第30話★

 俺と櫻木さんは、近くのマットに腰をかける。このマットは、野球部が体幹といった筋力トレーニングを行う時に使用するものだ。

 日はすでに落ち、あたりもだいぶ暗くなっている。もちろん、倉庫に電灯なんかないため、ここはほぼ暗闇に包まれている。真っ暗ではなく、ほぼ、としているのは、倉庫の小窓から月明かりが差し込んでいるためだ。どうやら、今日は満月らしい。


 俺は腕時計を見る。見ると、とうに下校時刻を過ぎていた。

「来ないか……」

「はい……」

 最初のうちは、まだメッセージを読んでいないだろうか、と気楽に構えていたため、最近の学園生活について談笑していた。しかし、日が傾くにつれ、言葉数は減っていった。櫻木さんに至っては日が沈んで以降、ほとんど声を発していない。


「ちょっとそこの冷蔵庫から、飲み物を取って来るよ」

 ずっとここにいたからか、俺は喉の渇きを感じていた。

 この倉庫には、野球部が水分補給をすることができるよう、ドリンクを保存する用の冷蔵庫が置かれている。

 俺はマットから立ち上がろうとした。

 そのとき―――――、


「ま、待って下さい……」


 俺の右手を櫻木さんの両手が包み込んだ。


「―――――――へっ?」

 

 思っても見ない出来事に俺の動きが止まる。

 俺は櫻木さんの方にふり返った。

 彼女は見上げるようにこちらを見ていた。その瞳は若干涙で潤んでいる。ちょうど上目遣いとなっており、その破壊的な可愛さで自分の心臓が大きくはねたのがわかった。


「えっと……」

 戸惑いの言葉以外を発することができなかった。

「す、すみませんっ! で、でも……、そ、その、そばにいてくれませんか……?」

 ヘーゼル色の瞳がじっと俺を捉えている。

 そんな顔で言われたら、言うとおりにする他ない。俺は飲み物を取りに行くのを諦め、そのままマットに座っておくことにした。

 すると、櫻木さんの手も離れる。

「本当にすみません」

「いや、いいよ」

 ちらりと横を見ると、櫻木さんは俯いていた。


「その……驚きましたよね?」

「まあ、いきなりだったし……」

「お恥ずかしい話なんですが、私、ここのような暗くて狭い場所が苦手なんです」

「そうなんだ……」

「はい、小さい頃、かくれんぼしていたら閉じ込められてしまったことがあって……。その出来事がトラウマになっているんですよね……」

 なるほど、怖かったから櫻木さんはさっきまでほとんど話さなかったのか。よく見ると、彼女がわずかに震えていることがわかった。よほど苦手なのだろう。

 

 俺は、マットに置かれていた彼女の左手に自身の右手を添えた。


「―――――へっ?」


 今度は彼女が驚く番だった。

「ほら、こうした方が少しでも落ち着くかなって思って。あ、嫌だったら言って。すぐ離すから」

「……いえ、嫌じゃないです。ありがとうございます」

 櫻木さんは、手のひらを裏返し、添えられた俺の手を握る。ちょっとして、その手にキュッと力が入ったのが分かった。

 櫻木さんの手はひんやりしていて、なにより柔らかい。いかにも女の子の手という感じだった。


「桂くんの手、なんだか安心します……」

「そ、そうかな……?」

 思わず声がどもってしまった。これまで女の子と手をつないだことなんてなかったし、相手が櫻木さんのような美少女であれば尚更だ。

 ここが今暗くて本当に良かった。俺の顔は間違いなく真っ赤だ。


「……」

「……」


 俺も櫻木さんも緊張しているのか、いつの間にかお互い言葉を発しなくなった。しかし、その手はしっかりと握っている。

 それからどれくらいの時間が経っただろう。


 ガンッ、ガンッ


 扉をたたく音がした。

「おーい、櫻木さん、昂輝、そこにいるかー?」

 続いて俺たちを呼ぶ遼の声もする。

 どうやら、ようやく来てくれたようだ。


「大道寺くんの声ですね」

「うん、やっと来てくれたみたいだ」

「それでは開けてもらいましょうか。なんだか桂くんの手を離すのが名残惜しいですね」

「あはは、俺も同じ気持ち。でも離さないと遼たちに茶化されそうだしね」

「ふふっ、そうですね。桂くん、本当に今日はありがとうございました」

「いやいや、こちらこそ」

 名残惜しさを感じながらも俺たちは握っていた手を放す。

 そして、扉の近くに駆け寄った。


「遼、ここだー。わるいけど、鍵を開けてくれー」

「お、いるみたいだな。わかったー。すぐ開ける」

 そして、


 ガチャッ


 俺はその音を聞くと扉を強く引っ張る。

 すると、扉はギギッという音を立てながら開いた。

「櫻木さんも昂輝も大丈夫だったか?」

 扉から出てきた俺たちを遼が迎えてくれた。

「ああ、俺は大丈夫。櫻木さんは大丈夫?」

「はい、大丈夫です。大道寺くん、ありがとうございます」

「いえいえ。それよりも遅くなってごめんな。急に会計の細谷先輩が倒れたから生徒会もドタバタしてたんだ。ついさっき、細谷先輩が目を覚まして、会長が先輩を送ったところ」

 遼は俺たちを見つけるのが遅くなった経緯を説明すると、申し訳なさそうに頭を下げる。

「えっ、細谷先輩は大丈夫なんですか?」

「どうやら貧血らしい。保健室の先生も大事はないって言っていたよ。さ、とりあえずもう帰ろうぜ。櫻木さんと昂輝は荷物を教室からとって来いよ。俺は駐輪場で友愛と待ってるから」

「ああ、わかった」

 腕時計を見ると、夜の八時が迫っていた。実にあの倉庫で二時間以上も過ごしていたことになる。


 そうして、俺たちは自分たちの荷物を取りに戻り、帰宅の途に就くのだった。

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