8-4

 唐はそこまで話すと、一度間を取った。その時に自分が李を止めていればという後悔が見える。中本たちは、再び唐が口を開くのを静かに待った。楊が唐に冷たい茶を一口飲ませると、唐が続きを話し出した。楊が同時に日本語に訳している。

「浜田に行った日、紅さんは島根の農家で働いているという女性と、あの場所で落ち合うことにしていたそうです。唐さんは、その女性の名前までは聞いていないと。……その女性も、紅さんのお姉さんの失踪について知っていると言って連絡してきたそうです。そしてあの日……」

 唐の言葉を聴いている楊が目を見開いた。唐に向かって中国語でひと言尋ね、唐から言葉が返ってくると、再び中本たちに訳して聞かせた。

「ごめんなさい。ええっと、あの日、その女性に襲われた紅さんは、その人を殺してしまった。唐さんが紅さんを捜しにトイレに入った時、紅さんは、死体を個室の中に隠して、自分もその中で泣いていました。唐さんが出てくるように言っても、中で泣き叫んで開けてくれずに暴れていました。……それから唐さんは専務を呼びに行きました」

 中本たちは言葉がなかった。李が狙われていたという推理は当たっていたが、唐は李を守ろうとした側だったのだ。

「専務が説得して、やっと紅さんは出てきました。紅さんが出てきた時、彼女の服は、死んだ人の血で汚れていました。着替えは持って来ていたので、専務は紅さんに着替えさせた後に、タクシーで紅さんを逃がしました。そして専務が中からトイレの鍵を閉めて、死体を見つからないようにしてから社長を呼びに行きました。それから紅さんが殺した人をどうしたかは、後で専務から聞きました。専務が社長を殺してしまった後に」

「工場の溶鉱炉で処分したんだね?」

 中本が唐にそう聞くと、唐は頷いて続きを話し始めた。短く、とぎれとぎれに話す唐の言葉を、楊がじっくりと聞いて訳す。

「紅さんが殺した女の人が持っていた携帯には、吼吼吼を使って紅さんを殺す依頼を受けたやり取りが残っていました。それを見た唐さんは、紅さんを逃がして、自分が紅さんを殺したことにしました。そして、翁先生からお金を」

「よくその時に翁から襲われなかったね。口封じで殺されてたかもしれないのに……」

 中本は唐のどこにそんな度胸があったのかと不思議に思った。

「翁先生は自分では手を汚さないに違いないって思っていたそうです。……唐さんはそのお金だけ貰って、一旦中国に帰るはずだった。唐さんは……」

 再び楊の口が止まった。

「楊さん?」

 祥子がどうしたのかと唐の顔を見つめて固まってしまった楊に話しかけた。

「……ごめんなさい。唐さんは、一旦中国に帰って、配偶者ビザを取る予定だった。でも、専務から唐さんとの結婚のことを聞いた社長が反対して、専務と社長が喧嘩になって……」

 楊に話す唐の声も掠れ、震えている。目は白い病院の壁を見つめ、乾いた唇は涙で湿り始めていた。

「もういい。もう充分だ。あとは翁と、李紅を捜し出して本人に聞く」

 西原がそう言うと、中本たちに退室を促し、自分も出口へと向かった。その背中に、楊が声をかけた。

「待って下さい!」

 楊は西原の前まで早歩きで進み、一度唐を振り返った。唐は天井を見つめている。それを見て楊は再び西原に向かい直り、小声で話し始めた。

「私……唐さんが言っていること、全部が本当だとは思えないです」

 それを聞いた西原は溜息を溢したが、病室の外へ全員を出すと、すぐに楊へ笑顔を向けた。

「大丈夫。我々だって全部を頭から信じるつもりはない。楊さんは李紅や張の居場所に心当たりはないかい?」

「それは……」

「分からない」と首を横に振った楊に、祥子が「張さんに連絡は?」と聞いた。

「真って名前で検索したら連絡は取れるんじゃない?」

 祥子の言葉に、中本と楊は顔を輝かせたが、西原は慎重だった。

「張への安易な接触はしない方が良いんじゃないか? いや、そもそも接触できる状況にはないかもしれん」

「西原さん、それってどういう意味ですか?」

 中本の問いにこの場で答えるべきか、二度の瞬きの間に考えた西原は、楊の視線の強さに考えを決めて口を開いた。

「張が李に情報を与えて間もなく、李は命を狙われた。李を狙った女も、彼女の姉のことを知っていたんだろう? そうなると、張が翁に情報を漏らしたか、無理矢理聞き出されたか。もし吐かされたんだとしたら、もう口はきけんだろう」

「そういうことですか。では、どうしたら……」

 考える中本に、祥子が楊へ憐れむ視線を向けたまま、小声で考えを伝え始めた。

「李さんは、まだ翁さんに復讐しようとしているんでしょ? だったら、どうするもこうするも、さっさと翁さんを逮捕しちゃえばいいじゃないですか。李さんが罪を重ねる前に」

 祥子の言葉を聞いても、腕を組んで顎を撫でるいつものポーズをして口を閉ざしている西原の背後に、祥子が回り込んで首に腕を回した。

「西原さん! 誰が、悪いんですか? 襲って来た人を殺して、逃げている李さんですか? 翁さんを騙してお金を貰った唐さんですか? 父親を殺して自殺してしまった専務ですか?」

