5-7

「すみません! 捕まえて下さい!」

 中本たちが揃って考え込んでいると、国道と反対側の漁港へと続く遊歩道の先から女性の叫び声が聞こえた。何事かと声がした方を見ると、黒い塊が中本たちに向かって、物凄いスピードで近づいて来ていた。

「え? マカロン?」

 祥子はそう呟いて中本の背後に隠れた。だが、その塊は中本に飛びかかり、後ろの祥子ごと中本を砂浜に押し倒した。

「ああ、もう! マカロン、やめなさい!」

 先程の女性がその塊に繋げられたリードをやっと掴み、力いっぱい引いたが、その女性の力ではびくともしない。

「あれ? 中本さん?」

 女性はマカロン……巨大な黒いラブラドールに襲われている中本を見て目を丸くした。

「水戸さん……。どうも、ご無沙汰しています。相変わらずマカロンには苦労されているみたいですね」

 中本の顔はマカロンに舐めまわされてヨダレだらけになっていた。祥子はいつの間にかすり抜けてトイレの壁に隠れている。

 このラブラドールのマカロンは、一度自宅から逃げ出して、飼い主の水戸が中本探偵事務所に捜索依頼を出していたことがある。その後中本はドッグトレーナーを水戸に紹介したが、まだトレーニングが必要なようだ。

 中本もようやく立ち上がって背中に付いた砂をはたき落とした。

「また珍しい所でお会いしましたね。こちらへはドライブですか?」

 中本が水戸に聞くと、彼女は今歩いてきた方を指差した。

「旦那の釣りに付き合ってね。ヒラメ釣りに毎週来るんだけど、今はその餌のアジを釣ってるの。私はその間この子の散歩」

「毎週、ですか?」

「ええこの時期の暖かい、というか、暑い間はね。夕方にアジ、夜にヒラメ。ヒラメはひとシーズンに二、三尾釣れれば良い方だけど。中本さんは……お仕事みたいね」

 水戸がトイレの影から見ている祥子と目が合って、笑顔で頭を下げた。

「その仕事でなんですが、ちょっと聞きたいことがあるんです。水戸さんは先週の土曜日もこちらに?」

 突然予想しなかった質問をぶつけられて、水戸は一瞬首を後ろに引いた。

「え? ええ。先週も同じくらいの時間に。……こら!」

 水戸の話が聞こえて、トイレの影から出てきた祥子の方に走りだそうとしたマカロンの背中を水戸が思い切り叩いた。構わず飼い主を引きずって行こうとしているマカロンのリードを庄司が掴んだ。

「私が持っていましょう」

「あら、すみませんねえ」

 水戸が庄司の好意に甘えてリードから手を離すと、ブンブンと腕を振った。相当腕がだるくなっているようだ。

「私たちは今、この女性を捜していまして」

 中本が、プリントアウトした李の写真を見せた。楊から預かった、李が寮の部屋で一人写っている写真だ。先週同じ時間にここを通ったのなら見ているはずだと思ったが、水戸はしばらくその写真をじっと見て首を横に振った。

「見覚えないねえ。こんなかわいい子だったら、多分覚えてるもの。ここにいたの?」

 中本は返された写真に目を落とした。

「この子、中国から来た技能実習生なんですけどね、先週の土曜日にここで姿を消しているんです……。あ、そうだ。この二人には見覚えないですか?」

 中本はスマートフォンの画像フォルダを開いて、六人が写っている写真を開き、社長と専務が写っている所を大きく表示させた。

「この二人が当日その子を捜していたらしいんですけど、彼らから同じことは聞かれませんでした?」

「ああ、この人なら。ほら、あの二時間ドラマによく出る役者さんがいるでしょ? 親子でよく共演してる人。あの親子に似てるなって思ったから」

 中本も、なるほどそう言われてみれば似ていると思った。

「この二人から聞かれたんですか? この子のこと」

「いいえ。話はしてないの。二人が帰る所を見ただけ。親子二人で珍しいなって思ったから。他にこんな女の子たちがいたのね」

 それを聞いた中本と庄司は顔を見合わせた。

「それ、間違いないですか?」

「ええ。ちょうど車をここに停めて。シルバーの車。ほら、あのオリンピックみたいなマークの外車。私が水族館の手前まで行って、その帰りで見かけたから……五時半ぐらいだったかしらね」

