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「どこに行くの?」

 オオタ加工の寮で食事を終えた後に、唐がリュックに荷物を詰めていた。その背中に楊が声をかけたが返事がない。

「ねえ、明日も仕事でしょ? こんな時間からどこに行くのよ」

 時刻は夜の八時を回っていた。最後のバスも既に出ている。

「明日は……多分大丈夫。仕事までには帰ってくる」

「『多分』って、今日中には戻ってくるの? 戻ってくる気があるの?」

 唐はリュックのチャックを閉じると、立ち上がって振り向かずに玄関に向かった。無言のまま玄関で靴を履くと、リュックに両腕を通す。肩紐を伸ばしたリュックは、短いワンピースの裾よりも低くだらりと下がっている。そして玄関に手をかけると、ようやく唐が楊に応えた。

「戻りたい。ここじゃなくて、家に。……でも、まだ家には帰れない。……大丈夫。逃げるわけじゃないから」

「どこに行くかだけ教えて」

 楊の必死の訴えにも唐は振り向かなかった。

「どこかは言えない。でも、もし明日の仕事まで私が帰らなかったら、捜さないで」

 その言葉だけを返して、唐は街灯のない真っ暗な通りへと消えていった。

「捜さないでって……なんなのよ」

 唐が去った後、楊は、中国で見たオオタ加工の紹介ビデオを思い出していた。

 そのビデオには、広島の街並み。その街の中を流れる美しい川。大きなアーケードをオシャレな服を着て歩く若者。赤いユニホームを着て新しい球場に集まる人々。そんな都会の風景が流れた後に、オオタ加工の工場で、笑顔で仕事をする作業員が映されていた。

 全てが偽りだと気付いた時にはもう遅い。

 オオタ加工は住所だけ見れば広島市だが、市街地から遠く離れた山間部で、周囲にビルなど全くないし、仕事中の従業員に笑顔はない。

 一度受け入れ先が決まってしまえば、実習生の希望で受け入れ先を変更することはできない。騙されたと気付いても三年間我慢するしかないのだ。

 ブローカーは、その実習生の不満で膨らんだ心につけこんでくる。

 楊たちがそれでも我慢を続けていたのは、ブローカーにそそのかされた先に待つものが何かを聞かされていたからだ。だが、唐が出て行ったことで、残された自分の現状が、楊自身には酷くみすぼらしく感じ始められていた。


 八月二十日、木曜日。まだ日が昇る前の午前五時。灯りの消えた寮の鍵穴に、唐が音を立てないようにそっと鍵を差し込んだ。ゆっくりと回し解錠する。二つ目の鍵を開け、扉に手をかけた時、玄関の灯りが点いた。

「帰ったの?」

 中から楊の声がした。唐は覚悟を決めて、扉を引いた。

「ただいま」

 唐が玄関を開けると、そこには少し目を腫らした楊がいた。

「ずっと起きてたの?」

 玄関の充分な明るさとは言えない電球に照らされた楊の顔は、答えを聞くまでもなく寝不足だとひと目で分かるものだった。それが唐にはおかしく感じられて思わず笑みを溢したが、楊は笑う気分ではなかったようだ。

「なに笑ってるのよ?」

 楊に詰め寄られた唐は、それでも笑顔のままだった。

「私、上手く行けば、日曜日の飛行機で中国に帰るから」

 唐の言葉に楊は耳を疑った。

「そんなことしたら、私の休みなんてなくなるじゃない!」

 楊が唐の両腕を掴んで揺さぶった。

「残業だって増える。でも、寮の人数が減って家賃が高くなるから、給料は増えない! そんなのあなただって分かるでしょ? 自分が良ければそれでいいの?」

「あなた子供?」

 笑顔を消してそう呟いた唐の眼の暗さに、楊は掴んでいた腕を離した。

「……え?」

「私は自分で解決しようと努力した。あなたも大人なら自分で解決したら?」

 楊は日本に来てから唐と知り合ったが、日本に憧れたきっかけが同じ日本のアニメということもあり、すぐに打ち解けていた。これまで仲良くしてきたつもりだった。それは唐も同じ気持ちだったはずだ。だが、浜田の件から何かが変わっていた。

 言葉を失う楊の横をすり抜けて、唐が寮の中に入った。そして冷蔵庫から出した牛乳をマグカップに注ぎながら再び口を開いた。

「あなたもそろそろ朝ごはんにするでしょ? 今日は一時間早出だから。一日でも真面目に働くのはばからしいけど、帰るまでは付き合ってあげる」

 唐は変わってしまったのか、それともこれが本当の唐なのか。そう頭の中で思考が回っているのを放置して、楊は決心した。

「私も……中国に帰る」

「そう。じゃあさ、せっかくだから日本でやりたかったことをしてから帰りましょう?」

 唐はそう言って声を上げて笑った。

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