違和感

雨、雨なのだろう、雨なのだろうか。雨ではないかもしれない。

ただ、雨だと思いたかった。


暑い、何故だろう。

何故って、今が夏だからか。

「春、ごはんよー。降りてきなさい。」

部屋の外から母の声が響く。

「はーい。」

……お母さんの声はこんなだったか? 風邪でも引いたのだろうか。それとも私の勘違い?

……いや、そんなことを考えている暇などはない。お腹が空いた。早く下に降りよう。

半螺旋状になっている階段を手摺に手を掛けながら駆け降りる。

一階に降りた時に何か違和感を感じた。いや、正確にはつい先程からなのだが。

テレビはあんな窓に近い所にあっただろうか。食卓付近に置いてあった記憶があるのだが。

そして身に覚えのない空気清浄機まである。割と最近の機種のようだ。

……いや、記憶はある。テレビは一度壊れた物を買い替えた時からあの場所に置いているし、あの空気清浄機はネットショッピングのセールでかなり安くなっていたから買ったと母に聞かされた。この家の間取りも違和感があるようで、生まれた時からこんな構造の家だったではないか。

一階は長方形の形をした部屋で、今降りて来た階段の両隣にトイレに続く扉と和室へ入るための扉がある。家具の配置としては、台所から食べ物をすぐ運べるように食卓が出来るだけ近くに寄せてあり、玄関への扉を挟んだ窓側にテレビとソファがある。よく考えてみると、テレビが日の当たりやすい窓側にあるのはテレビを見る時は部屋を明るくすると言うお決まり文句を果たすためなのか。

何か当たり前のことなのに違和感がある。まるで今まで別の誰かを過ごしていたかのようだ。思い出してみれば今まで何か夢を見ていた気がする。

心にモヤモヤが残るままお母さんに尋ねる。

「昼ごはん何?」

「あれ? 冷やし中華食べたいって言ったの春じゃなかった?」

ん、春?