 祥子はそう言いながら西原の首に回した腕に体重をかけた。祥子の足は床から離れる寸前だ。

「翁さんは送検できるんでしょうね? 罪を全部立証できるんでしょうね? してもらわないと困りますよ! しないと一生西原さんとは口ききません!」

「分かった! 分かったから、約束するから離してくれよ。……ゲホッ」

 ようやく解放された首を西原はさすった。

「まったく、これでも刑事だ。祥子ちゃん以上に腹の中は煮えたぎっているさ」

 その刑事も祥子には敵わないらしい。中本は西原に同情しつつ、祥子も冷静に話ができるよう、西原に話を振った。

「翁を逮捕するだけの材料は揃えられそうですか? 今の段階で、証拠は翁の指紋が付いた金と、唐さんの証言だけでしょう? あの電気のこぎりからも、社長の血液しか検出できなかったんですよね? 李さんを襲った実行犯が特定できないと、殺人教唆なんて立証は難しそうですけど……」

「心配は有難いがね、逮捕状を取るにはそれだけで充分だよ。送検となると厳しいだろうが、それは逮捕後に徹底的に調べてみせる」

「あのトイレは? 海浜公園のトイレにDNAが取れるものが残されていれば……」

 祥子が目を輝かせて西原に提案したが、西原は首を横に振った。

「不特定多数が使っているし、掃除も念入りなんだろう? まず無理だ」

 シュンとする祥子の肩に、西原が手を置いた。

「だから、逮捕には今のままでも充分だ。証拠は必ず揃えるよ」

 中本たちが話を進めていると、ずっと俯いていた楊が顔を上げた。

「あの……、それだと紅さんはどうなりますか? 紅さんは、翁先生に復讐するために生きているような気がします。もし、紅さんの力が及ばないところで翁先生が裁かれたとしたら……」

「李紅も、姉と同じように自殺するかも、と言いたいのか?」

 そう聞いた西原に楊は頷き、中本も、それはあり得ない話ではないと感じた。李が浜田で襲われた時、正当防衛とはいえ殺人を犯している。罪の意識を持った精神状態で、目的を奪われればどうなるか。

 それ以前に、真実に光を当てるためにも、李の身柄は確保しなければならない。

「作戦会議、しなくちゃですね」

 祥子が、西原の考えるポーズと同じく、腕を組んで顎をさすりながら言った。

「とりあえず病院を出ましょう」

 中本がそう言って病室のドアを少し開けて唐を見ると、唐は眠りに就いているようだった。

「私も一緒に行って良いでしょうか?」

 中本は、楊から自分に対してそう聞かれていながら、西原の顔色を窺った。

「西原さん、構いませんよね?」

「私はただの刑事だ。やろうとしていることが犯罪行為でなければ、止める権利はない。ここは私が残ろう」

「ありがとうございます。では、また連絡しますので」

「あまり無茶はするなよ」

「分かってます。無茶も無理もしません。もちろん、無駄にもしません」

 最後に中本はもう一度唐に視線を向け、西原に頭を下げた。


 病院を出ると、湿った吹き下ろしの風が中本の頬を撫でた。正面玄関の前、ロータリーの中心に、ウエディングケーキのように、高くなるごとに直径が小さくなる円筒が積み重なった噴水がある。その頂上から二メートル程吹き上げられた水が、段々になった滝を流れ落ちるように下へと向かう。

「人心、水の低きに就くが如し」

 中本がその小さな連続する滝を見て、思い出した言葉をぽつりと呟いた。

「なんです、それ?」

 祥子が噴水を見つめて呟いた中本の顔を覗き込んだ。

「さあ、なんだったっけかな。……カスケード。連続する小さな滝のように、人は落ち続ける。そんな言葉だった。中学時代に先生が言ってたのかも」

「李さんは止めてあげなきゃ、ですね」

「ああ」

 祥子は楊に振り返って、その両手を取った。

「楊さんも、まだまだこれからなんだから」

「……そうですね」

 楊は握られた手を見てそう答えたが、表情は沈んでいる。

「所長! 作戦会議にはケーキですよね」

 祥子は右手で楊の左手を掴んだまま楊の隣に立ち、相変わらず噴水を見ている中本の右手を取った。祥子が両脇の二人の表情を交互に見ながら前後に腕を振ると、普段は小言を溢す中本もその動きに任せて腕を振り、楊に視線を向けた。

「楊さん、何かリクエストはありますか? 祥子さんはその辺の店に詳しいですから、何でも言って下さい」

 唐が運ばれた病院は広島港近くだ。楊が何を食べたいと言っても、その要望に応えられるだけの店が揃っている。

「木戸さんにお任せします」

「そんな遠慮しなくても」

 車に向かって歩きながらも前後に振り上げられる腕に、楊の気分も僅かではあるが上向いた。

「遠慮しているわけではありません。木戸さんに任せれば間違いなさそうだと思って」

「え? そう? じゃあ、ここはお姉さんに任せ……てって、楊さんって何歳だったっけ?」

「私は唐さんと同じです。二十六歳」

「あれ……三歳も年上」

 祥子が舌を出すと、楊は笑った

「それでは木戸さんが妹ですね。妹に任せます」

 手をつないだまま歩く三人に吹く風は追い風ではない。雨を連れてくる向かい風だ。それでも前を見据えて力強く歩いていた。

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