第7話 アンドロイドは冷やせない

「――さん、心優さん!」


 意識の遠くで、そう私を呼ぶ声がした。

 少し低くて、優しい声が耳元で聞こえる。

 アラームが鳴るより先に、そうして私は覚醒した。


「うぅん、どうかしたの……?」


 重い瞼を持ち上げて、視界を開く。

 目の前――鼻先が触れそうなほどすぐ間近に、琉夏の綺麗な顔があった。


「――きゃぁあ!?」


 驚いて変な声をあげてしまった。

 ばっと起き上がって離れようとすると、ベッドから落ちそうになる。

 慌てた琉夏に、後ろから抱き留められてしまった。


「大丈夫ですか!?」


「ごめん、大丈夫……。」


 いつも通り背を向けて寝たのに、目の前に琉夏がいて驚いてしまった。

 そりゃあ寝返りを打つこともあるし、琉夏はぴったりくっついているのだから、こうなることだってあり得る。

 何をしているんだ私は。過剰に驚いて、琉夏を心配させてしまった。


「本当に、大丈夫ですか? 顔をぶつけたりしてませんか?」


「してないよ。……大丈夫だから、ちょっと離してほしいなぁ、なんて。」


 ぎゅっと抱きしめたまま顔を覗き込んでくる琉夏に、顔を見ないまま頼む。

 顔が赤くなっている気がして隠しているだけで、どこもぶつけていない。


「わかりました。驚かせたようで、すみません。」


「大丈夫。過剰に驚いちゃったね、ごめん。」


 琉夏がそっと手を離してくれたので、ベッドから降りてスマホを手に取る。

 時刻は6時45分。スマホの画面を消して、琉夏の方に目を向けた。


「ところで、どうかしたの?」


「起きなくて大丈夫なのかな、と思いまして……。」


「ああ、ごめんありがとう。」


 確かに、私はいつも6時半に起きている。

 今日はアラームも鳴らず、私も一向に起きなかったから、遅刻を心配してくれたのだろう。


「今日は土曜だからいいんだよ。学校休みなんだ。」


「そうだったんですか。起こしてしまってすみません。」


 私が笑ってスマホの画面を見せると、琉夏は申し訳なさそうに謝った。


「いいよ。起こしてくれてありがとう。」


 言いながら窓の方へ行って、カーテンを開ける。

 大きな窓から光が差し込んで、部屋中が明るくなった。


「早起きした方が、琉夏と沢山話せるしね。今日は何しようか!」


「そう、ですね。おはようございます!」


 私が問いかけると、琉夏は思い出したように挨拶をしてくれる。

 私もニコリと笑って、「おはよう!」と返した。






 ――軽やかなピアノの音が響く。

 大きめの窓から入ってきた風が、音を拾って逃げていった。


 今日も琉夏は、昨日と同じ曲を弾いている。

 私が聴きたいと頼んだからだが、本人も楽しそうだ。


 私と話している時も、買い物をしている時も、掃除をしている時も、琉夏は楽しそうに微笑んでいる。

 それでもやっぱり、今が一番楽しそうに見える。


 それだけ、この曲が大好きなのだろう。

 琉夏がこの曲を愛しているから、こんなに素敵で、暖かい曲になるのだろう。


 演奏が終わり、琉夏が鍵盤から手を離す。

 私はすぐに、パチパチと手を叩いた。


「……やっぱり何度聞いても素敵な曲。琉夏が弾くから、こんなに素敵に聴こえるんだろうね。」


「それなら、琉莉が弾くともっと素敵になりますよ。」


 そして、この曲と同じくらい、いや、それ以上に琉莉さんのことが好きなのだろう。

 私にとって琉夏の演奏がそうであるように、琉夏にとっては、琉莉さんの演奏が何よりも素晴らしいんだ。

 少し複雑な気持ちになりながら、「そうだね。」と頷いた。


「――心優さん。」


「どうしたの?」


 少し沈黙があった後、琉夏が少し畏まって聞いてくる。

 どうしたんだろう、などと思いながら、首を傾げてみた。


「昨日、感想や思いは人それぞれだと言いましたよね。」


