9-4

「すっかり騙されましたよ。でも、どうしてあんな嘘の訳を?」

 詰め寄る中本にも臆する様子なく、楊は平然と口を開いた。

「嘘? それはどういうことですか?」

「病院で唐さんが話したことさ。君は唐さんの言葉を、そのままには訳さなかった」

「そんなことありません。少しは間違えていたかもしれませんけど、嘘だなんて……」

 認めない楊に、中本は今回の契約書を取り出してその一部分を読み上げた。

「『調査については正確性を期すために、依頼者の発言を含め、調査に関わる全ての情報は記録されます』と書いてある。契約の時に、口頭でも説明したでしょう? あの時の唐さんの話、あれももちろん録音してある」

 それを聞いた楊は、玄関に向かって走り出した。中本は追うことなくその後ろ姿を見つめていた。

 玄関を飛び出した楊は、その場に立ち尽くしていた。楊の目の前には庄司と、その後ろに守られるように唐が立っていた。

「逃げなきゃよかったのに……」

 唐が楊に向かって呟いた。

「録音はしてある。けどね……」

 後ろからゆっくりと近づいて来る中本に、楊は振り返った。中本の手にはボイスレコーダーが握られている。楊の前で立ち止まった中本が、ボイスレコーダーの再生ボタンを押した。病院で話した楊の言葉が再生される。

「残念ながら、唐さんの声は小さすぎて拾えてなかった。でも、逃げたということは、どうやら唐さんの話の方が信用できるらしい」

 楊は中本の言葉を聴きながら、唇をかみしめている。

「唐さんに専務のことを聞いたよ。結婚も何も、唐さんは専務が苦手だった。他の人の目の届かない場所で、執拗に迫ってくる専務が。専務を好きだったのは、楊さん、君なんじゃないのかい?」

 楊は頬を僅かに震えさせているが、まだ無言を貫いていた。

「李さんを襲った女性を専務が殺してしまったと知って、君は咄嗟に李さんが殺したことにした。社長殺害については、警察が証拠を掴んでいるし、何より副社長が目撃しているからそのまま訳したんだろうけど。亡くなったとはいえ、専務を庇いたかったんだ」

 否定も肯定もしない楊に、中本は更に続けた。

「楊さん、君は唐さんの病室を出た後、李さんの力が及ばないところで翁が裁かれたら、李さんは死を選ぶかもしれない、そう言っていたよね。あれは楊さん、君自身の気持ちでもあったんだ。違うかい? 李さんや唐さん、それに翁が捕まってしまえば、自分の恨みを晴らす相手が居なくなってしまう」

「違う! 違う、違う、全然違う!」

 楊は涙を流しながら首を激しく振った。

「私は……、私は、唐さんも守ってやりたかった」

 涙を溢れさせる楊の目は、すがるように唐へと向けられていた。その視線を見た中本が嘆息する。

「楊さん、君が犯した罪は、李さんのスマホを勝手に操作した程度だ。だけど、その狙いによっては、君の話す相手は俺じゃなくて西原さんになる。その時は、西原さんも前みたいな優しいおじさんじゃないよ。もう一度聞くけど、ここに李さんが居たらどうするつもりだったんだい?」

 楊は唐の視線を気にしながら、裸足で玄関に降りた自分のつま先を見つめて呟いた。

「翁先生の所に連れて行ったら、唐さんを助けられると思って……」

「嘘。お金欲しかったから、だと思います」

 唐が庄司の前に出てきて、楊に向かって日本語で言った。その目には憐れみに似た色が浮かんでいる。

「楊さんは、広州で都市戸籍、持っている。楊さんに、私と紅さんの苦しい、分からない」

 中国では、農業従事者と、非農業従事者との戸籍を区別し、様々な分野で差別的な対応が行われていた。都市部への過度な人口集中を防ぎ、農業の持続的な発展を支えてきたという一定の成果はあるが、それは都市部に住む人間から見た成果だ。

「楊さん。君は優秀だと思う。だからこそ、今の自分の状況に不満はあるだろう。一度中国に帰って、また別の方法で日本に来ると良い。これ以上道を間違えると、人生を棒に振ることになる」

 中本の話を背中で聞いていた楊が、中本に向かい合った。

「……まだ、間に合いますか?」

「もちろん。君も、唐さんも、李さんも、まだやり直せるさ」

 腫らした目で中本を見る楊にかけたその言葉は、中本自身の願いでもあった。


 九時を過ぎた頃から、広海協前には報道陣が集まり始めていた。

「マスコミが? どこから情報が漏れたんですか!」

 西原は高速を出雲インターで降りて、五キロ北進したコンビニに車を停めていた。西原が追っているバンは、尾行など全く気にする素振りもなく、コンビニで朝食を買っているようだ。西原は、店内に入った二人の男から目を離さないようにしながら、電話に向かって叫んでいた。電話の相手は刑事部長だ。

「知るか。そっちの様子はどうだ?」

「出雲インターを降りて北進しています。今は途中のコンビニに停まっていますが……」

 西原が状況を説明していると、電話の向こうがざわついた。

「西原、何でもいい。対象マルタイに職質をかけろ」

「今すぐですか?」

「そうだ。たった今、翁が男に刺された」

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