七 解放人
7-1
車から続々と降りてきた六人のうち四人が、鑑識の腕章を付けている。鑑識が来たということは、どうやら既に裁判所へ令状請求にも向かっているようだ。
最後に車から降りた私服の若い刑事が、工場の前で缶コーヒーを飲んでいる中本に声をかけた。
「中本さんですね。早速ですけど見つかったというボタンは?」
「まだこの裏にある焼却炉に」
中本は外階段の方を指したが、その刑事は首を横に振った。
「私たちは令状なしで入るわけには……。ひとつだけでいいので持って来て頂けませんか?」
刑事がそう言うと、中本は焼却炉へと向かい、すぐに戻ってくるとハンカチに包んだボタンを差し出した。それを見た楊は下唇を噛んで、その目にはうっすらと涙を浮かばせていた。
「今までお世話になったお礼に、工場の掃除を……」
楊が中本と話した通りの内容を伝えようとすると、その刑事は笑顔で「大丈夫」と遮った。
「西原さんから話は聞いていますから」
そう優しく楊に声をかけて、刑事は中本からボタンを受け取った。
西原はその頃、マリーナに設置された防犯カメラの映像を繰り返し見ていた。
タイムスタンプは午後一時四分。車から降りた専務が、荷室からクーラーボックスを出し、係留しているボートに積み込む。そして先に専務がボートに乗り、岸にいる唐としばらく言葉を交わしている。一分ほどして唐は専務に手を取られ乗船する。それから専務が係留ロープを外すと、船上に立ってその様子を見ていた唐の頭に触れて二人で操舵室へと消え、ボートは出港していった。
「これは、やはりまずいかもしれんな……」
ボートに積んだのはクーラーボックスひとつだけ。唐がリュックを背負ってはいたが、その膨らみは小さい。十分な食料や飲み物などがそこに入れられているとは思えなかった。小型のプレジャーボートだ。船内に食料が備蓄されているとも思えない。時刻は既に七時を過ぎている。西原は決心した。
「矢部、海保に連絡して専務と唐が乗ったボートを捜索してもらおう。どうも悪い予感がする」
「まさか国外逃亡しているとでも?」
「いや、それだけの準備をしているとは思えない。かと言って、この時間まで海上に留まる理由なんかこの二人にはないはずだ」
「心中……ですか」
西原はもう一度二人がボートに乗り込む所を再生した。カメラの位置が遠く、その口元までは確認できない。だが、専務が唐を必死に説得しているように見えた。
「急げ。……既に手遅れかもしれんが」
西原はマリーナの管理棟を出ると、専務が乗ってきた車の中を覗き見た。懐中電灯で車内を照らしてみるが、カップホルダーに口の開いた缶コーヒーがあるだけで、他にはごみひとつなかった。
「やけに綺麗だな……。遺書のような物は、やはりないか」
心中は単なる自殺とは違い、遺書が残されていない場合が多い。別れの言葉を残したい相手が共に死へ向かうからだ。その一方で共通していることもある。心中も自殺も、その行動に至る前に身辺が整理されている。
「真実は闇の中……なんて勘弁してくれよ」
西原は紫色に染まり始めた空を見上げて呟いた。
「矢部! 連絡は済んだか?」
西原が管理棟の入り口前に立つ矢部に声をかけたが、まだその耳には携帯電話が押し付けられていた。西原が矢部の方に歩いて行くと、矢部は電話を終えたが、またすぐに別の所へかけ始めている。
「矢部、まだか」
「海保にはもう依頼しました。今は遊漁船の船長たちに」
「そういやお前よく釣りに行くんだったな」
「私だけじゃないですよ。釣りやらないの西原さんぐらいじゃないんですか? あ、もしもし船長、矢部です。……いや、そうしたいんですけど、今日はちょっとお願いがありまして。……ああ、そうです。……ほんとですか、ありがとうございます。……ええ、太刀魚でしょ? また行きますよ。それじゃあ、お願いします」
その電話が終わると、矢部は携帯電話をポケットに収めた。
「もう最初に連絡した船長が、遊漁船の無線で情報を回してくれているみたいです。発見だけなら海保よりも先になるかもしれませんね」
胸を張ってそう言った矢部の肩に西原が手を置いた。
「よし。じゃあ、あとはお前に任せよう。私はオオタ加工に行ってくる」
「え? ここに一人で待機ってことですか?」
「代わりに制服を一人回す」
西原はそう言い残して車を走らせた。残された矢部は呆然と小さくなってゆくテールランプを眺めた。
「なんだよ……。もしかして拗ねてんのかな。……今度太刀魚釣りには誘ってみるか」
矢部は管理棟の中に戻り、管理人に礼を言って帰ってもらうと、自身は管理棟の玄関の段差に腰を下ろした。
「さて、待つのも仕事の内、っと」
陽が落ちてからの夜の訪れは早い。矢部が見上げた空は、さっきまで赤かった稜線付近もすっかり深い藍色に変わっていた。
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