「うん。」


 確かに言った。それがどうかしたのだろうか。

 私がますます首を傾げると、琉夏は言い辛そうに口を開いた。


「その……心優さんが、この曲をどう感じたのか、お聞きしてもいいですか?」


「私が?」


 私が聴き返すと、琉夏は体ごと向き直って、真剣な表情で頷いた。


「知りたいんです。心優さんがこの曲を、どう感じているのか。」


 琉夏は、わからないと言っていた。

 好きだと、素敵だと感じていても、それをどう表すのかがわからないと。


「……好きだよ。雨音みたいで、暖かいから。」


「雨音?」


 私が零すように答えると、琉夏は不思議そうに首を傾げた。

 ピアノの流れるような旋律と、ぽつぽつと聞こえる雨音は似ても似つかないかもしれない。


「そう。私、雨音を聴くのが好きなんだ。」


 それでも私には、似たものに聞こえた。


「聴いていると、心が温かくなるような優しい音。この曲も、同じ感じがする。」


「……琉莉は、雨が苦手でした。濡れると冷たくなるから。」


 私が微笑んで返すと、琉夏が小さな声で言った。

 それもわかる。雨は一般的には、冷たいものとされるだろう。


「僕が外に出るのは、よく晴れた日でした。だから雨に触れたのは、この間が初めてなんです。」


 わざわざ天気の悪い日に、アンドロイドを外に出したりはしないだろう。

 となると、琉夏にとって雨は、中々悲しいものになっているのではないか。

 あの日の大雨は、琉夏の涙代わりだったのかもしれない。


「“共感もしてもらえないかもしれない”って言ったよ?」


「いえ、共感できますよ。僕も琉莉と同じで、雨は冷たいんだな、と思いましたけど――」


 琉夏はそっと目を閉じて、自身の左胸辺りを押さえる。

 優しく細められた水色の瞳が、真っ直ぐに私を見た。


「心優さんが声をかけてくれたので、暖かいです。」


 にこっと微笑む琉夏を、つい目を丸くして見てしまった。

 なんとなくドキッとしてしまって、慌てて目を逸らす。

 その視線こそが、暖かい。

 愛の籠ったその視線を、私に向けてくれることがあるなんて、思っていなかった。


「……ちょっと、私もピアノ弾いてもいい?」


「勿論です。どうぞ。」


 琉夏が立ち上がって、椅子を譲ってくれる。

 四角いピアノ椅子に座って、鍵盤に両手を添えた。

 琉夏の演奏が、耳の奥でまだ優しく響いている気がする。


 目を閉じて、そんな想像上の音に聴き入ってから、鍵盤を押し込んだ。


 後ろで見ていた琉夏が、息を呑んだ気がした。

 私が弾いたのは、琉夏がさっき引いたものと同じ曲。


「――どうかな?」


 流石に、初めの方しか弾けなかった。

 途中で曲を止めて、琉夏の方を振り返ってみる。

 琉夏は驚いたように丸くした目で私を見ていた。


「……知ってたんですか?」


「ううん、琉夏のを聴いて、覚えてみた。」


 琉夏はぱちぱちと目を瞬いている。

 私がピアノを弾けることも言っていなかったので、余計驚いているのだろう。


「連弾、したいなって。」


「……はい! 僕も、是非やりたいです!」


 琉夏は嬉しそうに目を輝かせて返事をしてくれた。

 そのためには、私がちゃんと弾けるようにならなくては。


「続きも頑張るから、教えてくれる?」


「任せてください。隣失礼しますね。」


 私が椅子の端に寄ると、琉夏が一言断ってから隣に座った。

 長方形タイプのピアノ椅子だから2人でも座れるが、少し狭くて肩が触れる。


「次はですね――」


 生き生きとした様子の琉夏の横顔は、綺麗で、それでいてどこか可愛らしい。

 私が弾けるようになったら、もっと喜んでくれるだろうか。


 頑張らないとな、と思って、琉夏の指先を見つめた。

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