7-3
西原はじっと副社長が立ち上がるのを待っていた。副社長は油が染み込んだコンクリートの床に両膝を落とし、肩を抱いて前後左右に揺れている。
「西原さん、唐さんの方は今どういう状況なんでしょうか? 病院に搬送されたようですけど」
中本が静かに声をかけると、西原は視線を副社長に向けたまま口を開いた。
「宮島と
「社長は?」
社長が船に乗る所は初めから確認されていない。その中本の質問は的確ではなかったかもしれないが、西原には伝わった。
「クーラーボックスの中は空だったらしい。ボートを発見したのが近くを航行していた遊漁船だったからな。詳しい捜索は今海保がやっている。もう少し早く気付いていれば……申し訳ない」
西原が最後に溢した言葉は、中本に向けられたものではなさそうだ。
「こっちも新しい情報が入ったんですが」
中本は場所を変えるつもりで西原にそう言ったが、西原はその場を動こうとしなかった。
「西原さん?」
「ここでいい、聞かせてくれ」
副社長から視線を動かさない西原の真意が中本にもようやく理解できて、声を潜めて佐々岡から聞いた解放人と翁についての話を聞かせた。
「やはりあの翁は向こう側の人間だったか。……で? 具体的に奴は何をしている?」
「いや、そこまでは……。それを調べるのは西原さんたちにお任せします」
中本がそう言うと、西原は鼻を鳴らした。
「あの、中本さん」
中本がその声の方を見ると、目を赤く腫らした楊がいた。
「なんでしょう?」
「解放人、少しですが知っています。唐さんも知っているでしょう。それに……」
「それに?」
楊はその続きを話すのを躊躇ったが、意を決して口にした。
「紅さんの前に失踪した
楊の話し方にこれまでとは違うものを感じた西原は、ようやく視線を副社長から外すと、私服の若い刑事を呼んだ。
「副社長の様子を見ておいてくれ。目を離すなよ」
「はい、分かりました」
西原はその刑事に頷いて、中本と楊を連れて工場の外に出た。
「楊さん、その解放人と張さんって人について、知っていることを全部教えてくれるかな?」
楊を自動販売機の前に置かれたベンチに座らせると、西原はその隣に座った。楊は大きく一度息を吐き、目をしばらく閉じて、口と同時に開いた。
「ごめんなさい」
楊の口から出た予想外の謝罪の言葉に、西原は首を捻った。
「どうして謝るのかな?」
「私は、何も見ていないフリを、何も知らないフリをしていました」
楊は膝の上で組んだ自分の指を見つめて話している。
「それは李のことで?」
「違います。いいえ、それもですけど、もっと前から……」
「それでも、今話そうとしてくれている。大丈夫だ。誰も君を咎めたりしない」
楊の頬から涙の雫が彼女の膝に落ちた。
「今の解放人は……他のブローカーと同じように見えます。少し違う部分もありますけど、受け入れ先から逃げたいと思っている実習生に近づくのは同じです」
相変わらず楊の視線は自身の指に向かっていたが、その口調からは迷いが消えていた。
「他と違うというのは?」
西原は、言葉を選ぶ楊に「感じたことを話してくれ」と求めた。
「多くのブローカーは、実習生に新しい職場を紹介したらそれで終わりです。でも、最近の解放人は、国に帰るまでの面倒を見ているみたいで……」
楊はそう言って、組んでいた指を解き、自分のスマートフォンを操作し始めた。そして、画面に出したページを西原に見せながら説明した。
「……とは言っても、まだ数人だけです」
楊が「例えばこの人」と言って西原に画面を指し示したが、吼吼吼のプロフィール画像は本人の顔ではなく、西原が見たこともないアニメのキャラクターの顔だった。しかも、文字が中国語では何が書かれているかも理解できない。
「この人が解放人の世話に?」
西原が困った顔で楊に聞いた。
「ハッキリとは書いていませんが、そうだと思います。元の仕事を辞めて、三週間だけ農業を。男の人は農業をする人が多いですから」
「ああ、それは聞いたことがあるよ。だが、結局条件は悪くなる一方だ。斡旋先をまた逃げ出して、盗みに走るなんて事件が山ほどある」
「はい。でも、この人は三週間で逃げ出したわけじゃありません。初めから短い期間だけの約束だったようです。『こんなに簡単に稼げるとは思わなかった』って書いています」
「初めから? それは、解放人からそう告げられていたってことかな?」
楊は頷いて再びスマートフォンを操作した。画面を素早くスクロールしている。日付が半年前まで戻ると、楊はスクロールの速度を落とした。しばらく画面を上下に動かしていたが、その指が止まり、視線を西原に向けた。
「これが、さっき話した張さん」
張のプロフィール画像は二匹の猫だ。
「なるほど。張さんって子も、最初は客だったわけだ。それが、今ではメンバーか」
「張さんは、紅さんの友達です。子供の頃からの」
二人が座るベンチの前に立ってそれを聞いた中本が、一歩楊に近づいた。
「ひょっとして、張さんは解放人の正体を探ろうとしてわざと?」
李の幼馴染ということは、当然李の姉がどうなったかも知っているのだろう。その上で解放人に入り込んだのならば、中本にはそうとしか考えられなかった。
「そう聞いています」
西原が無精ひげの伸び始めた自分の顎を触り、小さく舌打ちをした。
「翁への接触が早すぎたな……。警戒されてしまっただろう。だが……。ありがとう、楊さん。おかげで何となく分かったよ」
「私は、解放人に扇先生がいるのは知りませんでした……」
西原から笑顔で感謝された楊だったが、そう返した彼女にはまだ笑顔が戻らない。
楊に何かまだ言いたいことがあるように見えた西原は、楊が自分から口を開くのを待った。いくらかの葛藤の後、楊が口を開いた。
「解放人からは、吼吼吼に殺人の……依頼もありました」
「殺人? 誰を殺せと?」
「それは分かりません。金額の提示だけあって、詳しい内容は仕事を受けた人にしか」
楊はそれ以降口を噤んだ。だが、西原と中本には、彼女がその殺人依頼と李や唐と結び付けて考えているのが想像できた。
「楊さん、腹も減っただろう。もう寮に帰っていい」
「分かりました。……唐さんは、どうなりますか?」
楊は立ち上がって、自分の足元を見ながら西原に尋ねた。
「仮に無傷だったとしても、明日中国へ帰るのは無理だな。彼女の願っていたような形での帰国はできないだろう。何より、身体の状況がまだ分からない。とりあえずは回復することを願うしかないな」
「私は李さんのことも、唐さんのことも、それに、張さんのことも見えていませんでした。分かってやれていなかった。今はそれが悔しいです」
視線を上げてそう言った楊の目に涙はもうなかった。西原はその目を見つめて優しく肩に手を置いた。
「君たちの責任じゃない。今の日本がどうかしてるんだ。私たちの方こそ謝らなきゃならん」
中本は言葉なく、楊がその場を去るまでただ彼女の姿を見ていた。楊が工場の前の坂道を寮に向かって歩いて行くのを見届け、中本は自動販売機に小銭を入れた。口の中が酷く乾いている。ペットボトルのスポーツ飲料のボタンを押すと、「今日も一日お疲れさまでした」と自動販売機から声が出た。
「まだ何も終わっちゃいないんだけどね」
呟いて取り出したペットボトルには、すぐに水滴が集まってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます