5-6
「それじゃあ、今日は違う人を脅迫しに行って帰ってこないってこと?」
中本が、祥子と庄司に西原からの電話の内容を話すと、祥子は信じられないという顔をし、庄司は腕を組んでただ考えていた。
「唐さんはここで何も見ていなかったんでしょうか?」
その中本の言葉に庄司は首を横に振った。
「いいえ。何かを見ているのは間違いないでしょう。見ていないとしても、何かを知っている。金もまだ手に入れると言っていたということは、そのネタを持っていたのは間違いない。翁への脅迫はその本番に向けた練習だったとも考えられる」
「脅迫の練習……ですか」
中本にはまだ信じられなかった。十九日に唐が着ていたという服といい、その行動といい、本人に会った時の印象とは違い過ぎる。
「それだけ追い詰められていたということでしょう。横山さんが言っていましたよ。初出勤の日の午前中に逃げ出した日本人の若者もいたそうじゃないですか。日本人なら転職すればいい。だが、実習生にはその選択肢はない」
中本はビーチに腰を下ろしている楊の後姿に目をやった。海の向こうにある自分の故郷のことを想っている。中本にはそういう風に見えた。
「脅迫している相手が李さんにしろ、その失踪に関わった人間にしろ、唐さんはその相手と連絡が取れたんでしょうね。そうでなければ脅迫も無理だ」
中本は楊の後姿を見つめたままそう言った。
「そうでしょうな。もっと言えば、李が脅迫されたとしても、出せる金などないでしょう。それに彼女がまだオオタ加工の近くにいるとは思えない。脅迫している相手は、失踪の手引きをした相手。しかも、それは本来そういうことをしないはずの人間でないと脅迫の材料にはならんでしょう」
「確かに。……連絡と言えば、李さんの携帯は専務の車の中に置きっぱなしだった。あらかじめその人物と、ここで何時に落ち合うか決めていたんでしょうか? しかし、これまでの考え方だと、面識のある人物である可能性が高いということでしょう。他のオオタ加工の連中に見つかるリスクが高くないですか?」
中本がトイレの入り口から駐車場に向かって歩きながら顎に手を当ててそう言った。
「そうですね。社長たちに見覚えのある車であれば、そういう手段は使わんか……。だとすれば、李が車に乗ったっていうのは、この場所じゃないかもしれん。……が、そうだとしたら唐は何を見たのか」
その駐車場には八台分のスペースしかない。誰かが駐車場に戻ってきたらすぐに見つかってしまうだろう。隣の駐車場は百メートル程離れた場所にあるが、そこまでの道はビーチからも見通すことができる。中本はもう一度トイレの入り口に戻った。
「庄司さん、隣の駐車場に車を移動させてクラクションを鳴らしてもらえますか。トイレの中で聞こえるか確認してみます。祥子さん、中で確認してもらえるかな?」
中本の指示で、庄司は車へ、祥子はトイレの中へ移動した。
間もなくして庄司がクラクションを鳴らすと、想像より大きな音が響いた。これではトイレの中で確認するまでもなく、ビーチでバーベキューをしていた他の利用者も何事かと思うだろう。現にビーチに座っていた楊も、駐車場を振り向いて、中本の方へ近寄ってきた。その音で李が隣の駐車場に向かい、唐がそれを目撃したのかもしれないが、こんな手を使うくらいなら近くで声をかけた方がまだましだ。中本は庄司に電話をして呼び戻した。それと同時に、トイレの中から祥子の声が聴こえた。
「所長! すみません、ドア、開けてもらえません?」
「どうしたんですか?」
中本が入り口まで行って声をかけた。
「なんか、この前よりも固くなってて。入る時は何とか開いたのに……」
「楊さん、ちょっと中に入ってきますので、人が入らないように見ていてもらっていいですか?」
