増田朋美

その日は、午後から雨になるとか言うことでどんよりしたくもり空の日であった。そういうわけで外に洗濯物を干している家庭は少なかったが、曇っているので、そうなっても仕方ないといえば仕方ないのだが、人間はそうではないと思ってしまうところがあるから不思議なものである。

さて、その日もいつも通り、杉ちゃんが水穂さんにご飯を食べさせようと、一生懸命食事を作っていたときのこと。

「こんにちは。こんな時間に申し訳ありませんが、ちょっとお願いしたいことがございまして。」

と、一人の女性が、製鉄所を尋ねてきた。ちなみに、製鉄所と言っても、鉄を作るところではなくて、居場所のない女性たちに、勉強や仕事をする部屋を貸し出している福祉施設であった。

「おう、お昼の支度で忙しいときに、なんのようだ?」

と、杉ちゃんが、玄関先に行ってみると、そこには持田敦子さん、みんなからもーちゃんと呼ばれている女性が立っていた。なんだか、右手に大きなカバンを持っている。

「あの、すみません。右城先生いらっしゃいますか?」

もーちゃんは、息を弾ませて聞いた。

「はあ、今寝てますけど?」

杉ちゃんが言うと、

「それでは、レッスンしていただくわけには行きませんか?」

というのである。

「まあできるかもしれないけれどさ、でも、どうせなら、ご飯食べていったら?何も食べてないで、勢いで来ちゃったんでしょう?それなら、何もいいこと無いよ。」

杉ちゃんに言われて、もーちゃんはでも、といったが、

「いいから食べてけよ。どうせ、余っちゃうから、食べてもらったほうがいいんだよ。さ、あがんなあがんな。」

と、杉ちゃんが言うので、では上がらせていただきますともーちゃんは、製鉄所の建物内にはいった。杉ちゃんと一緒に食堂へはいったもーちゃんは、食堂の中にうまそうな匂いが充満しているので、思わずよだれを垂らしそうになってしまった。

「ちょっとそこで待っててや。今、ご飯出すからな。」

杉ちゃんに言われてもーちゃんは椅子に座った。しばらくすると、白いスープに、透明なきしめんのような感じの麺料理が、もーちゃんの前に出てきた。

「なんですか、これは?」

と、もーちゃんが杉ちゃんに聞くと、

「ああ、何でもタンミョンというすごい言いにくい麺料理なんだって。まあいいから食べていけよな。きっとうまいぞ。」

と杉ちゃんから答えが帰ってきたので、吹きながら食べてみたところ、かなり歯ごたえがあって、クチャクチャした麺であった。こんなもの、水穂さん食べるのかなと思ったが、それは言わなかった。

「よし、水穂さんに食べさせよう。」

杉ちゃんはその麺料理を丼に盛り付けた。そして、食べ終わったもーちゃんに、お盆を渡して、水穂さんに持っていってくれと頼んだ。何だ私はお毒味役だったのねともーちゃんは言うが、杉ちゃんは気にしなかった。

「水穂さんご飯だぞ。今日も、食べてもらわないと、力がつかないぞ。」

杉ちゃんともーちゃんは、四畳半へはいった。水穂さんは、目を覚まして、ヨイショと布団の上に座った。もーちゃんが以前会ったときよりも痩せていて、窶れていた。そうなると、やはりご飯を食べていないんだなと言うことがもーちゃんにもわかった。どうしてご飯を食べないんだろうなと思わず考えさせられてしまった。どんなに重い病気の人だって、ご飯を食べようとしない人は居ないはずだ。よほど、食欲が無いとすれば、拒食症とかそういうものだろうが、変に体重にこだわるようなきっかけも無いし、どうしても理由がよくわからないのであった。とにかくどうしてなのだろうと考えてしまうほど、水穂さんは窶れて痛々しい風情であった。

「今日は、こいつがな、お前さんに用事があるんだって。まず初めに、こいつの用事を、教えてもらおうかな?」

杉ちゃんに言われて、もーちゃんは、丼をサイドテーブルの上に置いて、

「あの、すみません、えらく疲れていらっしゃるときに申し訳ないんですが、昨日から、主人が出張で、1ヶ月間大阪へ出ることになりまして、その間に、自分の本当にやりたい曲をやってみたいということになり、それで、こちらの曲をレッスンしてもらえないかと思いましてこさせてもらいました。こちらの曲なんですけど。」

