第8話 初めての旋律

 クラッセル子爵、マリアンヌ、私の三人が揃うのは朝食と夕食の二回だけ。

 クラッセル子爵は、執務室で書き物をしたり、出掛けており、領地を管理する子爵として仕事をしている。

 マリアンヌは講師からマナーやダンス、刺繍など、淑女としての常識を学んだあとはずっと演奏室にこもり、ピアノを弾いている。

 私はマリアンヌと一緒に講師の手ほどきを受ける。

 始めは講師に注意されてばかりだったが、段々とマシになっている気がする。

 手ほどきを受けた後は、マリアンヌが弾くピアノの旋律を聞きながら、クラッセル子爵から貰った本を読んでいる。集中していると半日で一冊読み切ってしまう。


「ねえ、ロザリー」


 マリアンヌが手を止め、私に声をかけてきた。

 私は本に栞を挟み、顔をあげる。


「ピアノ、弾いてみない?」

「えっ」


 演奏室にはピアノが一つしかない。

 孤児院に持ってきたピアノよりも大きく、存在感のある白いピアノ。それを弾くマリアンヌの姿は美しいと思えた。孤児院に持ってきたのは持ち運び用のピアノで、屋敷の外の倉庫にしまってあるとか。

 白いピアノはマリアンヌが弾くもの。

 孤児の私が触れていいものじゃない。

 私は首をぶんぶんと振った。


「ほら、隣に座って!」


 マリアンヌは椅子の端に座り、開いた場所をポンポンと叩き、私を招いている。

 恐る恐る私はマリアンヌの隣に座った。


「鍵盤を叩いてみて」

「こ、こう?」


 私は見よう見まねで白鍵を叩く。

 マリアンヌが軽やかに弾くものだから、軽い力で押してみたが、全然沈まない。少し力を込めると、ポーンと音がした。


「どう?」

「意外と重い」

「そうかしら」


 マリアンヌは右手で簡単な曲を奏でる。ここから見ると、彼女の指使いが分かる。

 遠くで見ていた時は分からなかったが、マリアンヌは鍵盤を指先ではなく、指の腹で叩いている。それに動かし方に規則性がある気がする。

 マリアンヌの指遣いを見たうえで、私はもう一度白鍵を叩いた。

 指の腹で叩くと、鍵盤に力が伝わり、さっきよりも弱い力で音が出た。


「先ほどよりもいい音が出たわ! すごいわね!!」

「お姉さま、大げさでは……」

「いいえ! 少し練習すれば簡単な曲をお父様に披露できるかも」

「お義父に?」

「ええ! 今日は夕方ごろに帰られるはずよ。それまでに覚えましょう!」

「はい!!」


 マリアンヌのように、誰かにピアノの演奏を披露できる。

 それに初めてピアノで弾いた曲をクラッセル子爵に披露できる。

 やってみたい。クラッセル子爵に喜んでもらいたい。

 私は夕方までマリアンヌに教わりながら、ピアノの練習に没頭するのだった。



 日が沈みかけ、演奏室の灯りをメイドがつけてくれた頃、クラッセル子爵が帰ってきた。

 それまで私はピアノ椅子に座り、マリアンヌに教えられたとおりに何度も鍵盤を叩いていた。

 クラッセル子爵を出迎えようと、立ち上がろうとするも、マリアンヌに止められる。


「お父様をここに呼んでくるわ。ロザリーはここで準備していて」


 マリアンヌはぴゅーっと演奏室から出て行き、クラッセル子爵を連れてきた。


「お父様、早く!」

「マリアンヌ、強く引っ張らないでくれ」


 強引に連れて来られたクラッセル子爵は、ピアノの椅子に座った私を見て、驚いていた。


「ロザリー」


 クラッセル子爵が私の名を呼ぶと同時に、彼の隣に立っていたマリアンヌが片目を閉じ、合図をする。

 私は緊張で高鳴る鼓動を、深呼吸で鎮め、右手をピアノの白鍵の上に置いた。

 五本の指を教えられた通りに動かす。

 親指で同じ場所を二回、薬指で一回、小指で一回。

 一定の間隔で、白鍵を叩くと短音が旋律のように聞こえる。

 これが音楽。ピアノの演奏なんだ。


「素晴らしい!! ピアノなんていつ覚えたんだい?」


 マリアンヌに教えられた旋律を弾き終えると、クラッセル子爵が拍手してくれた。


「私が教えたの! ロザリーのお姉ちゃんだから」


 私とクラッセル子爵の間にマリアンヌが割り込み、彼女は私の代わりに胸を張って堂々と答えた。

 私は頷き、マリアンヌに教わったのだとクラッセル子爵に伝える。


「なるほど。ロザリーに楽器を教えるという考えはなかったなあ」

「私、ロザリーと一緒に演奏したいの! 確か、お父様ヴァイオリンが弾けたでしょ?」

「弾けたというか、それで生計を立てているというか……」

「ロザリーにヴァイオリンの指導をしてほしいの!」

「……ロザリーはピアノが弾きたいんじゃないのかい?」


 二人の会話に着いてゆけず、私はぽかんとしていた。

 ピアノの他に楽器があることは知っている。ヴァイオリンは張り詰めた弦を引いて音を奏でる楽器だ。知識として頭に入っているものの、どうしてヴァイオリンの話が出てくるのか、私が弾くことになっているのか理解できなかった。

 マリアンヌの話はたまに飛躍していて、理解できず首を傾げてしまうことがあったりする。

 今回はクラッセル子爵も私と同じ心境のようで、気分が高ぶっているマリアンヌに質問をしている。


「ピアノ二台で演奏する曲をロザリーが覚えるのは三年くらいかかるし、連弾する曲も限られていますわ。でも、ヴァイオリンでしたら、合奏曲も沢山ありますし、一年で叶うと思いますの!」

「えーっと、マリアンヌはロザリーと早く合奏がしたいんだね」

「うん! ピアノも私が教えます。ねえ、いいでしょ?」

「それはロザリーが決めることだ」

「えっと……」


 初めての演奏はとても楽しかった。

 弾けるように、繰り返し同じ曲を練習するのは大変だったが、それ以上に達成感があった。

 マリアンヌにピアノ、クラッセル子爵にヴァイオリン、二つの楽器を同時に覚えることは容易ではないのは先ほどの練習で分かっている。

 大好きな読書の時間も、無くなってしまうかもしれない。

 でも―ー。


「私、お姉さまと合奏したいです。ですから、お義父様、ヴァイオリンのご指導お願いします」

「……分かった」


 その日から、私はマリアンヌとクラッセル子爵から指導を受けることになる。

 それから五年、私は十五歳になった。


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