 輪の数はひとつ少ないが、社長のアウディで間違いないだろう。中本の目の色が変わったのが水戸にも伝わった。

「なんか役に立てたみたいね」

「ええ。とても。そのキャンプの荷物、具体的には何か分かります?」

「タープだとは思うんだけどね。私たちも釣りの時に同じようなの使うから。でも、タープの他にも袋に入れてたんじゃないかしら。重そうに男の人二人で持って、トランクに積んでたんだもの。……あら、まさか……」

 水戸も自分で話しながら当時の様子を思い出して、中本たちと同じ推測に辿り着いたらしい。顔に恐怖の色が浮かんでいた。

「マカロンがやけにその二人に吠えてたと思ったけど……。私ってとんでもないもの見ちゃったの?」

「どうやらそのようですな。もしかしたら、証言台でもう一度その話をしてもらわなければならんかもしれません。今度この子におやつでも買ってやりますか」

 庄司が持つリードの先で、マカロンが「おやつ」という言葉に反応して、尻尾をプロペラ並みの速さでグルグルと回した。


「つまり、我々こそ実習生問題の先入観に囚われとったっちゅうことやね」

 喫茶店で合流した横山に水戸から聞いた話を聞かせると、横山はそう言って頭を盛大に掻いた。先入観は禁物だと分かっていながら、今回は李の失踪だと決めてかかっていた。

「あの社長にもやられました。李さんが車に乗る所を見た人がいた、なんて言ったのは咄嗟に吐いた嘘なんでしょうが、半分本当だった分淀みがなかったんですね。李さんを車に積み込む所を見られた。それをああいう風に言うとは、なかなかのもんです。俺もやっぱりまだまだですね……」

 中本自身も相当ショックを受けていた。人の嘘を見破るのには自信があったつもりだったのが、その自信のせいで大きく真実を見誤っていたのだ。

「仕方ないですよ。私もあれが嘘だとは思いませんでしたもん」

 中本はそう言って慰める祥子に苦笑した。

「祥子さんに慰められるとはね。……槇本君たちも申し訳なかったね。君たちの研究している内容とは全然違う問題の事件だったよ」

 槇本はそれでも「そんなことない」と首を横に振った。

「日本人の多くが潜在的に持っている差別意識だと思います。実習生だから発覚しない。そういう思いがあったに違いません。根っこは同じ問題ですよ。……それに、私もその先入観に侵されていたのは間違いないですし。色々考えさせられました」

 中本は槇本に頭を下げ、そのまま視線を腕時計に落とした。時刻はちょうど五時になろうとしていた。水戸の証言から、専務か社長が李を殺害して、その遺体をキャンプ用具の袋に入れて運んだようだと西原に電話で伝えて五分が経つ。すぐ折り返し電話をすると言って切れた後、まだその折り返しの連絡はない。

「ここで待っていても仕方がないですね。俺たちは先に帰ります。庄司さんたちは本当に直接帰られても構わないですよ」

 庄司と横山はこの後六時の高速バスで広島へ戻ることになっている。

「とてもじゃないですが、気になって帰る気分じゃないですよ」

「その通り。我々の手を離れたっちゅうても、我々にしかできんこともあるやろうし。その代り、ここでビールを一杯飲んでから戻らせてもらいますわ」

 横山がそう言うと、槇本が手を上げて店員を呼んだ。

「すみません、生を三つお願いします。……私も一杯付き合わせて下さい」

 中本がそれを見てテーブルに一万円札を一枚置いた。

「バスの時間に間に合ってくれれば二杯でも三杯でもどうぞ。槇本君も遠慮しなくていい。……では、また事務所で」

 そう言って去って行った中本を槇本は唖然として見ていた。

「中本所長ってなんというか……見た目と随分違いますね。まだ若いのに」

 槇本のそのセリフに、横山は思わず吹きだした。

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