8-6

 重たい空気を背負ったまま、中本たちは事務所に戻り、西原は署に帰った。

 祥子と悠は自分のデスクに座り、鳴らない電話を漫然と眺めている。

 中本、庄司、横山の三人は、応接室のソファーに深く座って天井を見上げていた。

「李さんの捜索を依頼してきたんは、見つけ出して処分するためやったんでしょうか」

 横山がぼそりと呟く。だが、中本も、庄司もそれに応えない。二人共ただ考えを巡らせていた。

「祥子さん、これまでの資料を見せて下さい」

 中本がパーティション越しに声をかけると、返事もなく、沈んだ表情で祥子がノートパソコンを持ってきた。それを中本に手渡すと、やはり言葉なく自分のデスクに戻った。

 中本は祥子に何も述べず、フォルダに纏められたファイルを順番に開いた。ボイスレコーダーに記録されていた音声を聴きながら、しばらく目を閉じる。そして目を開き、再びその音声を再生した。

「どうしてもここが分からない」

 そう言って中本が音声を停止させると、庄司と横山も最後に中本が聴いていた音声を再生した。

 そのファイルには、八月十九日、水曜日の唐の言葉が記録されている。

「翁と唐さんが、李さんの捜索を依頼してきた。横山さんが言ったように、李さんを見つけて処分しようと考えていたとすると、この日に唐さんが翁から受け取った金の意味が分からない」

「ですね。病院での唐の説明では、李紅を殺害した報酬として受け取ったと話していましたから。二人がグルなら、それはあり得ない」

 そう同意した元刑事の庄司には、中本の目に、自分が気付いたその先の景色まで見えているように映った。

「庄司さん、どういうことだと思われますか?」

 尋ねる中本に、庄司は「確信はありません」と前置きをして、自身の考えを述べた。

「元々殺人の報酬として払われるのに、五十万円という金額の少なさは気になっていました。一時的に払われる金額だとしても。しかし、前金、あるいは準備金と考えたら別です」

「前金、ですか」

「そうです。その前金を受け取った唐は、仕事をやり遂げた」

「仕事……。まさか、社長と専務を?」

 ソファーから身を乗り出した中本に、庄司は頷いた。

「彼らが何かに気付いて、その口封じが目的かも知れません。とにかく、実際に彼らは死んでいる」

 平然と話す庄司に、中本は「信じられない」と首を横に振った。

「しかし、病室で話していた時の唐さんの涙は、芝居には見えなかった」

「私はそれを見ていませんからね。所長がそう感じられたのなら、そうかもしれません」

 庄司はあっさりと引き下がったが、中本は信じたくないという気持ちとは裏腹に、辻褄の合う庄司の推理に考えは支配されていった。その中本に、資料を見ていた横山が更に追い打ちをかける。

「この唐さんの服装も、あれやね。翁の指示や思いますわ。唐に金を渡したのが知れた時の言い訳用に。入念に練られとる」

「しかし、金のためだからといって……」

「金のためだから、ですよ」

 中本に向かってそう言った庄司の目は、悲し気に細められていた。

「私はこれまでに何人も見てきましたよ。ほんの僅かな、その日の飯を食うために道を踏み外す人間を」

 中本は生まれてきて今まで、経済的な困窮というものとは無縁だった。それでも、人類の争いの火種の多くが貧困であることは学んで知っている。だが、知っているだけだ。中本は、そんな自分を心の中で戒めた。

「横山さん、オオタ加工の松本さんから、唐さんの実家住所なんかもメールで来ていましたよね?」

「ええ、来とります。ちょっと待って下さいよ……。はい、これですわ」

 唐の自宅住所は河南省蘭考ランカオ県となっているが、電話番号の後に括弧で囲われて、呼出と書かれていた。

「呼出電話……。自宅に電話はないんですね」

 中本はパソコンで蘭考について調べてみた。「貧困県」という文字が多く並ぶ画面を見て、中本は深く嘆息した。

 中国政府は、長らく農村部における貧困撲滅に力を注いできた。

 貧困県に指定されている蘭考は、政府から資金や人材、技術の支援を受けている。蘭考はその成果が極めて顕著に表れていた。かつての寒村は、ビルの建設ラッシュに沸き、貧困県の指定から除外されるよう、申請に向けて動いていると書かれていた。

 中本はそのサイトを見ながら電話をかけたが、その相手はメールに書かれた唐の自宅連絡先ではなく、佐々岡だった。

「佐々岡さん、今大丈夫ですか?」

「大丈夫どころか、こちらからも連絡しようと思っていました」

「翁太元の件で何か掴めたんですね」

「ええ。彼が何をしているのか掴めました。期待していた内容とはかなり違いましたが、農産物の電子商取引です」

「野菜のネットショップってことですか?」

「主力商品は葡萄とワインのようですが、そんなところです。正直拍子抜けしました。随分真っ当な仕事だと思いませんか?」

「確かにそうですね。怪しそうな気配はないんですか?」

「私が調べた限りではありませんね。ショップの評判も良いですし。翁の故郷は、漢の時代からワインを作っていたようで。紀元前ですから、二千年の歴史があるというわけです」

「へぇ、漢の時代からですか。意外ですね」

「ですよね。江南省の蘭考という土地なんですが……」

 中本はそれを聴いて、思わず立ち上がった。

「佐々岡さん、今、蘭考って言いました?」

「ええ。ご存知の土地でした?」

「いや、唐さんの故郷も、その蘭考なんですよ」

「唐さんって、あの依頼してきた子ですよね?」

 中本は、最初に佐々岡へ説明するつもりだった唐と翁の件を説明した。

「そうでしたか……。小さな町ですから、元々知り合いだったか、あるいは親族関係にあるかもしれないですね」

 佐々岡との電話を切った中本の周りには、事務所の全員が集まっていた。

「聞いていたと思いますが、唐さんと翁は同郷でした。翁の兄は地元で農産物、主に葡萄をネットショップで扱っているようです」

 それを聞いた庄司が表情を変えた。

「庄司さん、何か思い当ることが?」

「ええ。翁が日本でやっていることです。農家に斡旋した実習生を短期間で帰国させている。狙いは日本の高級フルーツの種苗じゃないかと。それを育てて、日本産と偽ってタイやロシア辺りに売れば……。いや、産地を偽るのは日本人のやり方ですな。彼らは、自分が作ったものだとプライドを持ってアピールする。場合によっては、そちらの方が日本の農家にとっては大きなダメージを受けそうです」

「なるほど。それは考えられる。いや、しかし……」

 一度は頷いた中本が、表情を険しくして再び資料を捲った。

「その、農家に実習生を短期間斡旋しているっていう話も、唐さんからの情報ですからね。どこまで信用して良いのか」

 頭を掻く中本に、庄司は続けた。

「所長の目から見て、唐さんが芝居しているようには見えなかったのでしょう? その証言は信じてあげても良いんじゃないですか? 唐はやむを得ない事情で、仕方なく翁に従っていたとも考えられます。その証拠に、李をタクシーで逃がしている。専務の目があったからかもしれませんが」

 祥子もそれには大きく頷いた。

「そうですよ、所長。人間なんて、善か悪かの両極じゃないんですから」

「確かに二人の言う通りですね。少し悲観的になっていました。また唐さんに話を聞ければいいんですけど……」

 唐の体力はほぼ回復していたが、精神面でのショックが大きく、警察を含めて面会が制限されていた。

 中本が唐の回復を祈っていると、事務所の扉がノックされた。

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