中本がビーチから歩いてきた楊に見張り役を頼んで、溜息を吐きつつ中に入った。
「なにもここじゃなくて、隣でよかったのに」
中本がぼやきながら扉に手をかけたが、普通に引いても扉は開かなかった。視線を上に向けると、蝶番が大きくズレていた。扉を上に持ち上げながら引くと、ようやく開いた。
「少しずつ下がってきてドアの下が引っかかってたんだ。管理事務所に言っておこう」
「ああ、もう。一生このトイレで過ごすのかと思っちゃった」
大袈裟な祥子に中本が笑った。
「いざとなったらドアの上から乗り越えて出られるじゃないですか」
中本がそう言うと、祥子は反論した。
「そんなの男子の発想ですよ。女子はしません。中学の時男子が全部の個室、そうやって鍵閉めて先生に怒られてたの思い出しちゃった」
「そう? 俺の同級生は女子でもやってた子いたけどな」
「どっちにしても私じゃ無理です。ドアの上に手が届きませんもん」
そう言って上に伸ばした祥子の指先は、ドアの上までは三十センチほどあった。
「なるほどね」
中本はそう言って笑うと、祥子に見せつけるようにドアの上に手をかけた。
「うわあ、ヤな感じ……」
祥子が顔を膨らませているのにも構わず、中本は隣のドアにも、その隣のドアにも手をかけた。
「所長の背が高いのはもう分かりましたから」
祥子が呆れてそう言うと、中本はもう一度祥子が入っていた個室のドアに手をかけた。
「このドアだけ砂が乗っている……。どっちだ……」
真剣な表情の中本に、祥子も表情を改めた。
「どっちって、何がです?」
「開かなくなったから乗り越えたのか、乗り越えたから開かなくなったのか」
「中本さん、掃除の人が来ました」
中本が思考を巡らせていると、楊のその声の後に、ポリバケツを下げた清掃員がトイレの中に入ってきた。
「どうかされました?」
掃除に来た女性が中本を訝しげに見て聞いた。
「あの、私がドアを開けられなくなっちゃって。開けてもらってたんです」
祥子がそう言うと、その女性は納得したように頷いていた。
「ああ、ここね。とうとう開かなくなっちゃったのね。もう修理はお願いしているんだけど、張り紙書いとかなくちゃ」
「あの、とうとうって、今までは開かなくなってたりはしてなかったんですか?」
祥子がそう聞くと、その女性は少し首を傾げながらも答えた。
「少なくとも今朝までは少し引っかかるくらい。ドアの内側、ちょっと凹んでいるでしょ? あれもだけど、日曜日からこうなったのよね。なんで大切に使えないのかしらねえ」
女性はそう言ってバケツに水を溜め、掃除に取り掛かった。
中本がトイレの外に出ると、庄司がトイレ前の駐車場に戻ってきた。
「どうでした、所長」
「ダメですね。クラクションじゃ大きすぎる。ビーチに居ても注意を引くでしょう。それよりもちょっと気になることが」
「なんでしょう?」
中本は庄司に指先に残った砂を見せた。
「この砂がトイレのドアの上に。例の凹んだドアです」
庄司が眉根を寄せて中本の指に顔を近づけてその砂を見た。
「他の場所には?」
「あのドアだけです。祥子さんが中に入ってクラクションの音を聞いた後に、ドアが開かなくなったからと言われて開けてあげたんですが……。どうもドアの上に乗ったことで古くなった蝶番のビスが緩んだようなんです」
それを聞いた庄司がトイレに向かって歩いて行ったが、中本がそれを止めた。
「今清掃員が作業しています。男子トイレも個室の作りは同じです。こっちは掃除が終わっていますから、こちらで説明します」
トイレに入ると、庄司がドアの上に手を伸ばした。背伸びをしてようやく指先がかかる。
「私には無理ですね。所長ならどうです?」
中本は庄司に中に入ってドアをロックしてもらい、実際にやってみた。苦労したが、ドアノブに足をかけてようやくドアの上に上体を乗せられた。そこから乗り越えずそのまま外側に降りた。
