苦労に意味は存在しているのか

三鹿ショート

苦労に意味は存在しているのか

 燃え盛る自宅を前に、私は何も行動することができなかった。

 それは、衝撃があまりにも大きかったことが理由なのだろう。

 大枚を叩いて購入した自宅には、数多くの高級品を貢ぐことでようやく結婚することができた妻と、何年もの不妊治療の結果誕生した娘が眠っており、今さら救おうとしても無駄だということは分かっている。

 立ち尽くす私の肩に手を置いてきた男性は、眼前の私の自宅を指差しながら、

「逆らうとどのような結果を招くのか、これで理解することができただろう」

 男性がこのような非道なる行為に及んだのは、私が男性に協力することがなかったためなのだろう。

 犯罪行為だと理解していたために断っただけなのだが、それがこのような結果を招くことになるなど、分かるわけがない。

 男性は私の頬を平手で軽く叩きながら、

「これからは、私のために骨を折ってもらおう。そうしていれば、このようにきみの苦労が一瞬にして無駄と化すことはなくなるのだ」

 笑いながらその場を去る男性を、私は追いかけることができなかった。

 後日、私は制服姿の人間たちから事情を訊ねられたが、男性のことを口にすることはなかった。


***


 何十年にもわたる私の苦労は、男性によって奪われた。

 それは、人生の大半を奪われたということであり、これまでの苦労は無意味だということになる。

 妻や娘、そして自宅を得るまでに苦労した中で、学ぶことは多かったために、無意味だという結論は間違っているのかもしれないが、それらを取り戻すために同じような行為に及ぶほどの気力が今の私には存在していないことを思えば、正しいことだった。

 つまり、私にとって、今や苦労というものに意味は存在していないのである。

 何をしたところで奪われてしまう恐れが存在しているのならば、他者に命令されるがままに生きていた方が、喪失感に苛まれることもない。

 以前の私ならば、男性の命令など拒否をしていただろうが、今では犯罪行為だと理解していたとしても、黙々と作業を続けるだけだった。


***


 男性の仕事を知らないためか、男性の恋人は普通の人間だった。

 何処にでも存在しているかのような容貌ではあるが、男性の恋人であることが不幸以外の何物でもないというほどに、人柄が良かった。

 話を聞く限り、男性は学生時代から彼女に対して恋心を抱いていたらしく、何年にも及ぶ求愛行動によって、ようやく恋際するに至ったということだった。

 見かけによらず、男性もまた苦労しているのだということに気付いたとき、これは復讐の材料と化すのではないかと考えた。

 彼女が奪われたとき、男性が悲しみに沈むか、怒りを露わにするのかどうかは不明だが、確実に打撃を与えることはできるだろう。

 では、どのような方法で報復すれば良いのかと考えようとしたが、私は即座に思考を霧散させた。

 男性の命令によって、数多くの犯罪行為に及んできたが、何の罪も無い彼女を傷つけることに対しては、抵抗を覚えたのだ。

 他者の命令ではなく、己の意志で彼女を傷つけた瞬間、私は人間として終焉を迎えてしまうに違いない。

 多くのものを失ったとはいえ、人間であるということまでを失うわけにはいかなかったのだ。

 私は彼女に対する敵意を消すと、これまでと同じように、男性の命令によって動く日々を過ごすことに決めたのだった。


***


 男性が多くの人間の恨みを買っているということは、理解していたはずである。

 ゆえに、私がどれだけ我慢をしようとも、私以外の人間が彼女に危害を加える可能性は存在していたのだ。

 動くことがなくなった彼女の身体を抱きしめながら、男性は泣き喚いていた。

 これほどまでの悪人にも悲しむ気持ちというものが存在していたのかと、驚きと共に同情を覚えていたが、やがて男性は彼女を地面に置くと、私に振り返った。

 そして、彼女を指差しながら、

「これを、山奥にでも埋めてきてくれ」

 何の表情も浮かべることなく放たれた常のような物言いに、私は驚きを隠すことができなかった。

 目を見開いている私の様子から、そのことを察したのだろう、男性は口元を緩めると、

「私は彼女のことを愛していたために裏切ることはなかったのだが、彼女がこの世を去ったことで、私は彼女以外の女性の味を知ることができるようになったのだ。ゆえに、生命が失われたことに、意味は存在しているのである」

 そのように告げて、その場を去る男性を見て、私は改めて、男性の恐ろしさを知ることとなった。

 愛する人間を失ったとしても、気持ちを切り替えて歩くことができるその姿は立派だと言うこともできるだろうが、私にしてみれば、男性は機械のようだった。

 自分の人生のためならば、どのような行為にも迷うことなく及んでいくという姿を見て、最初からこの男性には敵うわけがなかったのだということに気が付いた。

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