第52(3)話

「「ッッ⁈」」


 二人して一斉に声がした方向へと振り向く。聞こえてきた声の大きさからして、ここからそう遠くはない。

「今のっ⁈」

 俺が七海へと視線を向けると、彼女は無言で頷いた。

 助けに行こう、そう、彼女の目が語っていた。

 七海が声のした方角へと駆けだしていく。俺も彼女に置いて行かれないよう、彼女の後に続いた。

 夜も遅く、もうほとんど車も人も通らないアスファルトの道路を全力で駆けていく。そして、とある路地に入る十字路を曲がったところで――、


「助けてッ」


 二人の人影が視界に入った。

 一人は若い女性。まだ二十代前半だろうか。長めの髪を後ろでまとめたオフィスカジュアルな服装の人だ。もう一人は女性よりも幾分か背が高く、ガタイもいいので男性のように思える。しかし、その顔はフードに包まれていたため窺い知ることはできない。

 いいや、それよりも――――


「た、たすけ……」


 女性が涙を浮かべながら懇願する。その表情は恐怖と苦痛とでひどく歪んでいた。

 彼女は謎の男性に背後から抱きつかれていた。いや、抱きつかれていただけではない。その細く白い首筋にするどい牙を突き立てられていた。

「吸血鬼……」

 不老不死で夜な夜なうら若き女性の生き血を求める伝説上の生物。


 そのとき、ふと今まで起きていた怪事件を思い出した。

 最近起こっているの変死事件では、いずれの被害者も干からびたようにやせ細っていた。さらに、実際に見た被害者には首筋に二つの点状の傷。

 もしかして、あいつが一連の事件の犯人なのだろうか。そんな疑問が頭の中をよぎる。


「……殺す」


「えっ?」

 しかし、そんな疑問は、隣からした背筋が凍るような声によって遮られた。

 直後、七海が勢いよく飛び出す。その手には既に二本の小太刀が握られていた。

「ん?」

 あちらも俺たちの存在に気がついたようだ。そいつは彼女の首筋から牙を離した。さらに、向かってくる七海に向かって、被害者の女性を突き飛ばす。

「きゃっ」

 突き飛ばされた女性が七海の前に立ちふさがる。

 いつもの七海であれば、被害者の女性を抱きとめていただろう。

 しかし、今の七海はそんな予想を軽く裏切ってきた。


「じゃまっ。どいてっ」


 その女性を受け止めることもなく、自分の右側へと突き飛ばした。

 突き飛ばされた女性はなすすべもなく、宙を舞う。

「まじかよっ」

 思いもよらない七海の行動に目を見張る。しかし、悠長に驚いている暇はない。

 俺も勢いよく駆け出し、女性が転倒する直前で、彼女と地面の間に身を滑り込ませる。次の瞬間、全身に女性の体重がのしかかった。いつか嗅いだ石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。