そう言って、カバンを食堂に忘れていたことに気が付き、急いで取りに行った。全くあわてんぼうだなと、杉ちゃんは言った。直ぐに戻ってきて、彼女は楽譜を見せた。どうもそれは、海外の楽譜であるらしくて、青い表紙が特徴的な楽譜であった。

「はあ、モーツァルトの、ピアノソナタですか。」

水穂さんは、そういったのであった。

「何番ですか?」

「えーと、12番です。ずっと憧れていましたが、一楽章だけでも弾いてみたくて。憧れの曲だったんですよ。」

もーちゃんが答えると、

「じゃあ、わかりました。それでは、ちょっと弾いてみてください。この第1楽章でよろしいのですね?」

水穂さんは、にこやかに言った。

「お願いします。」

もーちゃんは水穂さんに頭を下げると、ピアノの前に座って、ピアノを弾き始めた。それが結構上手な演奏で、よく練習しているなと思われる演奏であった。

「意外によく弾けているじゃないですか。一生懸命練習されたんですね。いつから練習を始めたんですか?」

水穂さんがそうきくと、

「昨日からです。」

もーちゃんは正直に答える。

「昨日、主人がでかけていって、それで、またピアノができるって、ひっきりなしに練習してました。」

そう言ったので、水穂さんは驚いてしまったようで、

「そうですか。それにしてはお上手ですね。一日で、演奏ができてしまうなんて、ちょっと驚きですよ。それなら、少しずつ修正していきましょうか。まず初めに、掲示部をもう一度やってみましょうね。アルベルティバスの音は、もう少し落としましょうね。それでは、どうぞ。」

と、彼女に言った。もーちゃんはわかりましたと言って、直ぐに弾き始めた。今度は左手の伴奏を、もう少し静かに弾けるように、気をつけていた。

「そうですね。あと、右手と左手の音のバランスですよね。伴奏がけたたましくなってはいけないでしょう。それも気をつけてください。」

と水穂さんに言われて、もーちゃんはそれも気をつけた。

「なかなか良い演奏になってますね。持田さん、本当に、ピアノ演奏は誰かに師事したことは無いんですか?子供の頃とか、誰かに習って居たのでは無いですか?」

水穂さんは、そう彼女に聞いた。

「ええ、種明かしすると、結婚する前は、ピアノが本当に好きで、音大の先生まで習いに行ってました。結婚して、家庭持ってからは、やめたほうが良いって言われて、それでやめましたけど。」

「はあ、やっぱりそうですか。それくらい演奏技術ありますものね。」

水穂さんがそう相槌を打つと、

「まあ、そうなのか私はわかりませんが、なんだか、未練たらしいやつですよね。結婚して、もうピアノとは縁を切るんだって言ってたのに、まだ、ピアノを弾いているんですよ。それで、毎年最下位だけど、コンクールにも出て。まあ、それでは、中途半端なことはわかっているんですけどね。でも、やりたいんですよ。」

と、もーちゃんは言った。

「今の主人、あんまり音楽に理解ある人では無いけれど、それでも、一緒に生活して行くことを選んだわけですし、私の家族も、周りの家族も、お互い理想的な結婚だったって言われてますから、ピアノができなくても、まあ気にしないかな。それができないだけで、あとは、何も不幸なことは、無いんだから。」

「そうなんですね。」

水穂さんはそういった。

「へえ。離婚して、好きなピアノに打ち込もうと言う気持ちにはならないんだね。それが、今の若い女性にはない、奥ゆかしいところだなあ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ。だって、それ以外は何も不幸なことはないもの。仕事もできる人だし、よく発言もするし、体も強くて、全く健康。それ以外、幸せなことはありませんよ。それを壊して、ピアノを貫くなんて、私にはできませんよ。私は、もうこの人を選んだんだって、そういう気持ちになってますから。大丈夫。」

もーちゃんは、にこやかに笑った。

「そうなんだ、それは良いな。今の女性だと、ちょっとしたことで直ぐ離婚してさ、生まれた子供が大迷惑っていう例が非常に多いじゃないか。それをしないってことは、今の女性には無いすごいものを持ってるぞ。それは、自信持っていいぜ。ただ、あんまり我慢しすぎて、自分が鬱になったとか、そういうことは無いようにね。それは気をつけろよ。」

