8-5
唐の事件以降、翁はその動きを潜め、通常の業務だけに終始している。これ以上時間をかけて国外に逃げられれば、更に状況は厳しくなる。だが、翁が犯したであろう李紅を狙った殺人教唆も、不法就労の斡旋先で行っている何らかの違法行為も、何ひとつ証拠を揃えられずにいた。
李の足取りについても、失踪した当日以降は全く掴めていない。
唐の事件から九日後の八月三十一日、月曜日の可部。事務所近くのお好み焼き店での昼食を済ませ、中本は他の調査員と共に喫茶店、アステリズムにいた。
「なかなか尻尾を出さんですね。もう日本での悪事は諦めて、帰り支度をしとるんやないやろうか」
横山がグラスを揺らして、コーヒーに浮かぶ氷を眺めながら呟いた。
「その場合は正攻法で行く。申し訳ないが、我々としては李紅の安全より、翁の犯罪を優先して対処せざるを得ない」
同席していた西原はそう口にしたが、悔しさが滲んでいる。
「翁が逮捕されたとしても、李さんがすぐに間違った行動に出るとも限りませんからね。それを祈るしかないでしょう」
中本も西原に同意した。だが、その声は小さい。店内を仕切る薄い壁の向こうにいる祥子に聞かれないように、声を抑えている。
アステリズムは、国道に面した窓際が美容室になっている。マスターの息子が最近始めた店だ。祥子は今、そこで前髪を整えてもらっている。
「李さんの電話、あれからどうですか?」
翁がテレビのインタビューを受けている最中、翁の携帯に李の番号から着信があった。その電話を鳴らしたのが李だとは限らないが、誰かの手にあることは間違いない。
「令状は取れている。事業者に位置情報データの引き渡しも依頼済みだが、電源が入れられていないようでな」
「所長、また翁さんがワイドショーに出てますよー」
祥子が髪を切ってもらいながら、スマートフォンを観て声を上げている。技能実習生関連の話題が放送される度に、唐が海上で発見された後にインタビューを受けていた翁の映像が繰り返し流されていた。
制作者側は、資料映像として流しているだけのつもりなのだろうが、その度に西原は冷や汗を流していた。
「翁本人が苦情の申し入れをしないのは、穏便にただ忘れられるのを待っているんだろうな……」
西原がエスプレッソに沈めたザラメをティースプーンで口に運びながら呟いた。
「あー!」
「どうしました?」
アステリズムの店内にはテレビはない。一人ワイドショーを見ている祥子が何を観て叫んだのか。祥子の突然の叫び声にすっかり免疫が付いている悠だけが、その名の通り悠然とチーズケーキにフォークを刺している中、他のメンバー全員が立ち上がった。
中本が喫茶店と美容師を隔てる扉に手をかけようとした瞬間、中から祥子が勢いよく扉を開き、危うく中本の鼻を直撃しそうになった。
「危ないなぁ……。で、何が流れてたんです?」
中本は一歩素早く下がって、カットクロスを着けたままの祥子の手元を見たが、その手にスマートフォンは握られていない。
「違うんですよ」
「違うって何が?」
「テレビを観て叫んだんじゃありません。窓の外を見てたんです。ちょっと来て下さい」
祥子が中本の手を取って美容室の中へと引っ張り込んだ。カットクロスに乗っていた髪腕に落ちて中本は顔をしかめたが、祥子は気にも留めていない。
「あそこ、見えます?」
祥子は窓に張り付くように立って、雨降る街並みを指差した。
「銀行が何か?」
「違いますよ。銀行じゃなくて、ほら」
「コンビニ?」
「わざとですか? わざと違うモノ言ってるでしょう?」
「他に何があるっていうんですか」
「バス停ですよ。可部上市の」
「ああ、バス停。誰か知っている人……もしかして李さんが?」
「李さんじゃなくて、翁さんです!」
翁と聞いて、西原と庄司が店の出口に向かったのを祥子が止めた。
「待って! ごめんなさい、今いるんじゃないんです」
「脅かさないでくれよ、祥子ちゃん」
西原が大きく嘆息して再び椅子に座ると、マスターにコーヒーのお替りを頼んだ。
「脅かすつもりはなかったんだけど……。翁さんの顔、ずっとどこかで見たと思ってたら、最初に唐さんが事務所に電話してきた時、バス停で翁さんも一緒だったんですよ。と言っても、隣に立ってたわけじゃなくて、バスを待ってる風を装ってたんですけどね」
その言葉を聞いて、悠が口の中のケーキを紅茶で流し込んで「そういえば」と口を開いた。
「あの時、もう一人の人と中国語で話してたみたいって言ってましたよね。その相手が翁さんだったんですね」
中本もその時のことを思い出し、一度は「なるほど」と頷いたが、すぐに首を捻った。
「でもそうなると、これまでのことが全部……。まさか」
その中本の言葉の続きは、西原の口から出された。
「翁と唐は最初からグルだった……ってことだろうな。本当にその時にいたのが翁なら」
西原が祥子の顔をじっと見た。祥子はその西原の視線に俯いている。自信がないのではない。間違いなく翁だったがゆえに、唐と翁が初めから繋がっていたのを信じたくないのだ。
そう願っている祥子の気持ちが、西原にも、中本たちにも伝わっていた。
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