「か、間一髪……」


 一方、七海は俺たちに目もくれることなく一直線に吸血鬼へと向かっていった。

「死ねッ」

 そいつとの距離を一気に詰めた彼女は勢いよく小太刀を振り下ろす。

「ッッ⁈」

 吸血鬼は驚いたそぶりを一瞬見せたものの、軽々と七海の一撃を回避した。吸血鬼の避けたすぐ隣を七海の小太刀が過ぎ去る。

「まだまだッッ」

 七海は避けられてもなお、吸血鬼に対して猛攻を仕掛けた。闇夜に銀色の軌跡が幾度も煌めく。

 しかし吸血鬼もさるもの。彼女の剣戟を一つももらうことなく、どれも紙一重で躱していく。しかもその様子からして、まだまだ余裕がありそうだ。


 こいつ、強い……


 そう思わざるを得ない。

 ただ、そんな吸血鬼の強さよりも二人の戦いを見ていて気になることがあった。

「七海、どうしたんだ……」

 呆然と呟く。

 今の彼女には何か違和感があった。

 いつもより明らかに攻撃の手数が多い。息をつく間もなく次から次へと攻撃を繰り出している。まるで焦っているようにも見えた。

 そして、何より――――あの目。

 彼女の目は、今までに見たことのない色をしていた。学園での人気者としてのものでもなく、夜のちょっと冷たさを感じるようなものでもない。

 まるで親の仇を見たときのような激情を宿している。


「ん、んんっ……」

 俺がいつもと違う七海の様子に呆けていると、腕の中からうめき声が聞こえた。そこで今、自分が被害者の女性を受け止めていたことに気がつく。

「大丈夫ですかっ⁈」

 少し声を大きくして呼びかけてみた。

 しかし、その女性はもう一度さっきの唸り声を上げた後、体全体の力が抜けた。どうやら気絶をしたようだ。

 とはいえ、状況は芳しくない。女性に注意を向けてみてようやく気が付いたが、彼女の血行が明らかに悪い。血の気は失せて青白く、脈も小さくなっている気がする。目の前にいる吸血鬼にかなりの血を持っていかれたのだろう。このままでは命の危険にもかかわってくるかもしれない。


 ちらりと七海たちの方へ視線を向けた。

 相変わらず彼女は猛攻を仕掛けており、吸血鬼はそれを軽々と回避していた。

 幾度とない連撃を躱し続けていたところ、吸血鬼は懐からピンク色の液体が入った小瓶を取り出した。

 それを見た俺は、あいつの次の一手を理解する。

 あの小瓶に入っているのは、おそらく煙幕を発生させる魔導薬。小瓶を地面にたたきつけると、中身が一瞬で気化して辺りを包み込む類のものだ。以前、母さんが作っていたのを見たことがある。


 吸血鬼が小瓶を頭上に掲げる。

 七海もあいつが何かしてくると考えたのだろう。吸血鬼からの攻撃に備えて一歩退く。

 その直後、吸血鬼は振り上げていた手を勢いよく振り下ろし、小瓶を地面に叩きつけた。

 小瓶の破片が光を反射しながら宙を舞い、中身の液体が飛び散る。

「っっ⁈」

 七海の顔に動揺が走った。

 小瓶の中の液体は一瞬で気化し、膨張して七海たちを包み込む。こうなってしまえば、俺たちの場所からは中の様子が何も分からない。

「大丈夫なのか……」

 七海のことが心配だった。


 しばらくしてピンク色の煙幕が晴れてきたことで、中の様子が明らかになっていく。俺は目を細め、七海たちがいるであろう場所を凝視する。

 そこにいたのは彼女一人だった。どうやら吸血鬼は逃げ出したらしい。

「……よかった。七海は無事か」

 彼女が無事だったことにほっと安堵する。

 吸血鬼が逃げ出したのであれば仕方がない。追うにしても、どの方向へ行ったのかも分からないので、足取りを掴むことは困難だろう。

 それよりも今は、腕の中で眠る被害者の女性だ。今すぐ救急車を呼んで、手当をする必要がある。


「おーい、ななみー」

 戻ってくるよう伝えるため、彼女の名前を呼ぶ。

 しかし、俺が声を掛けても彼女は微動だにしなかった。

「……あれ?」

 この距離で聞こえないはずがない。

 訝しみながらもう一度、彼女に声を掛けようとして――――、


「逃がさない……、必ず殺してやる」


 ついさっき聞いたあの底冷えする声が再び聞こえた。

「え……?」

 彼女の瞳は、相変わらず怪しく燃えている。もはや俺たちのことは眼中にないように思えた。

 そんな見たことない彼女の様子に呆気にとられていると、彼女はビルの壁を蹴ってどこかに行ってしまった。


 その場に俺と被害者の女性だけが取り残される。

「……」

 彼女が姿を消した方向を見つめる。

 一体彼女に何があったのか。

 そんな違和感を抱えながら、俺は救急車を呼んだのだった。

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