あぁ、自分の名前だ。

名前を忘れる程寝ぼけていたのだろうか。

「あ、そうだった。いただきます。」

冷たい冷麺と胡瓜が喉を通る。

とてもおいしい。やはり冷やし中華は冬以外はおいしい。

目もどことなく覚めてきたような気もする。

「春、今週の課題ちゃんとやったの?」

「課題? 何が?」

何かあったっけ。

記憶を辿っても何にも出てこない。

「金曜日に難しい課題あるって言ってたじゃない。」

「あ、やばい、忘れてた。」

「ならそれ食べて早くやりなさい。」

「はーい。」

ちょっと早く食べないと間に合わないかも。急がないと。

「ごちそうさまでした。」

お皿をシンクに置いてまた階段を上る。途中で躓いてヒヤッとしたが、体勢を立て直し部屋に戻った。

部屋に戻った時、先程一階に行った時に感じた違和感がまた頭の中を辿った。

部屋の構造がやっぱりおかしい。こんなL字型の部屋ではなかったはず。カーテンもこんな模様じゃなかった。

そんなことを考えつつカーテンを開けた。その瞬間日が差し、薄暗い部屋が少し眩しく感じる程に明るくなった。

やはり、窓の外に見える風景にも違和感がある。

正面に隣の家が見えるが、こんな街に住んでいたのかと思う程だった。

……いや、少し寝ぼけすぎだな。課題をやって意識を覚そう。一石二鳥というやつか。

課題の入っているはずの黒色のカバンを漁る。

……あれ?無い。机に出したっけ。

机に目をやり見まわす。

だが、視界が捕らえたのは机の上に散らばったプリントや菓子の包装紙だけだった。課題が見当たらないという現実が焦燥感を募らせる。

昨日片づけなかったっけなどと愚直な考えを持ちながら、心当たりのある場所をできる限り頭の中で探った。

そしてその探りの結果はプリントを纏める手を止めた。

「学校だ。」

そう口に出した瞬間だった。

机の上に置かれている異質な一枚の紙に気がついた。

その紙は別に異質というほど異質ではないが、何かの本の一ページを破り取ったようなもので、それは私に書道の清書半紙を思い出させる色合いをしていた。

その端には筆ペンのようなもので【こんにちは】とだけ書かれていた。

なんだろうこれ。寝ぼけて書いたのかな。少なくともこんな紙、記憶にはない。

すると信じ難いことに文字が浮かび上がるように見えた。

そんな非科学的な、どこかで見たことのある風貌でその文字は、一文字ずつ、一筆ずつ、私しかいないこの部屋でこの私に伝えてきた。

【名前はなんて言うの】

不思議なことに私の脳はそれの使い方を瞬時に理解したようだ。

ハリー・ポッターで見たかのような、その紙にボールペンで【杉田春】とだけ書いた。

若し、この使い方が合っているのならばこれを書いている私以外の人間がいることになる。

私が書いた物ではない、たった今書かれた文字を見た。

【そうじゃない】

そうじゃない? いや、私の名前は杉田春のはずだ。

でも相手が言わんとしていることは何となく分かった。

書く前から杉田春という名前には違和感があった。

今まで生きていた筈の別の人間の人生。その名前。

【柴咲めぐみ】

これが相手が望んでいる答えなのだろう。

そう書いてからこれまでの事が少しずつ思い出されてきた。今まで図書室のカウンターでいつものように本を読んでいて、久方の貸し出し作業を行って本のページを開いた瞬間眠くなってからは思い出せないのだが。まぁ恐らく眠ってしまったのだろうということは推測できる。

そしてもう一つだけ気づく事が有るとすれば柴咲めぐみという人間は杉田春という名前を知っているという事。

その事が生み出した仮定、それはここが≪ある雨の日の学校で≫の世界、つまり本の中であるという事だった。

これが本当に夢なのかはわからない。妙にリアルな夢で、先程食べた冷やし中華の味も実際に食べているかのように感じた。しかし、夢であれば目覚めるということが起きる筈である。

ただしかし、私は日頃から夢を見たとき、これが夢という概念に至ることはなかったということからするにこれは夢ではないのかもしれない。もし本当に夢なのであれば私は明晰夢と呼ばれる特徴的な夢を見ていることになる。

ーーいや、更に一つ言えることとするのならこの相手に聞けばわかるのではないか。

相手がこの世界の事を知っていないと【そうじゃない】なんて返答をしなかっただろう。

私は再びボールペンを手に取りペン先を出した。

【あなたはだれ、ここは「ある雨の日の学校で」の世界なの?】

何故か質問攻めのような文型になってしまった。

如何やら紙の状態が同期される仕組みらしい。先程から書かれた文字が消えていないところを見ると、ハリー・ポッターのようにインクが消えたりはしないようだ。空いている隙間に一筆一筆書かれていく。

【僕は照田大輔、君が求めている答えは鶴海夕かな】

鶴海夕……。忘れる筈もない。なにせ先程会ったのだから。本を借りにきた生徒だ。

もう既に紙の半分が文字で埋まっている。質問は厳選した方が良さそうだ。

【なぜ私はここにいるの?】

【本が好きそうだったから入れてみたんだ。】

この人は頓珍漢な回答をするものだ。もう余白は限られているというのに。

気づくとその限られている最後の余白を使って相手はもう書き始めていた。

【物語の進むままに進む。】

その文はなんとなく理解はできる気がする。ただこの今の現状だけで頭が追いつくのが精一杯だった。

「春、課題は終わったの?」

急に扉が開き肩が跳ね上がる。

「うわっ! びっくりした。お母さんか。ノックくらいしてよ。」

「したわよ。返事がないから入ってきたの。それで? 終わったのか聞いてるんだけど。」

怒られそうな気配がする。本の中とはいえ説教は嫌だな。

「あはは……学校に忘れたから取りに行ってくる。」

母の横を通り過ぎ階段を駆け下りる。後ろから母の声が聞こえたような気がするが何と言っていたかわからないままスニーカーを履き靴紐を結んで玄関を出た。

いざ本の世界であろう場所に来てみると読んでいるときに想像している景色と全く違うことがわかる。

というか、本の世界とは何だろう。何故、私の想像と違う世界なのだろう。此処は私の知らない何処かの地域なのだろうか。

これはどのような世界なのだろうか。まぁ彼に聞けばわかるだろう。疑問だけ生み出していても今はわからないままだ。

【物語の進むままに進む。】

これが正しいのならばおそらくは......。


片方の記憶を何とか辿り、学校についた。

本を読むときに特定の場所が出てくる場合、自分の記憶をもとに想像されることが多い。

つまり私は自分の母校の形を想像していたということだ。

なので片方の記憶で見慣れていたはずのこの光景も私にとっては新鮮に見えたわけだ。

何が言いたいかって、やっぱり目の前に見える学校には違和感があったのだ。

私の通っていた学校は二棟、目の前に見えている学校は三棟連なっているようだった。

校門は敷地の隅にあり、正面右に昇降口、その真上十数メートルに時計が掛けられている。時刻は八時四十二分程を指す。どうやら既に止まっている様だ。

門をくぐった時に空から落ちた水滴の一粒は先程母が伝えたかったのは「これから雨が降る」ということであったことを私に理解させた。

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