第5話

「ただいまーっと」

「お邪魔します」

「はーい」


 リホさんの家に戻って、まずは定番のご挨拶。リホさんは誰も居ない家でも、『ただいま』を言うタイプらしい。

 私は、こういう人がちょっと可愛く思えて好きだ。試しに、私もリホさんに応えてみる。


「おかえりなさい」

「え……」


 私の言葉に、リホさんは予想以上に驚いた顔をして固まった。

 いきなり自分の家で他人が「おかえりなさい」とか言い出したら驚くだろう。

 でも、彼女は笑って流すと思っていただけに、私も少し慌ててしまった。


「いや、なんとなく……あの……」

「うん。ありがと……ただいま」


 いつもの明るいリホさんとは違う、屈託ないヒマワリが咲くような笑みではない。ほんの一瞬だけの、何か噛み締めるような微笑み。

 それが、凄く印象的だった。

 何となく変な空気になってしまった気がして、私は咄嗟に話を逸らす。


「そういえば、私の呼び方……ハルさんになったんですか?」

「えっダメなの? もうそっちに慣れちゃったんだけど」

「早いですよ!呼び始めたの、ついさっきじゃないですか!」

「えぇ? そーだっけ? アッハハ!」


 楽しそうにヒマワリが咲いた。それを見てホッとしつつ、私は抗議する。


「学校では辞めてくださいよ。教師として、生徒と仲良くはありたいですが、適度な距離感は重要です!」

「えー! でも、ハルさんの授業楽しいから、皆なハルさんのこと大好きだよ。だから、この呼び方流行ると思う」

「流行らせないでください!あんまり生徒と仲良くしすぎると、他の先生から注意を受けたりもするんですよ……」

「うわっ……何それ、めんどくさっ!」

「仕事というのはそういうものです」


 正直、これに関しては私も面倒だと思う。とはいえ、学園というコミュニティにおいて、秩序というものは重んじられるべきだという事も理解している。

 いや、こうして生徒の家に上がり込んでいる時点で、私が秩序云々の講釈を垂れても説得力はないのだけど。

 こんなところを誰かに見られたら、面倒な事になってしまうんだろうなとも思ってしまう。


「まぁ、いいや。じゃあ、学校では今まで通り三波先生って呼ぶね」

「はい。よろしくお願います、

「てか、そっちだって呼び方……」

「わ、私も気を付けるから大丈夫です!」

「あたしは、ハルさんはドジっ子属性な気がしてならないんだよねぇ」

「違っ! そ、そんなことないです!」


 リホさんは私のことを頼りない大人だと思っているのだろうか……。

 実際、頼りない大人だから何も言うことは無い。でも、悔しい。

 

「もういいです……呼び方、気を付けてくださいよ、

「あぁ! そういうことするんだ!」

「学校で間違えないように、私はもうこれでいいです」

「もー! 子供みたいだよハルさん」


 子供っぽいと言われるのは久しぶりだ。そもそも、こんなに素直な気持ちで気兼ねなく会話をすることが久しぶりかもしれない。家族と話している時と近い感覚だ。

 リホさんと話していると、自然と頬が緩んでしまう。やはり、彼女はずっと仲良く話をしていたリホさんなのだと、しみじみ感じた。

 彼女は私の生徒で、年下の女の子なのに、どうしてか大人っぽい印象で、私にとって頼りになるお姉さんのようなのだ。

 こうして、私と彼女との時間は穏やかに流れて行く。


「もう遅い時間になっちゃったね」

「肉じゃがとは、あんなに手間のかかる料理だったんですね……」

「そーだよ。だから、今度からはありがたーく食べること!」

「はい、ご馳走様でした」


 私たちがご飯を食べて片づけが終わったころには、夜の九時になっていた。話が弾んで、何をするにも口ばかり動いていたというのもあるだろう。

 いい加減にお暇しなくてはならない。明日も学校があるのだから。


「じゃあ、そろそろ帰りますね」


 私の宣言に、リホさんは表現の難しい顔で口ごもってしまう。

 何か言いにくいことがあるのだろうか。今日だけでも、散々お互いに軽口を叩き合ったのだし、遠慮することはないのだけど。

 

「どうしました?」

「ん……あのさぁ、また、来てくれる?」

「あぁ……」


 ちょっと答えにくい質問だった。

 リホさんと学校外でも仲良くあり続けようという意思は固まった。でも、仕事上、生徒であるリホさんの家に上がり込むのを問題視されることもある。

 とはいえ、別に教師と生徒がプライベートで会う事が何かの法律で禁止されているとかではない。周囲が過剰に反応しない限り、大して問題にもならないはずだ。

 幸い、私たちは女同士。家に上がっているのを見られたところで、変な勘繰りをされることもないのかもしれない。

 楽観的過ぎるかもしれないけど、結局のところ、私は

 

 だから――。


「来ますよ。リホさんが呼んでくれるなら」


 少し間があったけれど、私はちゃんと答えることができた。

 不安そうだったリホさんの表情は、みるみるうちに明るくなる。

 この笑顔が見られるだけで、私は誰かにどう思われるとか、そんな心配が塵のような些事に思えてくる。

 

「えへへ! やった!じゃあ、明日もウチでご飯食べなよ!」

「ええっ! 流石にそれは……」

「いいでしょー! 明日は私の得意料理を食べさせたげる!」


 こうなっていしまえば、断り切れないことは分かっている。なにせ私は、彼女に首っ丈なのだ。


「わかりました。じゃあ、楽しみにしてますね。ふわふわオムライス」

「うん! マジで自信あるんだー」


 嬉しそうな彼女の表情が、私の心を満たしていく。

 今の私と彼女の関係は、なんて表現するんだろう。

 私の彼女への気持ちは、なんて表現できるんだろう。


「I'm crazy about you」

 

 英語が聞き取れなかったのか、意味が理解できなかったのか。リホさんは眉を八の字に曲げて小首を傾げる。

 

「今、何て言ったの?」

「なんでしょうね。教えてあげません」

「えー!」


 少し前の授業風景を思い出す。

 あのときの私たちは、ただの教師と教え子だった。


 そして、――今はだけ少し違う。

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