「なんとか……って感じですね。中からならもっと楽に上がれるでしょうけど。足場が多いですし」
「清掃員に話を聞きましょう。ここのトイレは綺麗に清掃されています。足跡が付いていたら気付いているかもしれません」
中本と庄司が清掃員の仕事が終わるのを待って、足跡が不自然な位置になかったか聞いたが、先週の土曜日以降そのような汚れはなかったようだ。単に気が付かなかっただけかもしれないと中本と庄司の間で話していたが、清掃員はそれも否定した。
「更衣室を使わずに、ここで着替える人もいるの。その時に便座の蓋の上に立って着替える人がいるのよね。汚れ方を見れば分かる。でも、先週以降で足跡が付いてたってのはなかったね」
清掃員は余程自信があるようで、そう言い切って次の仕事場へと去って行った。
「俺の思い違いですかね……」
中本がそう呟くと、庄司は腕を組んで目を閉じた。
「思い違い……。確かに。我々はずっと違う見方をしていたのかもしれない」
「違う見方、ですか?」
庄司は目を開くと、祥子に向かって手招きをした。
「祥子さん、そこの松の木に背中を預けて立ってもらえますか?」
「えっと、こんな感じでいいですか?」
困惑しながらも、祥子は後ろに手を組んで松の木に軽く体重を預けて立った。
「ありがとう。ちょっとそのまま待っていてくれるかな?」
庄司は祥子にそう言うと、今度は中本に小声で話しかけた。
「所長、何も喋らず、祥子さんに襲いかかってみて下さい」
「はい?」
予想外の注文に、中本は耳を疑った。
「ほれ、ちょっと前に流行った、壁際に追い詰めるアレで……」
「ちょっと前? もしかして『壁ドン』とか言い出すんじゃ……」
まさかと思って聞いた中本だったが、庄司は「そうそう」と頷いた。
「この場合は『松ドン』って言うんでしょうな。……いや、ちょっとした実験です。お願いします」
庄司の目が真剣なものに変わり、中本は言われるまま祥子の方に無言で近づいた。
「庄司さんなんなんでしょうね。記念撮影とかでもなさそうだし。……所長?」
祥子が中本に話しかけても反応がなく、自分よりも遠くを見ているような中本の視線に、祥子は普段と違うものを感じていた。中本は言葉を発することなく、ただ祥子に近づいてゆく。
「……ねえ、所長も何してるんですか?」
祥子は何かがおかしいと思いながらも、庄司に言われた通りに、背中を松の木に預けたままの姿勢を崩さない。中本が祥子のパーソナルスペースに完全に入り込んで、更に半歩近づいた所で視線を下げ、祥子の目を見た。少し不安そうな祥子の目を無視して、中本の両手が祥子の顔の横を通過して松の幹に触れた。
祥子の目の前の位置に中本の胸板がある。後ろの松の木に付けられた手に、中本の体重の何分の一かが加えられて、それを支える胸筋が僅かに膨らんでいる。
祥子は何が起きているのかはっきり理解していなかったが、気が付いたら中本の腰に腕を回していた。
「すいません、キャスティングミスだったようで……」
祥子の耳に庄司の声と慌てて近づいてくる足跡が聞こえ、ふと我に返って暴れ出した。
「ちょっ! 所長! みんな見てますって!」
祥子が改めて周囲に目をやると、楊も口に手を当てて中本と祥子を見ていた。途端に顔が赤くなる。
「庄司さん、こういうことですか?」
祥子が松の木と中本の間から抜け出した後、中本が足元を見て呟いた。
「そういうことだと思います」
中本の足元には、祥子が暴れた時に剥がれた松の木の皮が落ちていた。
「唐が見たのは、李が失踪する所じゃなかったようですな」
庄司の発言に中本は頷いたが、溢れる矛盾点に思考はパンク状態だった。
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