8-3

 李の足取りは、姿を消した日の翌日に浜田市内の民宿を出て広島行きのバスに乗り、広島の市街地で降りたというところまでしか追えなかった。

 警察は本格的に翁をマークしているが、こちらも日常的な業務以外の動きは見られない。

 唐が海上で発見されてから五日後の八月二十七日、木曜日。中本と祥子は、唐が入院している病院に居た。

 一人で身体を起こせるまでに回復した唐が、中本たちへの面談を西原に申し出たのだ。

 頭側を少し起こしたベッドに横たわる唐は、顔色は良いものの、この数日で頬の肉がすっかり落ちていた。

「よかった。思ったより元気そう」

 祥子は笑顔で話しかけたが、唐には笑顔がない。笑顔だけではない、表情そのものが欠落していた。

「さあ、約束通り来てもらったんだ。話してくれ」

「西原さん、ちょっと待って下さい」

 西原が唐に催促したが、中本がそれを止めた。

「唐さん、実はもう一人来ている人がいるんだ。入ってもらっていいかな? 楊さんなんだけど……」

 相変わらず表情が変わらない唐の乾いた唇がゆっくりと開いた。

「昨日、中国に帰った。違うのですか?」

「オオタ加工が廃業して、別の受け入れ先を紹介されてね。それに、楊さんは唐さんが心配だからって残ったんだ。……呼んでくるよ?」

 唐は小さく頷いた。それを見て祥子が病室の入り口のドアを開けると、楊がベッドに横になる唐の姿に戸惑いながらゆっくりと入ってきた。枕元まで進み、唐の手を取って中国語で話しかける。楊の頬に一筋の涙が流れ落ちた。唐が楊に言葉を返している。

「あの、唐さんの話は私が日本語に訳します。それでいいですか?」

「もちろん。お願いするよ」

 楊の申し出を西原が受けると、楊は唐の枕元にしゃがんで話を聞き始めた。か細い声で話す唐の言葉を聞きながら、楊はしっかりとした口調で日本語に訳して西原たちに伝えた。


 八月一日、日曜日。スーパーで一週間分の食料を買い、専務の運転する車で寮に向かっていた李のスマートフォンに、吼吼吼の新規メッセージが届いたと表示された。

 ――紅さん、謙謙さんのことでお話があります。

 チェンという名の人物から届いた最初のメッセージは、その一文だけだった。だが、李を闇に引きずり込むには充分な力を持っていた。後部座席に座る李は、運転する専務と、助手席の副社長に目をやった。二人ともくだらないことばかり話している。

 真は、解放人に潜り込んだ張のハンドルネームだ。

 張は、謙謙が接触した当時のブローカーを調べるうちに、翁がそのブローカーの弟であることを突き止めた。吼吼吼のネットワークを利用して、新たな裏ビジネスを始めた翁に、充分注意するように、李へ警告してきたのだ。

「紅さん、どうしたの?」

 今までに見たことのない険しい表情で真とメッセージのやり取りをしている李に、隣に座っていた唐が心配そうに声をかけた。

「なんでもないよ」

「そんなことないでしょ?」

 唐が李の顔を覗き込むが、李はすぐに窓の方へと顔を逃がした。

「後で……話す」

 運転席には専務。助手席には副社長が座っている。狭い車内で話す内容ではない。唐は、李がそう言っていると理解し、「分かった」とだけ返した。

 唐が李から視線を外すと、李は再びスマートフォンの画面を睨み、指を忙しく動かし始めた。

 寮に帰ると、李は冷蔵庫に買ってきた肉や野菜を入れていた。機械的な動きでその作業をする李を唐は黙って見守っている。

「じゃあ、聞かせてもらえる?」

 冷蔵庫を閉めた李に唐が声をかけると、李は玄関に鍵を掛けた。

「翁先生のお兄さんだった……」

「翁先生? 何が?」

 振り向いた李が唐を睨みつけるように見た。

「私のお姉ちゃんをあんな風にしたの、アイツの家族だった!」

「あんな風にって、大阪に連れて行ったのが?」

「そうよ! そして、アイツは私たちを利用しようとしてる」

 唐は興奮する李を落ち着かせるように肩に手を置いた。

「待って。アイツって翁先生のことでしょ? 何をしてるの?」

「吼吼吼にいる解放人は知ってるでしょ?」

 唐はそれに頷いた。吼吼吼は実習生だけではなく、多くの中国人の若者が利用している。

「アイツ……翁先生は、解放人のメンバー。ううん、幹部だって」

「解放人の幹部……。翁先生が?」

「そう。それで、最近何か新しいビジネスを始めたみたい」

「ごめん紅さん、よく意味が分からないんだけど。新しいビジネス?」

 唐は首を傾げて聞きながらも、落ち着いてきた李に安心していた。

「私もまだ詳しく聞いてない。他のブローカーと同じように実習生に近づいて、農家に売っているみたい」

「農家……。でも、それだけじゃ他のブローカーと一緒じゃない。新しいビジネスって?」

「売った後が違うんだって。何週間か経ったら、売った実習生をこっそり中国に帰してるって」

 せっかく斡旋した実習生を、短期間で中国に帰す。その目的が、唐にはひとつしか思い当らなかった。

「もしかして、盗みをさせているんじゃ……」

 不法滞在者と知りながら失踪した実習生を雇っていた後ろ暗さから、盗難の被害を警察に届け出ないだろうという思惑があるのではないか。唐はそう考えた。

「やっぱり、それしかないよね……。私、翁がしていることの証拠を掴む。掴んで罰を受けさせる」

 李は震える拳を握り締めて、その拳に向かってそう呟いていた。

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