ひらひら(三)
おじちゃんが、フィレオフィッシュやポテトのかけらと格闘している間、私はコーラを飲みながら、苦手な古文の宿題と格闘していた。
すると、食べ終わったおじちゃんが眠そうな声で、イチカー、おいちゃん、思うんだけどさと声をかけてきた。
「どうしたの?」
たしかにおいちゃんも、古文の文法は嫌いだったけれど、今思うと、やっぱり、古文は習ってよかったと思うんだ。
「そんなこと、考えていたの?」
うん、古文っていうのは、日本人の心のアルバムだと思うんだ、むかし、私たちの先祖はこういう言葉を使って、こんなことを考えていましたって、振り返る時間がいる気がする、いまのイチカはそんな時が来るとは思っていないかもしれないけれど、じぶんの子供の頃の写真とかを見たいなと思うときがやって来ると思うんだ、そのとき、アルバムがないと自分を振り返ることができないじゃない、古文の授業がなくなるってのは、そういうことかもしれないねえ、アルバムの開き方がわからなくなってしまう。
「ふーん。なるほど。何となくわかる話ね」
イチカ、世界にはね、自分たちの先祖の言葉も文字も使うことが禁じられている人々がけっこういるんだよ、そういう人たちに比べたら、それはあんまり行儀のよい言い方ではないけれど、イチカやおいちゃんは幸せだと思うよ、高島俊男って人が、文化はひらひらだと言った、ひらひらがなくても社会は成り立つけど、それはさみしいことだし、ほかの国からばかにされるとおいちゃんは思うよ、日本はいちおう先進国を名乗っているわけだから、古文はまさしく、そのひらひらのひとつなんだよ。
「むずかしい話ね」と私がプリントに答えを書きながら言うと、そう、むずかしい話だし、おいちゃんの答えが合っている保証はないし、たぶん、生まれや育ちのちがう人はまた、別の考えを持つだろう、それはつまり、正解のない問いだということだ、でも実は、おいちゃんは、この問題について、あんまり深く考えることができないんだ、とザリガニが言った。
「どうして?」
だって、古文が不要で学校の授業から除こうと考えている人なんて、ごく一部だし、その人たちの中で権力を持っている人はいなさそうだからさ、潜在的に、良識ある多くの日本人は本能的に古文を、ひらひらを求めているような気が、おいちゃんにはするのさ。
難しい話で、どう答えていいのかわからなかったので、私は黙って宿題を片付けた。
私の宿題が終わったのを知ると、おじちゃんが、憑物語のオープニングをリクエストしてきたので、私はユーチューブの動画を再生してあげた。
緑色の目をした女の子が画面狭しと映っているのを見ながら、私もすこしだけ、どうして古文が必要なのか考えた。
「むずかしいことはわからないけど、現実に古文の授業があって、テストで悪い点を取るわけにはいかないから、勉強しないといけないのよね、実際問題」
私が水槽に向かってそう言うと、おじちゃんは、その通り、いい高校に入れないからな、と応じた。
「いい高校に入ると、なにかいいことがあるのかな?」と私がたずねると、おじちゃんは、いいことはないかもしれないが、いやなことがすくなそうだとは思わないかい、と言ってきた。
残してあったフィレオフィッシュのかけらを再度、おじちゃんにあげながら、私は「そう言われれば、そうかもしれないね」と言葉をかけた。
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