あなたを知りたくて
うんと若い頃。身を焦がすほどに愛した男がいた。その人をこの目が熱く見つめる前に、本能がその人を察する。そんな出会い。
白い肌。大きな瞳。通った鼻筋に少々の頑固さを感じさせる唇。
その人の話し声が耳に馴染んだ。見た目にそぐわぬ柔らかな口調に心が導かれ、気付いたらその人を凝視していた。
見知らぬ女が目だけ動かす。その様子が嫌だったのか、その人は去っていった。バイト先の小さな居酒屋の勝手口。裏路地に備えられた大きなゴミ箱。閉店作業を終わらせ、デカい袋2つパンパンに入ったゴミを、どうにか蓋を締められる程度に押し込めた。これをやらずに帰って翌日こっぴどく叱られたことがある。だからゴミ出しにはかなり神経を尖らせていた。
路地から出てすぐのところにある自販機前。夜半前の裏路地でゴミ箱に足をかけ、「おりゃ!おりゃ!」と威勢のいい掛け声をあげる生き物から凝視されたら、そりゃいい気はしないだろう。
友人と思しき男性と去っていくその人を、私はただ見つめていた。
声なんてかけられるわけないじゃない。私はまだ、華奢な美しい女性に変貌を遂げていない。
どこの誰とも分からない人に熱烈に恋をした現実に身を焦がしていたある日、その人がバイト先からほど近くにあるピアノ教室から出てくるのを見かけ、私の心は天まで駆け上がった。
魂が叫ぶ。名前だけでもいい。「その人」を知りたい。
当時私は20歳になったばかり。高校を卒業して入社したスーパーは、仕事がハードすぎて2ヶ月で辞めた。その後飲食業を転々としたのだが、こんなところに運命の出会いがあるとは。私は一気に乙女と化し、その人と上手いこと遭遇できるよう時間を見計らい、その人のために購入した美しい服に身を包み、バイトが始まる2時間前から教室周辺をうろついた。講師らしく、教室を後にする生徒を見送るために、時折外に現れた。
すぐに「変な女がいる」と噂になったらしいけど、その時はそんなことになるなんて考えていない。私は運命の人と知り合うきっかけを求めて歩いていただけ。ベンチがないのが痛かった。佇める場所ならバス停でも何でもよかったのだけれど、繁華街からやや外れた商業地の一角に都合よく、そんなものは存在しない。しょうがないから歩いていただけなのに、後からその人も私を不審者扱いしていたと聞かされ、ショックで丸一日泣き通した。
諦めきれずなりふり構わず嗅ぎまわり、6歳年上のその人はとっくに結婚して、子供もいるという情報を得たのだ。
教室に通う子供に狙いを定めたのはよかったけれど、親が通報するとは考えていなくて。お陰で留置所で2日過ごしたけれど、あのガッツは今でも褒めてやりたい。留置所で出されたコッペパンに添えられたイチゴジャムが、小学校の給食に出ていたものと同じと気付いたときには、ほんの少し胸が重苦しくなったけれど。
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