第2章 マリアンヌは勉強する
第58話 むり、むり、無理! できっこない!!
私はトルメン大学校から逃げた。
池に飛び込んで、溺れているチャールズさまを助けてから私の人生は一変した。
自分の善行が悪手になるなんて、思ってもみなかった。
婚約者がいるというのに、私になれなれしいチャールズさま。
それに嫉妬するリリアンさま。
空気を読み、嫌がらせに加担するクラスメイト。
その結果、私はひとりぼっちになってしまった。
大好きなピアノも弾けなくなってしまった。
大切なものも奪われてしまった。
そうなったのは、トルメン大学校の音楽科を選んだから。
ロザリーと違う学校に通うことになったから。
こんなに辛い思いをするのであれば、学校を辞めよう。音楽を辞めよう。
そう思って、夏季休暇中にお父様とロザリーに「学校を辞めたい」と打ち明けたのに。
☆
「私、このままでいいのかしら」
父に胸の内を打ち明けたあと、私は部屋に入り、ベッドにうつぶせに寝転がる。
私の感情のこもった滅茶苦茶な話を父は黙って聞いてくれ、「音楽は続けなさい、ピアノは最低三時間弾くこと」と言われた。それは明日からやらないといけないらしい。
「ピアノ、辛いなあ……」
明日から、弾きたくもないピアノを三時間。
それをやると思うと、自然とため息が出てしまう。
トルメン大学校に行く前は、三時間なんてあっという間だったのに。
(ピアノの演奏が楽しかったのは、ロザリーが傍で褒めてくれたから)
ピアノが弾けなくなったのは、虐めの他にロザリーがいなかったからだと思う。
もし、トルメン大学校の音楽科にロザリーと共に通っていたら、こうはならなかった。
ロザリーだったら、上手く立ち回れたはず。
「昔は、私がロザリーを引っ張っていたのに、今はロザリーがいないと何もできない」
私はぼそっと呟いた。
昔、五年前。出会ったロザリーは泣いていた。ひとりぼっちだった。
何故か、その泣き顔を見ていたら、笑顔にしたいと思い、ロザリーをクラッセル家の養女、私の妹として迎い入れた。
ロザリーは屋敷に迎えられて始めの頃は、大人しい子だった。
そんなロザリーを私は”姉だから”と色々な場所へ連れて行った。
演奏室で合奏したり、屋敷の外へ出掛けて洋服やアクセサリーを買ったり。
ロザリーは『マリアンヌお姉さま』と呼んで、私について来てくれた。
そうしてゆくうちに、ロザリーも元気になって、明るい女の子になった。
けれど、ロザリーの性格が明るくなってから、私と大きく差が出た気がする。
ロザリーはめきめきとヴァイオリンとピアノの演奏技術を向上させ、時折私を圧倒させる演奏をするようになった。大人しい性格は相変わらずだけど、自分の考えを私に伝えてくれるようになった。
そんなロザリーに相談することが多くなり、いつも彼女は私を助けてくれた。
いつの間にか、私はロザリーに依存していた。
ロザリーが傍にいないと、不安になるようになっていた。
それが、トルメン大学校の件で証明される。
「クラッセル子爵家はロザリーが継いだ方がいい、なんて……」
私は夏季休暇中、ロザリーに対する劣等感でいっぱいになり、そのような考えが頭にちらつくようになっていた。
そして、あの日の夕食、父とロザリーに「トルメン大学校を辞める」「クラッセル子爵家はロザリーが継げばいい」なんてことを言ってしまった。
「ロザリーは、私が拾った子なのに。お父様の子供は私なのに。私が全てから逃げたいがあまりにあの子に押し付けちゃった」
ロザリーにそう言えば、彼女はなんでも解決してくれる。
現に、私に変装してトルメン大学校に潜入して、進級試験を通過している。
味方は誰もいない、ひとりぼっちの教室で私の代わりに一人、戦っている。
「ごめんなさい……」
私は謝罪の言葉を口にした。
私のせいでロザリーが辛い目に遭っている。
このままだと自分が通っている学校の出席日数が足りなくて留年してしまうのに。
ベッドでうつ伏せになり、うだうだと後ろ向きなことを考えていた私は、ばっと顔をあげた。
ロザリーが学校を留年しない方法が一つだけある。
「今の私でもできること……、あるわ!!」
私はがばっとベッドから起き上がり、部屋から飛び出た。
階段を降り、父と話をしていた客間へと向かう。
そこには、ロザリーの学校の課題が山積みになって残っていた。
「マリアンヌさま?」
「それ、どうするの?」
客間にはメイドがおり、掃除をしていた。
私はそのメイドに課題の行方を尋ねる。
「子爵さまは、『今日中に処分するように』と。ですので、今から焼却処分しようと――」
「まって! その課題、全部私の部屋へ運んでちょうだい」
「え?」
「どうせ捨てるんでしょ? だったら私が持っていても問題ないわよね」
「は、はあ……」
あと少し遅ければ、処分されていたみたいだ。
この課題を出さなければ、ロザリーは留年になる。
父は『焼却処分しろ』とメイドに命じたのだから、彼女の留年は承知の上。
でも、私がそれを阻止する。
ロザリーを留年になんてさせないんだから。
私はメイドを引き留め、処分するはずだったロザリーの課題を部屋へ持ってくるように命じた。 想定外の命令に、メイドは狼狽えていたが「かしこまりました」と受け入れてくれた。
☆
ロザリーの課題を部屋に持ち込んだ私は、机の前に座る。
一番上に重ねられた紙を机の上に置いた。
「うっ、なに……、これ?」
紙には、楽譜のように文字がびっしりと詰まっていた。
難しい言いまわしで、何を問われているのかさっぱり理解できない。
時間をかけて解読した結果、これが音楽史の内容だと分かった。
「えっと、この時代は――」
さっぱりわからない。
他の課題も見てみたけど、教科が違うだけで私にはまったく理解できない問題ばかりだった。
「うー、むり、むり、無理!! できっこない!!」
私は勉強が苦手だ。
トルメン大学校でも、授業にギリギリついてゆけた程度。
ロザリーが通う学校はそれよりも難しい勉強をしていると聞く。
私が解ける問題なんてあるのだろうか。
「……でも、ひとりぼっちだった頃に比べたら、このくらいどうってことない」
私は一人で気持ちを奮い立たせ、ロザリーの学校の課題に挑む。
ロザリーを留年させないために、私も頑張るんだと。
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