親鸞上人とバレンタインデー

仲瀬 充

親鸞上人とバレンタインデー

沙織は芳子に愚痴をこぼした。

「去年の田口くんにはあきれたわ。うち、浄土真宗じょうどしんしゅうだからって言ったのよ。バレンタインのプレゼントを断るのにそんな言い方ってある?」

「沙織はまだいいわよ。私はバレンタインデーなんか大嫌いだって言われた。教会で結婚式、初詣では神社、葬式は仏教、日本人は見境みさかいがないって」

「彼、中学校のバレンタインデーは安野ランキングでトップ争いしてたのに高校になって急に意固地になっちゃったわね。そのおかげで安野くんはトップとれてホクホクみたいだけど」


『安野ランキング』というのは、沙織や芳子と同じクラスの安野孝雄が自分のホームページで公開しているものである。

中学の入学祝いにパソコンを買ってもらった安野は、高校2年の現在まで学校内の様々なランキングを作成してアップし続けている。

美人ランキングは女子の顰蹙ひんしゅくを買って取りやめたが、もらったチョコの数によるバレンタインランキングやセレブランキングなどという部門まで毎年発表する。


「沙織は今年は誰にあげるの?」

「とりあえずは安野くんに義理チョコ。芳子は?」


「私も安野くんは外せないわね。ホワイトデーのお返しが豪華だもん」

「あれって自分がお父さんの後を継いで国会議員になったときの人脈づくりじゃないの?」


「安野くんにそこまでの頭はないわ。自分の作るランキングのトップ狙いよ。彼以外は?」

「本命はやっぱり田口くん」


「浄土真宗を持ち出して受け取らないんじゃないの?」

「今年は秘策があるの。芳子たちも協力してくれれば去年ゼロだった田口くんが中学のときみたいにトップ争いよ」


田口誠は貸しビル業を営む「田口ビルヂング」の御曹司おんぞうしで、中学生のときは安野ランキングのセレブ部門とバレンタイン部門で安野と常にトップを争っていた。

その田口が引け目を感じているのがこの二つのランキングでともに最下位の畑中健吾である。

畑中は成績ではクラスのトップだが、安野は自分が上位を取れそうにない部門はランキングを作成していない。


田口が畑中に一目いちもく置くのは成績もさることながらその人柄にある。

畑中の家は母子家庭で母親がパートを掛けもちして昼も夜も働いている。

そんな環境にありながらも卑屈になることなく淡々としていて成績もよい。

どうして女子たちは畑中の良さが分からないのか、田口は不思議に思っている。


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


田口と畑中は住まいが隣りどうしである。

小学生のころ、田口は畑中を自宅に招いて紅茶とショートケーキをふるまったことがある。

畑中は紅茶を初めて飲んだと言って美味しさに驚き、ケーキは妹と一緒に食べたいからと持ち帰った。


同じころに田口も畑中の住むアパートに遊びに行ったことがある。

部屋が二間ふたまきりの住まいだった。


畳敷きの居間に入ると畑中は台所から二つのコップに水道の水を入れて持ってきた。

「お菓子もないんだ、ごめん」


そのときどんな話をしたのか田口は印象にないが一つだけはっきりと覚えていることがある。

子供心にも生活レベルの違いというものを感じて畑中を気の毒に思い、不用意な一言を発した。

「僕、ポケットに百円持ってるからあげようか?」


畑中はにっこり笑って言った。

「いいよ。お母さんがいつも言うんだ。貧乏は恥ずかしいことじゃない、貧乏な人がお金持ちをねたんだりお金持ちが貧乏な人を馬鹿にしたりするのが恥ずかしいことなんだよって」


