6-2

「所長、もしかして怒ってます?」

 眉間に皺を寄せる中本の顔を覗き見て、祥子は口を尖らせた。

「いや、ただ虚しいんですよ。数が増えれば全体の問題は大きくなるけど、それに反比例して、それぞれの背景は軽んじられる」

 李も唐も、このまま事件が闇に埋もれていたら、過去三万人の失踪者の内の二人として、ただの数字になっていたかもしれない。三万に対して二という数字はあまりに小さい。

「そうですね。……私の『オレオレダチ』で怒ったのかと思った」

 中本は、祥子が後半に溢した言葉は聞こえなかったことにした。

「楊さん、私たちは副社長を訪ねて行きます。君は時間をずらして帰った方がいい。この前の寺で降ろせばいいかな?」

 中本の言葉に楊は頷いたが、直後に何かを思いついたようで、行き先を変えた。

「寺じゃなくて、会社で降ります」

 その発言に、中本だけではなく祥子も首を捻った。

「会社に? それは別に構わないけど。誰かがいたりしないかい?」

「大丈夫。土曜日です。時間も遅いですし。専務がいなかったら誰もいません。私は……、私はもう中国に帰りますから。だから怖くありません」

「何かを探すんだね?」

「そうです」

 ルームミラー越しに見える楊の目は力強かった。

「分かった。でも、何か見つけたら俺に教えてくれるね? 自分で社長たちを問い詰めない方がいい。何をされるか分からないからね。それだけ約束してくれ」

「分かりました。約束します。……中本さん、ありがとうございます」

 中本は、「礼を言われるようなことはまだ何もできていない」という言葉は飲み込み、ひと言、「どういたしまして」とだけ返した。

 午後六時。楊を無人のオオタ加工で降ろし、中本と祥子は社長宅へと向かった。一階の部屋の明かりが灯っている。夕食の準備をしているのだろう。換気扇が、白い煙と共に魚の焼ける匂いを吐き出している。

「祥子さん、お腹空いたでしょうけどもう少し辛抱して下さい」

「テレパシーでもあるんですか、所長……」

「いや、俺もお腹空いたからさ。……じゃあ、いいね?」

「オレオレ……いや、何でもないです。いいですよ、適当に合わせます」

 中本は頷いてインターホンを押した。

「はい」

 スピーカーから音が割れるほどの声で副社長の返事があった。

「夜分申し訳ありません、太田君の友達で……」

「ああ、早かったね。七時過ぎって聞いてたけど。ちょっと待ってね、倉庫の鍵持って行くから」

 それだけ言うと、スピーカーからインターホンの受話器を置く音が聞こえて、辺りは静かになった。

「なんか、誰かと間違われてます?」

 予想外の展開に、祥子の口は開いたままだ。

「分からないけど、そんな感じだね」

 一分と待たずに玄関の扉が開かれると、中から昭和のドラマのワンシーンのように、頭にカーラーを付けた副社長が出てきた。

「あれ? 梶君じゃないのね」

「ええ。ちょっと都合が悪くなって、代わりに来ました」

 中本は咄嗟に話を合わせたが、不審に思われている様子はなかった。

「はい、これ倉庫の鍵。ドア開けて右側に電気のスイッチがあるから。ごめんなさいね、今ご飯の準備してるから手が離せなくて。梶君に借りっぱなしでごめんなさいって言っといてね。智樹もあれからずっとゴルフ行ってないんだから、すぐ返せばいいのにねえ」

「はい、伝えておきます。……えっと、今日は出張でしたっけ?」

「そうなの。帰りは八時ぐらいになるって。急に言われたみたいでねえ。智樹が朝早くから新しい型枠作って、それを岡山まで持って行ってるのよ。この前の日曜も一人で型枠作ってたから、何か新車を開発するんでしょうね。最近は部品も使い回しが多いから、型枠から作るなんて何年ぶりかしらって感じよ。でも、こんな夏の暑い時に注文しなくてもいいのにねえ。ただでさえ暑いのに、小さいっていっても溶鉱炉に火を入れたらもう地獄よ、地獄。他の従業員がいたら暑いってブーイング出るから、智樹もわざわざ休みに作ってるのよね、きっと。優しい子でしょ? 昔からねえ、あの子は……あ、ごめんなさい。魚が焦げちゃう。鍵はポストに入れといてくれたらいいから」

 エプロンで手をずっと拭きながら話し続けた副社長が、ようやく話を止めて家の奥へと戻ると、呆気に取られていた中本もようやく我に返った。

「口が軽いなんてもんじゃないな……。祥子さん、急ごう」

「はい。きっと梶君って人から、ゴルフクラブでも借りてるんでしょうね」

「だろうね。まあ、梶君って人は後で来て混乱するだろうけど、いずれにせよラッキーだったよ」

 倉庫は掘り込み式のガレージの奥にあった。扉を開けると、言われた通り右側に突起がある。そのスイッチを入れると、両端の黒くなった古い蛍光灯が何度か点滅を繰り返した後、六畳ほどのスペースに物が散乱している様子を浮かび上がらせた。とてもじゃないが整頓されているとは言えない。

 それでも直近に使ったキャンプ用具は一番手前に置かれていて、目的の物は容易に見つかった。

「所長、これですよね」

 長さが中本の身長と同じ一メートル八十センチ程度のパイプと、ブルーの布が丸められてビニール紐で縛られていた。

「裸で置いてあるっていうことは、既に袋は処分したってことか。ないってことが証拠っていうのは裁判じゃ通用しないだろうな。……考えが甘かったか」

 中本がむき出しのパイプに手をかけると、祥子が中本のシャツの裾を掴んだ。

「どうしました?」

「所長、なんだかムカつきます」

「そうだな。確かにムカつく。だから、離してくれないかな?」

 中本がそう言っても、祥子の手はシャツから離れなかった。

「所長は平気なんですか?」

「何が?」

「だって、このタープが入っていた袋に、李さんが入れられていたかもしれないんですよ。そして、このタープはこうして大事そうに倉庫に入れられて。きっとまた使う気でいるんですよ。何食わぬ顔して」

「ああ、そうかもしれない。でも今はそれを抑え込まないと冷静な判断はできないよ」

 祥子がそれを聞いてシャツから手を離すと、中本は外に出て電気を消した。

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