九 襲撃

9-1

「ゴメンクダサイ」

 ノックの後に声がして、祥子が事務所の扉を開いた。

 写真で何度となく見たその姿に、祥子は何度も瞬きを繰り返した。

「あ、あ、あの……。もしかして、李紅さん?」

 それぞれのデスクに座っていた他のメンバーも、祥子の声を聴いて入り口に殺到した。その勢いに思わず後退りした李を、祥子が抱きしめた。

「李紅さんよね? 良かった、無事で」

 最初は驚いて身体を硬直させていた李も、久しぶりに味わう人の体温に、自然と涙を溜めた。急に抱きしめた無礼を詫びる祥子の目にも涙が溜まっている。

「ごめんなさい、急に抱きしめちゃって。どうぞ、入って」

 李は祥子に勧められるまま、応接室のソファーに腰かけた。中本たちは、突然のことでどう対応したらいいのか、正解を探せずにいた。

「コレ、見て下さい」

 祥子が飲み物の準備をしようとすると、李は祥子に向かってスマートフォンを出した。

「見てって、何を?」

 祥子は悠に目配せをして、李の向かい側に腰かけた。悠は頷くと、祥子の代わりに給湯室に向かった。

「おかしいです。触っていないのに、動く」

 李はゆっくりと言葉を選びながら話している。

「触っていないのに動く、か。ちょっと見ても良い?」

 祥子は李が了承したのを確認して、そのスマートフォンを手に取った。SIMカードを抜き取り、電源を入れる。画面に、横に三つ、縦に三つの丸が現れた。

「パターンは?」

 祥子が画面を楊に向けると、楊は左上の丸を起点に、外周を右下の点まで辿ってロックを解除した。

「パターンを今までに変更……変えたことはある?」

「ない。変えていないです」

 画面上に現れたアプリのアイコンを一瞥しながら、祥子が李に尋ねると、李は「はい」と頷いた。

「じゃあ、解除するところを見られてたら誰でも触れるね……。この電話は、どうしたの? 新しく買った?」

「いいえ。専務が寮の部屋に置いたって言っていたので、あの二日後に、みんなが仕事している間に取りに行きました」

 祥子は「そっか」と頷きながら、今度は電話の発信履歴を確認した。通常の音声通話機能はほとんど利用していないのか、数えるほどしかない。その中で直近のものは、あの翁の電話へかけた履歴だった。

「もしかして、この電話もかけた覚えはないの?」

 李もその履歴は既に確認していたのだろう、間髪入れずに頷いた。

 祥子は履歴画面を閉じ、再度インストールされているアプリを確認した。

「インストールした覚えのないものはある?」

 李はやはりすぐに答えたが、その答えはノーだった。

「ない。何もない」

「そっか。じゃあ、どれかに化けてるのかな……」

 画面を見て悩む祥子に、悠からオレンジジュースを受け取った中本が、李の前にコップを置いて祥子の隣に座った。

「何を悩んでるんですか?」

 中本は李に対して軽くお辞儀をしただけで、祥子に向かって声をかけた。

「遠隔操作のアプリが入れられていると思うんですけど、それらしいのが見当たらなくて」

「遠隔操作、ですか」

「勝手に動くらしいんです。翁さんへの電話もかけてないって」

「触ってないのに電話を、か……。他に何ができるんです?」

「なんでもできますよ。パソコンで遠隔操作しているとしたら、そのモニターにこのスマホの画面を表示できますから。位置情報だって分かります。電源さえ入っていれば。あ、今はネットワークに繋がってない状況ですから、相手にも見えてませんよ」

