第6話 アンドロイドはわからない

 今日も学校が終わるなり、早足で帰ってきた。

 ここまで早く帰りたいと思ったことなんて、初めてな気がする。


 琉夏を1人にしておくことに不安はない。

 ただ、私が琉夏と一緒にいたかった。


 今日は、琉夏は何をして待っているだろうか。

 何か面白い本でも借りてくればよかったかな。


 などと思いながら、屋敷のドアを開けると――


「……ピアノ?」


 ピアノの音がした。

 綺麗で、軽快で、しかしどこか力強い、流れるような旋律。

 ずっと無音だった屋敷中に、音楽が響いている。


 懐かしい。別の曲だが、おばあちゃんはピアノをよく弾いていた。

 ここに来ると、大抵こうして綺麗な音が響いていた。

 重厚で、けれども暖かいその音色が、大好きだった。


 琉夏が弾いているのだろう、ならばどこにいるかはわかる。

 荷物を置いて、奥の方の部屋に向かう。

 どんどん進んでいく音が、よく聞こえるようになっていく。


 ピアノのある部屋は、ここだ。

 ここも掃除しなかったが、昨日掃除してくれていたのだろうか。

 ドアを開けると、演奏が止んだ。


 立ち上がった琉夏が、私の方を見て微笑む。


「心優さん、おかえりなさい。」


「ただいま。ピアノ弾くんだね?」


 ピアノの横まで行きながら、少し首を傾げて見せる。

 琉夏は照れたように笑って頷いた。


「すみません、勝手に。」


「何でもしていいって言ったよ? それに、私もピアノは好きなんだ。」


 琉夏の弾く曲が何かはわからないけど、気に入った。

 おばあちゃんのものとは全く違う音色だが、暖かくて、落ち着く。


「ありがとうございます。」


「琉莉さんがピアノ弾けたの?」


「琉莉は、子供の頃にピアノを習っていたそうです。」


 私が聞くと、琉夏は嬉しそうに頷いた。


「家にもキーボードがあって、よく弾いて聞かせてくれました。ピアノを直接見たのは初めてで、つい弾いてみたくなってしまって。」


「流石にマンションじゃ、ピアノは弾けないもんね。」


 そう広くない所なら、サイズ的にも音量的にも厳しいだろう。

 それでもキーボードを弾くほど、琉莉さんはピアノが好きだったのか。


「琉夏も、それを聞いて覚えたの?」


「いえ。琉莉が連弾をしてみたい、と言って、そのために僕も楽譜を読んで覚えたんです。」


 琉夏は懐かしむように目を細めて笑う。

 やっぱり、恋する青年のような、優しい表情。


「2人で弾くには、かなり窮屈だったんですけどね。楽しかったです!」


「連弾かぁ。いいね。」


 琉夏は柔らかい表情で、そっと鍵盤を撫でた。

 本当に、彼は琉莉さんのことが好きだな。

 琉莉さんとの思い出が沢山詰まっているから、音色が、こんなに暖かいんだ。


「楽しいですよ。おすすめです。」


「確かに、楽しそうだね。」


 少し離れた場所にある椅子のところまで行き、ピアノの方に向けて座る。

 琉夏に目を向けると、琉夏は不思議そうに首を傾げた。


「もう1回、さっきの曲弾いてくれない? 私は聴いてるから。」


「わかりました。」


 琉夏はもう一度ピアノ椅子に座って、両手を鍵盤に添えた。

 少しの間の後、音が鳴り始める。


 さっき聞いたのと同じ、優しい音色。

 長調のメロディーに合わせて、琉夏の指が鍵盤の上で踊る。

 楽しそうで軽い、けれども力強い旋律。


 琉夏は微笑を浮かべて、薄く開いた水色の目で鍵盤を見つめている。

 幼いような、大人びているような、整った綺麗な顔。

 優しい温もりを持っていて、キラキラと輝いている、朝の水面のような瞳。


 曲も、弾いている琉夏自身も、楽しそうで、愛おしい。

 綺麗で、どうしようもなく大切なものに思えてしまって――つい、手を伸ばしたくなってしまう。

 近くでじっくり聴いても、やっぱり暖かい、素敵な音だ。


 この曲には、どれほどの想いが詰まっているのか。

 琉夏は今、何を思ってそれを奏でているのか。


 到底知れないものを、知りたい、と思ってしまう。

 聴きたいと思ってしまう。


 ――……。


 じっくりと聴き入っていると、最後の1音が鳴り、琉夏の指が宙に浮く。

 両手を降ろした琉夏は、身体ごとこちらを向いた。


「やっぱり、すごく素敵な曲。何て言うの?」


 ぱちぱちと拍手をしてから、琉夏に問いかける。

 こんなに素敵なのに、聴いたことのない曲。

 琉夏は少し考える素振りを見せてから、困ったような顔をした。


「わからないんです。……琉莉は、教えてくれなかったので。」


「そうなんだ?」


 少し悲しそうに答える琉夏も、曲名が知りたかったのだろうか。

 聞いても答えてくれなかったのか、そんな話にならなかったのか。


「僕は、この曲が好きです。なのにこの曲のことは……何もわからないんです。」


「そうなの?」


 琉夏は鍵盤に手を添えて、ますます悲しそうな顔をした。

 白鍵を押してしまったようで、ぽーんと、1つ音が鳴った。


「初めて、琉莉にこの曲を聞かせてもらった時、琉莉に買ってもらった日、すぐに好きになりました。でも、何も言えなかったんです。ただ、すごいとしか。」


「最初なら仕方ないよ。」


 勿論アンドロイドなのだから、起動したばかりでも、何も知らないわけではない。

 大人の人間くらいの知識は供えられているし、感情を表す言葉だって知っている。

 けれど、その言葉と感情が、結びつかないのだ。


「今なら、好きだって言えるんですけどね。それでもまだ、この曲の魅力をどう表現するかは、わからないんです。」


 琉夏は困ったように眉を下げて、じっと鍵盤を見つめている。

 反対の手で、無意識に左胸を押さえていた。


「……わからなくても、いいんだよ。」


「ですが、わからないと――」


「いいんだよ。」


 驚いたような、焦ったような顔で私を見た。

 きっと琉夏はその時、琉莉さんにちゃんとした感想を伝えたかったんだろう。

 どうしようもないほど好きな気持ちを、わかってほしかったのだろう。


「感想や思いは人それぞれだから、いいんだよ。私もこの曲が好きだけど、私が感じたことは、きっと琉莉さんとも、琉夏とも違う。共感もしてもらえないかもしれない。けど、ちゃんと好きなんだ。」


「それに、」と私が続けると、琉夏は開きかけた口を閉じた。

 何を言おうとしたのか気になるけど、先に言っておくことにする。


「今でもわからないのは多分――自分でも把握できないくらい、大好きだからだよ。」


 琉夏は数度瞬きをして、ゆっくりと私の言葉を飲み込むように、目を閉じた。

 再び開いた水色の瞳が、じっと私の目と合う。


「そう、なんですか……。心優さんは、まだ学生なのに、物知りですね。」


「そんなのじゃないよ。私もこれは、最近気づいたから。」


 柔らかく微笑んだ琉夏に言われ、首を横に振った。

 自分の口角が上がっているのを感じる。


 勿論、琉夏の気持ちだってわかる。最近、本当につい最近、感じ始めた。

 自分の好意を理解できない、言葉に表せない、というのは、中々不便なものだ。


 本当に、この身に余る感情は、どこへ持っていけばいいのだろうか。

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