第一章 ゆめうつつ

 数年ほど前、――正確には覚えていないが、気にする事はない――私は一人、ポート・グラスゴーへ向かう汽車の中にいた。連れは居ない。隣の席に腰を据え私と同じ景色を見ているのは、祖父の形見のトランクケースだ。随分とぼろぼろで削れた革の下から芯材が見えているばかりか、角を留めている金具のひとつは、いつの間にかどこかへ行ってしまっている。人は少なく、やけに静かで、車輪と線路が擦れる音や窓枠や座席の軋む音だけが大きく聞こえている。汽車の駅に足を踏み込んでこの座席へと腰を下ろした時は、これまでに無いほどに心が踊っていたような気もするが、今ではもう、この目の前に広がる客車の景色にも飽きてしまった。

 外の冷たい風がガラス窓の隙間を通り抜けて頬を刺した。息をする度にガラスが曇るのが鬱陶しいのでコートの袖で拭うと、客室に入り込んで窓の内側に着いた煤と自分の息から出た水滴の混ざったものが袖を汚した。私は落胆したが、着古して糸のほつれたコートが汚れたところで、何を今更と言ったところだ。いずれ他の染みと混ざり、気にもならなくなるだろう。私のため息に返事でもするかのように、隣の席に置いた錆色のトランクケースが、その見た目の重量感に見合わぬ軽い音を立てて揺れた。もしも他人がこれを持ち上げたとしたら、そのあまりの軽さに拍子抜けて、きっと重いのだろうと力を込めて構えていた腰を痛めてしまいそうだ。それを想像してみると、なんだか笑えてくるのだが、この軽い鞄に私の財産が全て詰まっている事を思い出すと、その笑いは瞬時にどこかに消え失せて、私はただ惨めな気持ちになるばかりであった。

 連れの人間がいたら、もしくは今ここで友ができたとしたら、もう少しばかり楽しめただろうか。汽車での一人旅と聞くと、突然現れて「隣に座っても?」などと声をかけてくる図々しい人間にうんざりしながらも、機嫌のいい風を装って迎え入れ、陽気な隣人の話を聞くうちに気を許し、自分も色々と喋るようになって、汽車を降りる頃には友になっている、というような物語を思い出す。汽車に乗る前には、私にもそういう一時の友ができるのではないかと憧れを抱いてしまったものだが、生憎、私にそういう人の訪れる運は無かったようだ。では、自分が声を掛ける側の人間になれば良いのでは? 残念だが、そう簡単な話ではない。浮浪者と変わらない見た目の人間が、気さくな旅人のように振舞ったところで、それはただの気さくな浮浪者に他ならず、その見た目である以上は、それなりの知識と清潔感のある人間であれば、警戒して断るだろう。何もそれが悪いとは言っていない。神でもなければ、人の外見だけを見て自分にとって安全かを推し測る事など到底不可能なのだから。

 私は窓越しに灰色の空を睨んだ。あの忌々しい霧め! 冬空め! まるで空全体が葬式でもやっているのではないかというほど暗く辛気臭いお前さんにも、この私の感情がただ下方へ向かい続けている事について少しの責任はあるのではないか? こんな思いをしてまで、私が故郷のメアリーポートに別れを告げて慣れない汽車に乗っているのは、ただの旅行などではない事はわかっていただけるだろうが、もしこれが只々楽しいだけの旅だったら! 寒い客室で一人惨めな思いをする私はただの夢で、目を開ければ私は素晴らしい春風の吹く行楽地へと向かっているのだとしたら! どれだけ嬉しかっただろうか。しかし目を開けたところでこの眼は殺風景な車窓からの景色を映すばかりで、やはりこちら側が現実なのだと思い知らされる。私は嫌になって、コートの襟を高く立てると、そこに顔を埋めて縮こまるのだった。

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