杉ちゃんに言われて、もーちゃんは苦笑いしながら、

「ええ。大丈夫です。あたしは、こうして、ガス抜きができるんですから、それも幸せだと思っています。」

と、言ったのであった。杉ちゃんも水穂さんも、すごいなという顔をして彼女を見た。彼女が、そういう思いがあると知った水穂さんは、自分もなにかしようと、考えたらしく、

「じゃあ、音楽を、一度は、本格的に勉強しようと思われたことがあるわけですね。」

と、小さい声で言った。

「そうなんですといえば、そういうことかな。あたし、音大の先生にちょっと習いましたけど、本当にちょっとだけですから、大して習ったりしませんよ。だけど、本当に、ちょっと習えたら、もっと幸せになれるかなと思うんですけど。まあ、一ヶ月だけでも主人が大阪へ行ってくれたから、その間は、一生懸命ピアノをやります。」

もーちゃんは、直ぐに答えたが、

「そういうことなら、こちらも指導者として、しっかり教えなければなりませんね。それでは、まず初めに、その楽譜は、ヘンレ版ですよね。ヘンレ出版社。ドイツの有名な出版社ではあるんですけど、それがすごいものだと叫ばれているのは日本だけです。本来、本格的に勉強しようとするんだったら、エドウィン・フィッシャー校訂版とか、そういうものを使うはずなんですよ。それを、使おうと言う気にはなりませんか?」

水穂さんは、指導者らしく言った。

「エドウィン・フィッシャー校訂版?それなんですか?」

もーちゃんが聞くと、

「例えば、作曲者の意志を知りたいというのであれば、ヘンレ版などの原典版は非常に役に立つんですけど、必要最小限の指示しか書かれていないので、ペダリングの指示などは読み取ることはできません。それを知りたいのなら、後に弟子として有力な人物や、研究者として著名な人物が指示を付け加えた、校訂版に頼ることになります。本格的に勉強したいんだったら、原典版だけではなくて、校訂版を一緒に弾いてみる必要があるでしょう。」

と、水穂さんは言った。

「どの作曲家でも、いろんな人が校訂版を出していますが、有名な校訂版というのがあるんです。バッハでしたらガセッラ校訂版、ベートーベンでしたらシュナーベル校訂版、ショパンでしたらミクリ校訂版とかが著名ですよね。本格的に勉強したいというのであれば、それも一緒に購入して、原典版と並行して学習すると良いと思うんですよ。幸い、今の時代は、通信販売で購入できますし、いかがでしょう。モーツァルトの、エドウィン・フィッシャー校訂版を使ってみてはいかがですか?」

「逆に、そういう著名な版で勉強できなかったって言うんだったら、それでは、先生が職務怠業ということになるな。だって、ピアノを本格的に習いたくて音大の先生に習ったんだろ?単に趣味だけでやりたいんじゃ、音大の先生にはならわないよな。そういうことなら、有名な校訂版を使わないというのは、ちょっとおかしいっていうか、変だよね。なんか、その先生、ちょっと困った先生だよな。ちゃんとした教材を使わせないなんて。」

水穂さんの発言に続いて、杉ちゃんが言った。

「そんな、偉い先生が職務怠業なんてするでしょうか?それに私は、音大の先生についたと言っても、ただ、ちょっと習ってみたくて、始めて見ただけですよ。それなのに、そんな本格的な教材を使ってみろだなんて、私、プロのピアニストでも無いわけですし。」

もーちゃんはそういうのであるが、

「いやあ、そうかな?だって、そういうことなんだったら、あれだけうまくモーツァルトのソナタを弾きこなすことはできないと思うぞ。それくらいお前さんの演奏はうまかった。それにさ、ピアノの先生っていうのは、えこひいきしちゃだめで、平等にピアノを教えていかなければだめなんだぞ。だから、いい教材があったら、直ぐに使わせないと駄目なんだよ。それくらい、わからないとね。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「ちなみに、エドウィン・フィッシャー校訂版は、クルチ社というところで出ていますから、海外の楽譜に強い、楽器屋さんで入手できるんじゃないかな。例えば、浜松のヤマハとか。」

水穂さんがそう言うと、

「いいえあたしは、そんなすごい楽譜を使える資格ありません。だってあたしは、もうピアノはやめちゃったんだし。無理なことは無理ですよ。それに主人が帰ってきたら、同じ楽譜を2冊買うなんてなんて無駄使いをしているんだとか言われちゃいますよ。それではいけませんから。それに、先生は、あたしはヘンレ版で十分だと言ってました。きっと私が、演奏の才能が無いので、それで、そういったんだと思います。そんなミクリ校訂版とか、そういうものを使える立場ではないんだと思いますよ。」

