貴は手を振り回しながら叫んだ。

 

 ひゅんっ……と、何かが空を切る音がした。次の瞬間、テリの兄貴は倒れた。絶命して地面に転がる彼の側頭部には、矢が一本深々と突き刺さっている。


「〈減らない国〉へ逃げなさい!」

 シャリテはそう叫ぶと、アレスとプシュケを一頭の馬に乗せた。

「振り返るんじゃないよ死ぬ気で生きなさいプシュケを守りなさいアレス! 必ず迎えに行くからその時まで決して死ぬんじゃない!」


 シャリテの剣幕に圧され、アレスは慌てて馬の腹を蹴った。馬は一度ひぃんと短く鳴くと、猛然と駆けだした――。


 それからのことは、アレスはよく覚えていない。とにかく無我夢中で追手から逃げ続けたことは確かだが、どのように奴らを撒いたのかは思い出せない。


 すでに空は白み始めている。馬は追手の矢を受けて死んでしまったので、今は自分の足で荒野を歩いていた。


 プシュケは、逃走の最中に毒矢が腕をかすったせいで、かなり弱ってしまっている。そのため、アレスが彼女をおぶって歩いている。


「アレス……あたしさ、もうさ、お迎えがきたかもしれねぇよ……」


「しっかりしてください! あなたは毒ごときで死ぬようなタマではないでしょう!」


 プシュケは返事をしない。いや、できない。首筋に感じる彼女の湿った呼吸は、不自然に乱れている。医者の処置なしでは間違いなく死んでしまう。


 旅団は、本来なら今日、〈減らない国〉に到着する予定だった。つまり〈減らない国〉はすぐ近くだ。そこで医者に診てもらおう。


 あたりが明るくなったおかげか、あるいは一生懸命歩いたおかげか、アレスは〈減らない国〉を見つけることができた。噂どおりの、馬鹿高い壁に囲まれた立派な国だ。


「もう少しです。後生ですから、俺の背中で死んだりなんかしないでください」


 歩く。歩く。とにかく歩く……。もう少しだ。もう少しで、〈減らない国〉に着く。


「……ん? なっ……!」

 アレスは驚愕した。岩陰から、一体の〈グール〉が現れたからだ。

「こんな時に……!」


 アレスは急いでプシュケを地面に下ろすと、鞘から剣を抜いて構えた。

 だんだんと、剣の刀身が太陽のような橙色に染まって、高熱を帯びていく。

 アレスは、この摩訶不思議な剣を〈太陽の剣〉と呼んでいる。この剣は、日中に太陽光を吸収し、蓄えている。そのエネルギーを利用して、高熱を生み出しているのだ。

 

 グールは不気味な呻き声を漏らしながら、ゆっくりと近づいてくる。アレスたちを食う気だ。


「……あなたも、もともとは俺たちと同じ生きた人間だったんですよね。なるべく苦しまずに逝けるようにしてあげますからね」


 アレスは少しだけ、グールに同情じみた感情を覚えた。グールになってしまうのは、なぜか大半が子供だ。いま目の前にいるグールも、子供の姿をしている。おそらくアレスと同じくらいの年齢の少女だ。歩く死体のグールとはいえ、相手が子供となると、同情心を禁じ得ない。でも、そんな甘い感情を抱いている余裕は、すぐに吹き飛んでしまった。なぜなら、グールは一体だけではなかったからだ。岩陰から、一体、さらに一体と、奴らは次々に湧いてきた。


 万事休すだ。武芸に優れたアレスでも、こんな大勢のグールを相手にしては勝てるはずがない。グールは一体でも十分に手ごわいのだ。いったいそのやせ細った体のどこから湧いてくるのか本当に不思議なのだが、グールは大抵腕力が馬鹿みたいに強い。

 だが、なんと言っても一番厄介なのは、話が通じないという点だろう。交渉も命乞いも無駄だ。岩と話すのとなんも変わらない。

 

 やつらは、娯楽本に出てくる〈アンデッド〉とは違う。グールは心臓が動いているし、斬れば赤い新鮮な血を流す。排泄もする。活動を続けるためには水と食料だって必要だ。そういう意味では、グールは「生きている」のだ。

 それでも、グールは生きた人間ではない。人間らしい理性も感情もない、獣以下の存在であることは論をまたない。この哀れな連中がどのようにして出来上がったのか、そしてなぜ増え続けているのかは、いまだ明らかになっていない。


 アレスは控えめに言って死ぬほど疲れていた。今にも気を失いそうだ。今の彼では、このグールの群れに勝つことはできない。終わった。終わったのだ……。


「プシュケ、申し訳ありません……」


 アレスの手から〈太陽の剣〉が滑り落ち、地面に突き刺さった。地面に突き刺さった剣は、まるでアレスとプシュケのためにこしらえられた墓標のようだった。

アレスは跪いて、プシュケの手を握った。


「本当に、申し訳ありません。守ってあげられなくて――」


「イヴンヴ、ニィ、ヴィ……」

 プシュケの口が小さく動き、意味不明な言葉を紡いでいる。

 

 寝言? まったく、こっちの気も知らないで……。


「……ギィスヴ、エルド、ル、ヴィク……」

 プシュケの寝言は続いている。

 

 獣のような唸り声をあげ、グールが飛びかかってきた。


 ……ッ! にわかに、アレスの中で何かが弾けた。

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