「そうだったの。なんか、ごめん」

「誠のことじゃないよ。せっかく言ってくれたんだから誠が偉くなって社長にでもなったときにもらおうかな」

そんなふうに冗談ぽくとりなされた田口は、自分は人間として畑中に負けたのだと思った。


帰り際に隣の部屋を見ると少し離して置かれた二つの段ボール箱に板が渡してあった。

こんな机で畑中は勉強してクラス一番の成績をあげているのだと思うと田口はさらに頭の下がる思いがした。


中学生になると田口はサッカー部に入って放課後は練習に明け暮れた。

そのため畑中との接触は殆どなかったが卒業も近い2月中旬にたまたま一緒に下校したことがあった。


田口の家の前で「じゃ」と言って別れたとき、畑中の小学4年の妹が兄を迎えに小走りでやって来た。

田口は自宅の門を入ったところだったが畑中兄妹きょうだいのやり取りが聞こえてきた。


「お兄ちゃん、チョコレートちょうだい。今日はバレンタインデーでしょ?」

「もらえなかったんだよ」


「ええ、つまんない。お兄ちゃん、もてないの?」

「ごめんな」


田口は畑中の心中を思いやって胸が締めつけられるような思いを味わった。

畑中は毎日放課後になるとすぐに帰宅してしまう。

付き合いが悪いのでバレンタインデーが来ても女子からプレゼントをもらうことはない。


田口は畑中が早く帰る理由を知っていた。

母親の帰りが遅いので妹との二人きりの夕食の用意を畑中がしなければならないのだった。


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


高校生になって2回目のバレンタインデーがやってきた。

放課後になるとクラスの多くの女子がプレゼントを持って田口を取り囲んだ。


沙織が最初に差し出した。

「田口くん、はい、これ」

「いや、うちは仏教だから」


みなまで言わせず沙織は田口の手に押しつけた。

「袋をよく見てよ」


チョコが入った封筒には黄色と白、2色の水引きが印刷されていて中央には『お布施ふせ』と書いてある。

「1日早いけど明日の2月15日はお釈迦様の命日よね。仏壇にお供えして」


そう言って沙織がいたずらっぽく微笑むと田口は断る理由が見つからず渋々受け取った。

それを見た他の女子たちも次々に『お布施』と書かれたチョコ入り封筒を差し出した。


その日、田口は帰宅した後、久しぶりに隣りの畑中のアパートを訪れた。

居間には小学6年の妹の美代子もいた。


「健吾、お福分ふくわけって言葉、知ってるか?」

「いや、知らない」


「人からもらったものを独りじめしないで分け与えることだよ」

「お裾分すそわけのこと?」


「ちょっとニュアンスが違って、もらう人だけじゃなく与える方にも福が来るっていう発想なんだ。だからもらってくれないかな」

そう言って田口はバッグから10個ほどのチョコレートを取り出して炬燵こたつの上のテーブルに載せた。


それまで黙って座って二人のやりとりを聞いていた美代子が急に目を輝かせて兄を見た。

畑中は妹を見て頷いた。


「よかったな、美代子。チョコがたくさん食べられるぞ」

受け取ってくれないかもしれないと危惧していた田口も安堵の色を顔に浮かべた。


美代子は両手でチョコレートを自分のほうに引き寄せて田口の顔を見た。

「田口のお兄ちゃん、ありがとう。もてなくなってチョコをもらえなくなったら私がお嫁さんになってあげるね」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


田口ビルヂングの社長室で社長の田口誠と顧問税理士の畑中健吾がソファーに座ってくつろいでいる。

「この1年、君も苦労したね。お父さんが急に亡くなって30歳前だというのに社長に就任したんだから」

「経理面で君がアドバイスしてくれたお陰でなんとかね。危うく専務一派に会社を乗っ取られるところだった」


笑顔でそう言った後、田口は急に真面目な顔になった。

そして財布から百円玉が1個入った小さなビニール袋を取り出した。

「父が急死したからとはいえ僕は曲がりなりにも社長になった。約束どおりこれを受け取ってくれ」


畑中はテーブルに置かれた百円玉に目を落とし、次に説明を促すように田口を見た。

「健吾、僕は君に謝らねばならないことがある。小学校のころ、君の家の貧しそうなようすを見て『百円あげようか』と言ってしまった。そのとき『君が社長になったらもらうよ』って君に冗談ぽく断られて僕は恥ずかしかった。それ以来、自分が高慢になることを戒めるためのお守りにしてきたんだ。これがあのときの百円玉だよ」


「そうだったのか、僕はすっかり忘れていたよ」

にこやかにそう言った後で今度は畑中が居住まいを正した。

「僕の方こそ君に礼を言わなければならない。学生時代に君が仏教の話まで持ち出して女子からのプレゼントを断ったのはランキング最下位を僕一人にしないためだったんだろう? 翌年は美代子のためにチョコのお福分けまでしてくれた。あれで美代子もすっかり君のファンになってしまった」


「私の名前が聞こえたみたいだけど?」

ドアを開けて田口夫人の美代子が入ってきた。


「この近くに買い物に来たんで寄ったの。兄さんも来てたならちょうどよかったわ。はい、これ」

「何だ?」


「チョコレートよ。今日はバレンタインデーじゃない。これはあなたに」

美代子は夫の誠にもリボンをかけたチョコの包みを差し出した。


「ありがとう、うれしいね」と妻からプレゼントを受け取った田口を畑中がからかった。

「おいおい、君は浄土真宗じゃなかったかい?」


「なあに、親鸞上人しんらんしょうにん様はそんな細かいこと、気にしやしないよ」

顔を見合わせて笑う兄と夫を美代子はきょとんとして見比べた。

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親鸞上人とバレンタインデー 仲瀬 充 @imutake73

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