ともーちゃんは言った。

「それなら聞きますが、音大の先生についていたとき、他の生徒さんにも、その先生は、有名な校訂版を使わせなかったんですか?」

水穂さんが彼女に聞いた。

「例えばヘンレ版は青い表紙で著名ですが、ミクリ版というと、シャーマー社で出ていて、黄色い表紙がトレードマークみたいなところがありますけど?」

「そうですね。私の先生のところでも、ショパンのワルツとか、そういうものをやっている生徒さんはいましたが、その中にも黄色い表紙の楽譜を持っている生徒さんがいたという記憶はありません。」

もーちゃんは真面目な顔をして答えた。

「そうですか。それなら、音大を目指している生徒さんでも、黄色い表紙を持っている子は一人も居なかったんですか?」

水穂さんがもう一度聞くと、

「はい。居ませんでした。一人芸大を受験したいって言っていて、すごく上手い子がいましたが、彼女も、黄色い表紙ではなかったと思います。もし持っていたら、覚えているはずです。みんな普遍的に青い表紙を持っていましたから。」

もーちゃんは、ちょっと考えて答えた。

「そうですか。それでは、意味がないと言うか、その先生が、」

「それじゃあろくな人じゃないね。」

水穂さんと杉ちゃんは、即答した。それを聞かれてもーちゃんは、それは困るという顔をしたが、

「作曲家の事をちゃんと書いてくれる校訂版を用意できないで、何でもヘンレ版でいいで片付けちまう先生は、全然やる気ないってことじゃないか。それならお前さん、やめてよかったな。そんな変なピアノ教室、お前さんは脱退してよかったんだ。これからはさ、もっといい教材で、ピアノを勉強し直せや。」

杉ちゃんはまたカラカラと笑った。

「そうなのね。私、そんな事何も気が付かなかったわ。ヘンレ版で、何でも弾けると思ってた。それが大間違いだったのね。」

もーちゃんが少し落ち込むと、

「いやあ、落ち込まなくても良いんです。結局芸大を目指していた生徒さんは、芸大に合格したのでしょうか?」

と、水穂さんはもーちゃんに聞いた。

「いえ、しませんでした。結局、彼女は、何年か浪人したそうですが、それでも受からなくて、別の大学へ行ったと聞きました。まあ風のうわさですけど。」

もーちゃんが答えると、

「ええ、そういうことなんですね。それでは、答えが出ているじゃありませんか。結局、その先生は、優れた教材を使わせなかった罰で、その生徒さんを芸大へ合格させることはできなかったんですよ。そう思ってください。それに芸大を受験するのであれば、ヘンレ版で対処できるはずがないです。」

と、水穂さんは、にこやかに笑った。窶れた顔が、やっとほんわかさせてくれるように見えた。

「そうなのね。わかりました。私、一時期、あの先生のもとをやめて、もうだめなのかなって思ったこともあったけど、そういうことではなかったんですね。ありがとうございます。」

もーちゃんは水穂さんに頭を下げるのであった。

「いいえ、大丈夫ですよ。それでは良かったと思えてよかったじゃないですか。人間であればどうしても理不尽な事経験したりしますけど、どこかで理由をこじつけて、生きていかなくちゃいけないって事もあるんですから。それは、大事なことでもあるんです。」

水穂さんは、静かに言った。

「そうですね。あたし、良かったことだと思って、生き直して行かなくちゃなりませんね。」

もーちゃんは、にこやかに笑った。

「そういうわけだから、一応、問題は解決したわけだからな。ご飯を食べような。それでは、しっかり食べないと、このままでは、彼女に楽譜のこと、伝えていくこともできなくなっちまうぜ。」

と、杉ちゃんが、水穂さんの前に、先程の丼を差し出した。

「今日だけは吐き出さないで食べてもらうぜ。そういう楽しい気分になったんだから、食べられるだろ?ちゃんとピアノを教えるっていう、目的ができたんだから。」

杉ちゃんに言われて、水穂さんはわかりましたと箸をとった。そして、丼の中にはいっていた、透明なきしめんのような麺を、箸で取り、もう冷めてしまっていたそれを口に入れた。どうやらやっと、食べようと言う気になってくれたらしい。やっと咳き込むことはなく、食べてくれたのであった。杉ちゃんは、それを見て、

「ああやっと食べてくれた。これで作る苦労も報われたというものだ。本当に良かった。」

と、大きなため息を付いた。水穂さんは、もう一口、麺をとった。食べようか食べないか迷っているようであったが、

「水穂さん頑張って!」

もーちゃんは、水穂さんを励ましたのであった。


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増田朋美 @masubuchi4996

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