1-02『テルハウンド』

 こと迷宮ダンジョンにおいて、人語を解する怪物は最も恐るべき天敵と言われている。

 人類とコミュニケーションが可能なほど知能を備えた魔物は、もはや魔物という表現に留まる存在ではなくなっているからだ。


 しかし。


『この負け犬が!』


 と喋る目の前の黒い犬は、果たしてそれほど恐ろしい怪物なのだろうか?

 短剣を構え、油断なく身構える新米冒険者の少女の心に、ふとそんな疑問が湧く。


『この負け犬が!』


「先輩。――わたし、犬に負け犬と言われているんですけど」

「ダンジョンにいればそういう日もある」

「いったいダンジョンってなんですか?」


 危うく哲学に目覚めかける新米少女だったが、あくまで目の前には魔物。


「油断するな」

「っ――はい先輩!」


 鋭い返事。直後には一歩で距離を詰め、新米は黒い魔犬の目の前まで瞬時に迫る。

 だが相手は獣。たとえ通常の生態系から外れた魔物であろうと、決してただ似ているというだけではない――獣の姿であるからには当然、獣の俊敏性を持っている。


 即座に反応し背後へ跳び退る魔犬。

 ヒトを超える反射と、四足の獣らしからぬあり得ない軌道。

 人間の――それも新米の冒険者が振るう刃程度では、追いつくことなどあり得ない驚異的な回避だった。


 だが、それも想定内である。

 ヒトと獣の能力差を埋めるものこそが、知恵であり技術なのだから。


 ダンジョンの、細い通路だった。

 正面から接近する新米の攻撃を躱す逃げ道など、最初から背後以外にない。

 行く先がわかっているのなら、追い詰めることなど容易である。


「――しっ!」


 短く、息を吐くような音。

 投擲した短剣が、背後へ跳躍する魔犬の額を見事に貫いていた。


『この負け犬が……!』


 負け犬が、負け犬と口にして霧散していく。

 危うげなく勝利を収めた新米は、魔犬が消えた空間を見つめて静かに零した。


魔晶ドロップはなし、かー……」

「まあ、さすがにこの程度じゃな。単体で残存できるほど大きな核じゃない」


 ある程度の強さ――言い換えれば魔力の量――を持たない魔物は、倒したところで魔力結晶を遺さないことが多い。

 運も絡むが、魔物狩りはハイリスクハイリターンが原則だ。


 ところで。


「人語を話す魔物って強いんじゃなかったでしたっけ?」


 迷宮通路の床に、からんと転がった短剣を拾いながら新米は問う。

 ダンジョン初心者からのそんな質問に、ベテランの男は呆れた様子で片眉を上げた。


「……人語をだ。ただ人語めいた音を出すだけの魔物はいくらでもいる」

「へっ?」

「あんなもんただの鳴き声だよ。唸ってただけだ。言語は理解していない」

「……唸り声が『この負け犬が!』の犬、あまりにも嫌すぎる……」

「まあ、正確には犬じゃなくて魔物だけどな」

「そりゃそうでしょうけど……喋るヘルハウンドなんて初めて見ましたよ、わたし」


 呆れ交じり、驚き交じりに新米は小さく零した。


 ――《黒妖犬ヘルハウンド》という魔物は、ダンジョン低階層ではありふれた種類の魔物である。

 見た目はそのもの黒く大きな犬であり、見た目に違わぬ獣らしい敏捷性アジリティが大きな特徴とされた。

 大きな爪や鋭い牙は、それだけで新米の冒険者には脅威である。


 とはいえ、単体で出現する分にはかなり弱い魔物でもあった。

 ちょっと強い野犬程度であることは事実で、腹さえ括れば一般人でも勝機はある。


 なお、もちろん喋らない。


「今のはヘルハウンドじゃねえよ」

「えっ――そうなんですか?」


 ベテランの言葉に、新米は少し驚いて目を丸くした。

 少なくとも、姿はほとんど変わらない。

 目で見てわかる違いはなかったのだが――。



