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広島市安佐南区緑井に建つマンション。西原は部下の矢部と共に、そのエントランスに居た。翁の部屋番号を押し、インターホンのカメラに身分証を見せる。
「安佐北署の西原です。広海協で働かれている翁さんですよね?」
「……はい。何か?」
インターホンから聞こえた翁の声は太々しさが感じられた。
「オオタ加工で技能実習生として働いていた唐さんについて、いくつか聞きたいことがあるのですが、お話を聞かせて頂けますか?」
「すぐに降りる」
翁の背後では生活音がしている。家族の前では話せないのだろう。当然だ、と西原は思った。
西原と矢部は一旦外に出た。マンションの駐車場から見上げると、各部屋の玄関が見渡せる。翁の部屋の玄関が開くと、スーツ姿で翁が現れ、エレベーターの方に歩いて行った。
「矢部、裏口を頼む」
一階エントランスからは、エレベーターホールが正面に見える。入居者駐車場に出る裏口は、そのエレベーターホールを挟んでエントランスとは反対側だ。わざわざスーツに着替えて逃げ出すとも思えなかったが、西原は万全を期した。
エレベーターの到着を知らせるチャイムの後に出てきた翁は、まっすぐ西原の方に歩いてきた。
気取った奴だ。西原が最初に受けた翁に対する印象だ。やけに光沢のあるスーツに、いかにも高そうな革靴。紙幣で自分を守っている人間が放つインク臭さが、翁を包んでいる。まだ三十代後半の男でその雰囲気を出す人間にろくな奴はいない、というのが西原の持論だ。まだ必死で逃げようとするチンピラの方がかわいげがある。
「パトカーで来たんじゃないでしょうね? あれに乗るのは好きではない」
西原は翁が最初の印象通りの人間だと確信した。
「私もあれは嫌いでね。覆面ですよ」
翁を後部座席に乗せ、西原は裏に回っていた矢部を呼び戻した。
署内でも翁の態度は変わらなかった。不安な様子を一切見せない。西原は、警察が掴んでいる情報を明かすことなく、まずは翁に質問だけをぶつけた。
「オオタ加工で働いていた実習生が二人失踪していますね。そのことでご存知のことはないですか?」
「二人? あそこからはもっと失踪しているでしょう。二人ってことはない」
「今月の話です。李紅さんと、唐建華さん」
西原が唐の名を口にすると、翁は一瞬眉根を寄せた。
「李紅の件は聞いているが、唐建華が失踪したという連絡は来てないな」
「聞いていませんか。唐さん本人から相談を受けたりは?」
西原がその質問をすると、翁の口角が僅かに上がった。西原が何を聴きたいのかを勘付いたのだ。
「相談はない。相談はないが……、金を手に入れたから、それを持って逃げたんだろう。私が軽率だった。申し訳ない」
意外にも翁は西原に向かって頭を下げた。それを見た西原は、「思ったよりも手強い」と心中で舌打ちをしていた。
午後四時半。西に傾き出した太陽は、真上にある時よりも、より顔を焼き付けるような陽射しを感じさせる。中本が首に巻いたタオルは、大量の汗を吸い取っていた。ここまで李を見たという証言は誰も得られていない。
中本が社長から証言を得た時は嘘ではないと確信していたが、今はその自信も揺らいでいた。
その中本の自信を更に揺るがす電話が西原から入った。
「はい、中本です」
「西原だ。……稔君、例の一万円札の指紋と翁の指紋が一致して、金を下ろしたコンビニも本人が白状した。他の質問に対しても、隠すことなく全てをね」
「……全部、ですか?」
西原と短くはない付き合いがある中本は、その電話のトーンで西原が苛立っていると感じた。
「李紅がいなくなった十五日、翁は日本に居なかったよ。そして、昨日の夜から今日にかけてのアリバイも完璧だ」
「それじゃあ、あの五十万は?」
「翁が自分から、唐に脅迫されて払ったと口にした。だが、そのネタは李紅とは無関係だ。十九日の夜、翁と唐は広島市内のホテルに行っている。その裏は取れた。そこで持った関係をネタに、その場で脅されたそうだ」
「それじゃあ、翁に違法性はゼロじゃないですか。少なくとも刑事的には……」
「ああ。その証言が真実ならな。しかし、胡散臭い上に頭の切れる奴だ。指紋や監視カメラ、そういった言い逃れのできない物証があるものについては自分から語っている。叩けば埃が出てくるだろうが、李紅と唐の失踪に関係しているかは、今の段階で何とも言えん」
「そうですか……。すみません、無駄骨を折らせてしまいました」
「そんなことはない。これで堂々と唐を捜すのに人員を投入できる。唐が脅迫していたという証言が取れたからな」
明らかに中本を気遣って言った西原のその言葉に、中本は感謝して電話を切った。
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