あなたの空色
梨雨
第一章 あなたの空色
猫の手も借りたい
鳴りやまない電話、あちらこちらに飛び交う冷たい視線とどなり声、コーヒーの香りを充満させるかの如く風を作りながら小走りする社員。白いマグカップに注がれてゆく熱々のブラックコーヒー。
ふとした瞬間、景色が歪み、徐々に暗闇が視界を覆う。何も考えられないまま重力に逆らえず、床に倒れこむ。何も見えない、何も聞こえない、何も感じない。ああついに俺も限界が来たのだろうか。だんだんと薄れる意識は、回転していない俺の脳みそに“死”の文字を連想させた――。
―――◇―◆―◇—――
「おい
「は、はい…。」
(今もう19時なんだけどな…)
「お前はこのオフィス内では一番タイピングが遅いらしいな。鍛えてもらえること、ちゃ~んと感謝しろよな。じゃ、俺は帰るから。」
「お疲れ様です。」
上司の
「大丈夫かよ
「ああ、もういい加減にしてほしいな。陸斗の方は?」
「実は明日締め切りの仕事が終わらねぇのよ…。」
苦笑交じりに愚痴をこぼす男、
今日は既に徹夜が確定した。今日で3回連続の徹夜となる。仮眠は合わせて二時間程度は少しずつ取っているが、陸斗はせめて四時間は寝ろという。ナポレオンは三時間睡眠だったと聞くが、どうやら俺含めここの社員はその記録をとっくに超えているらしい。
睡眠のことを考えるうち、少々眠気が襲ってきた。
正直寝てしまいたい気持ちも山々だが、今の俺にはそんな余裕などない。上司のせいなのか仕事の遅い俺自身が悪いのか、もうわからくなってきてしまった。
デスク上に用意している、白いマグカップに入れられた本日7杯目のコーヒーを口元に運ぶ。渋く香ばしいコーヒー豆の香りが俺の周りの空気を包み込む。この瞬間だけが、疲れた俺の体を癒してくれていた。
高校生までコーヒーをたしなむことができなかった俺だが、今はこうしてブラックコーヒーを一日何杯も飲むようになった。必然的なのだろうが飲めるようになって良かったと、たまった書類を視界に入れつつ思っていた。
しかし、カフェイン耐性がついてしまったせいだろうか。あまり眠気は取れなかった。
「優一お前それ何杯目だよ。致死量じゃねぇか。」
陸斗はこんな職場に勤めている割には健康に気遣うところがある。(いや、こんな職場であるが故だろうか?)こうして、冗談交じりな口調で俺の至福タイムにいちゃもんをつけてくる。
だまらっしゃい。
「人間ってカフェインとりすぎると死ぬんだぜ、優一もカフェイン中毒には気をつけろよー。」
「大丈夫だって。ほら、早く続きやるぞ。」
渋い表情を作る陸斗を横目に、俺は8杯目のコーヒーを取りに行った。
―――◇―◆―◇—――
この会話がフラグになるだなんてその時は頭の片隅にもなかった。
まあ今気づいたところで手遅れなわけだが―――。
そんなこんなで昨日、ついにカフェイン中毒になってしまった俺は、8杯目のコーヒーを淹れる最中に倒れてしまったらしい。
陸斗が、コーヒーを淹れるだけにしては遅いからどうしたのかと様子を見に来きたところ、意識を失っている俺を発見しすぐに救急車を呼んだそうだ。
陸斗いわく、そんな時ですら倒れた俺を横目にここの社員たちは自分の仕事を優先していたらしい。酷いことように映るが、そうさせたのはこの会社であり上の人間なのだ。俺含めこの会社の人間はどこか、正常な人間の思考を失ってしまっている。
カフェイン中毒になって、少しでもこの空間から、思考から免れられたのは幸いと言うべきか。(カフェイン中毒にさせたのも会社であるが…)
「休暇をとれ」
医者は、100万ボルトの圧力と目力で俺に休養を勧めた。(勧めるというより、半ば説教だった。)過労とも重なっていたらしく、仕事をこのまま続けるのは危険だというので、仕方なしに有給を使うことにし、五日間の休みを得た。
久々の休暇だ。
実に2年ぶりのちゃんとした“おうちタイム”である。
忙しいがゆえに、このアパートは単なる寝場所と化していた。
冷蔵庫は空っぽ、久しく使われていない暖房、いつまでも減らないキッチンペーパー。まるで生活感のない、実に素朴な部屋であった。
大学生の時からお世話になっている部屋だというのに、就職してからはだんだん家に帰る日数が減り、それに伴い物も減っていった。住んでから6年目にして、引っ越したばかりの時ような空気感がある。
大学時代の俺はあの時、どんな気持ちで真新しいドアを開けたのか―――。
思い出そうとしても無駄だった。よほど疲れているせいか。
もうあの頃には戻れない。痛感するには十分すぎる空間だった。
自宅での生活をするにあたって、食料品は必要不可欠だ。
先ほどの“目力医者”にはなるべく自炊をするように言われている。カフェインのとりすぎもそうであるが、あまりまともな食生活を送っていなかったっためか高血圧になりかけだったそうだ。
なんだかため息が出てしまう。
幸い、実家で暮らしているときから家事を任されることも多かったので料理に関してはあまり心配事はなかった。
「さて、買い物ついでに散歩でもしようかな。」
療養のためというのもあるが、ひさびさに付近の様子でも見に行こうかと考えた。この2年の間に新しいお店やカフェができているかもしれない。―――カフェイン禁止令が解かれたら行くことにしよう。
何か月かぶりにクローゼットを開けた。見ると中はガラガラで、仕事着や寝間着、他は片手で数えられる程度の私服のみ。まるでミニマリストである。
部屋の隅々にまでブラック社員の証が張り付いていて、だんだん腹が立ってくる。
少し気を落としていると、隅のほうに箱があることに気が付いた。
「青い箱―――。」
数十秒間をおいて、俺はその箱をクローゼットの外に引き出した。
―――見つけなければよかっただろうか。あまりいい気分ではない。できれば思い出したくなかったのだが…。
「あ、もうこんな時間。午前のタイムセールが終わっちまう!」
慌てて選んだ服の袖に腕を通した。
青い箱は太陽の光を反射して、かすかに壁に青色を映していた。
□ □ □ □ □ □
着替えが済んだ俺はリュックサックをエコバック代わりとして背負い、財布、ティッシュ、ハンカチ、予備のエコバック、それと―――
青い箱
「・・・・。」
中身は出さずに、箱ごとリュックサックに詰め込んだ。
冬が明けて間もない、桜の木が花弁をちらりと見せるだけの、“春”というにはまだおさないにおいをかぎながら、誰もいない部屋へと出かけの合図を告げた。
あなたの空色 梨雨 @amenomati
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