「李さんの居場所も分かるってことか。ところで、李さん」

 中本はゆっくりと李に視線を向けた。李には怯えていたり、恐縮していたりするような素振りはない。堂々と背筋を伸ばして座っている。

「この携帯電話は寮の部屋のどこにあったのかな?」

「私の机の引き出しの中。電源は入っていなかったです」

 李の答えを聞いて、中本と祥子は顔を見合わせた。

「それって、ちょっと探せば誰でもすぐに気が付きますよね」

 祥子がそう口にすると、李は二人に向かって頭を下げた。

「お願いします! 建華を助けて下さい!」

 なぜ李は中本の前に姿を現したのか。なぜ唐を助けるように求めてきたのか。それを尋ねると、李は吼吼吼で送られてきたメッセージを見せながら理由を語った。

 唐の実家は貧しい農家だった。だが、近隣の農家と共に、資金と技術の支援を受けて電子商取引を始めようとしていた。だが、援助を求めた相手が悪かった。その相手は、翁太元。彼との契約内容は、その利益のほとんどを吸い取られる内容だった。

 翁太元は、契約内容を見直してもらいたければ、日本にいる建華に、弟の翁劉徳を手伝わせろと迫った。そして唐の両親は、泣く泣く一人娘の建華を翁兄弟に差し出した。

 最初の頃は、唐も両親のためにと、翁に言われるまま雑用のような仕事を、オオタ加工の仕事の合間にこなしていた。だが、翁の唐に対する要求は日に日にエスカレートしていった。

 唐は全ての事実を李に語り、助けを求めた。

「建華に、日本へ行けばお金入ると言ったのも、翁の兄。最初からこうするつもりだった。絶対」

 李は最後にそう言って、再び中本に頭を下げた。

「私の復讐だけ、違います。だから、力、貸して下さい。助けて下さい」

「大丈夫だ。俺たちは初めから君たちの味方だから。……でもね、李さん。君は自分の身を護るためとはいえ、人を殺めている。警察に連絡しないわけには……」

「アヤメテ、は何ですか?」

「襲ってきた人を殺した、でしょう?」

「殺した……。あの人は、死にましたか?」

 そう質問した李の口調は、激しい口調ではなかった。純粋に疑問に思って口にしただけのように、中本には感じられた。

「会社の人たちと海に行った時、君はトイレで襲われたんだよね?」

 李はそれを聞くと俯いて自分の肩を抱いた。

「はい。でも専務が助けた。私は、専務からお金、タクシーで逃げました」

「君は服も着替えている。それはどうして?」

「叩かれて鼻血で」

 李は自分の鼻を差し、ジェスチャーを付けて話した。

「自分の鼻血で汚れたのか……。それで、今までどこに?」

「友達と同じ家に隠れました。農業をしました」

「その友達って、張さん、かな?」

「そうです」

 中本は頭を抱えた。どの話が真実なのか分からない。言葉が完全には通じないから余計に分かりにくい。

「言葉か……。そういうことだとしたら、まずいな」

 何かに気付き、そう呟いた中本は、李のスマートフォンを指差して口を開いた。

「李さん、そのスマホをしばらく預かっても良いですか?」

「問題ない。使うのは怖いです」

 李はそう言って、テーブルに置いたスマートフォンを中本の目の前まで滑らせた。

「皆さん、ちょっと来て下さい」

 中本がそう声をかけると、パーティションのすぐ裏で立って話を聞いていた庄司と横山、悠がすぐに顔を出した。

「李さんがこうして姿を現してくれたので、依頼としては解決しました」

 中本は集まった四人の顔を見渡した。誰一人として安心した顔をしている者はいない。

「翁は西原さんたちに任せるとして、我々には中本探偵事務所として、やらなくちゃいけないことがある」

「『調査によって一人でも不幸になるような仕事は受けない』ですよね」

 祥子の言葉に、中本が頷く。

 最近になって、多少の経営方針の変更はあったものの、中本探偵事務所の根底にある理念は変わらない。

「人生の階段を踏み外して、転げ落ちそうになっている人が居る。その人を助けるまで、今回の仕事は終わりません。もう少しだけ、頑張りましょう」

 四人の「はい!」という力強い声が、フロアに響いた。

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