「さっきのはテルハウンド。鳴き声が言葉っぽいヘルハウンドだ」

「それにわざわざ別の名前つけた奴を今すぐ呼び出してほしい……」



 呆れ顔で突っ込む新米であった。

 ダンジョンには、ときどきこういう意味のわからない魔物が湧く。


「ちなみに、だいたい嫌なことを言う」

「性格悪そう……」

「だが単体なら普通のヘルハウンドよりむしろ弱い」

「嘘ぉ」

「足腰ではなく声帯を鍛えてしまったからな」

「本末転倒すぎる……」


 先日のママックといい、そんなものに生まれてしまったらなんて思うのだろう。

 いやまあ、魔物は生物とは言い難いが。――新米は口角を引き攣らせる。


 そんな弟子の様子を見ながら、ベテランは静かに肩を竦めて。


「とはいえ油断していい魔物でもないんだがな。複数に囲まれると一気に厄介になる」

「ああ……まあ、それは普通のヘルハウンドも同じですしね」

「いや、群れのテルハウンドはそれ以上だ。数が揃うと言葉の魔力が増し、重圧になってくるんだよ。要はこちらの動きや身体能力への、ちょっとした不利デバフだ。そうして弱らせたところを喰いにくるのが、テルハウンドって魔物だ」

「悪口でプレッシャーかけてくる犬、嫌すぎませんか……?」


 と、そのときだ。

 通路の先から届いた気配に、新米は反射で身構えた。


 見ればその方向から、またしてもヘルハウンド――いや、テルハウンドが現れる。


 一方、ベテランのほうは察していたらしい。説明するように新米へ告げる。


「ヘルもテルも基本、ハウンド系は群れを作る魔物だ」

「ですよね」

「ああ。例外はベルハウンドくらいなんだが」

「ベル初耳なんですけど」

「ともあれ、こうして単独で来ているのは索敵係だろうな。たぶん奥に群れがいる」

「……どうしますか?」


 問いながらも、新米の視線は通路の奥へ向いている。

 やがて、通路の奥――その暗がりから、ゆったりと一体の魔犬が姿を見せた。


「仲間がやられたのは知ってるな。罠だろう」

「奥の……群れの仲間がいるほうへ誘導しようとしているわけですね」


 一体ずつ倒せるなら、新米ひとりでも負けはない相手だ。

 あえて群れに近づいたところで、おそらくどうとでもなるだろう。

 そう判断する新米の姿を、遠くで見ているテルハウンドは、――ふっと鼻で笑って。



『――貧相なカラダしてんなあ? あんま食える部分なさそうだ(笑)』



 そしてそのまま、踵を返して去っていった。

 数秒。

 告げられた放言が理解できず、新米は完全に硬直する。


「お、おい、新米?」

「――――――――」

「落ち着け。大丈夫か? な? あれだ、こいつらは人語は理解してないんだ。ただ単に悪意に反応してそれらしいことを――」


 その直後だ。

 さきほどの犬が戻ってきて、今度は新米にこう鳴いた。



『――すみません、胸肉を買いに……あれ、売り切れですか?(笑)』



「いい度胸だ根絶やしにしてやるよこの負け犬どもがあ――――ッ!!」

「効きすぎだろお前!?」


 ベテランの言葉も聞く耳持たず、勢いきってテルハウンドを追っていく新米冒険者。

 ここは低階層。ひとりでも問題ないだろうが――いや、それにしても。



「あいつ、胸が小さいの気にしてたのか……」



 ――忘れてやろう。

 と、せめてもの情けを考えながら、ベテランもまた駆け出した。






■今回の魔物:告妖犬テルハウンド

 喋るタイプの黒妖犬ヘルハウンド。だが人語は理解していない。あくまでただの鳴き声。

 けれどなぜか嫌なことばかり言う。いわゆるザコ魔物だが、とにかくウザい。

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