3-2

 中本がオオタ加工の工場に着くと、閉められたシャッターの前で、祥子が三十歳半ばの男と話をしていた。男の手にはコーラとタバコ、祥子の手には缶の紅茶が握られていた。

「こんばんは」

 中本が声をかけると、男の顔から笑顔が消えた。

「なんですか?」

「私はこの子の上司で中本と言います」

 中本がそう言うと、男は祥子の顔を見た。それに祥子が舌を出す。

「私、中本探偵事務所ってところで働いているんですよ。で、この人はそこの所長。ごめんなさい、言いそびれちゃって」

 祥子は身分を明かさずその男と話をしていたようだ。どうやって話し始めたのか、手にした紅茶は男から工場の入り口にある自動販売機で買ってもらったものだろう。祥子の荷物は車の中に置いたままだ。彼女は財布も持っていない。

「それで、李紅のことを調べに来たってわけですか。だったら話すことは何もないですよ。逃げた人を捜してる暇なんてないんだ」

 吐き捨てるようにそう言った声に、中本は聞き覚えがあった。日曜日に電話した時に出た専務だ。

「専務さん……ですよね? 李さんのスマホ、どうされました?」

 中本がそう言うと、専務はまだ長いタバコをコーラの缶の中に放り込んだ。ジュッという音を立てたタバコのフィルターが、コーラの飲み口から顔を出して浮かんでいる。コーラもまだ中身が多く残っていたようだ。それを見て専務が舌打ちした。

「スマホ? いいや、知らない」

「他の荷物は? 当然、李さんの荷物は寮に置いたままだったんでしょう?」

「そんなもの、全部捨てたんじゃねえの?」

「捨てた? それって、さすがに問題になりませんか?」

「じゃあ送ったんだろ。俺は詳しくは知らない」

 専務が中本に背を向けて、中身がたっぷり残った缶をリサイクルボックスに放り込むと、ゴトンと重たい音を立てた。

「えー、でも、専務って社長の息子さんなんだから、少しは知ってるでしょ。本当はどうしたんですかあ?」

 専務が背中を見せている間、祥子はそう言いながら中本の方を見て顔半分を引きつらせて見せた。あからさまに甘えた声を出す祥子に中本も顔をしかめたが、それでも専務には効果があったようだ。

「……勘弁してくれよ。頼むからもう帰ってくれ」

 本人に自覚があるかは不明だが、専務は「知っていることを話すわけにはいかない」と答えたも同然だった。

「そうもいかないかな。何も手掛かりがないと捜しようがないの。何でもいいから教えて……」

「知らないって言ってるだろ!」

 専務は後ろを向いたままそう叫んだ。だが、祥子は全く怯まなかった。

「あんまり隠すようなら、知り合いの刑事さんに頼んで令状取って、会社や自宅を調べてもらいますよ?」

 当然今の状況で令状など取れるはずもない。それでも専務には動揺が見られた。

「所長、西原警部補に電話して下さいよ」

 西原というのは、中本の父親が探偵事務所の所長を務めていた時から付き合いのある、広島県警の刑事だ。

「ま、待ってくれよ。社長を呼ぶから、社長に話を聞いてくれ」

 専務が携帯電話を慌てて取り出して耳に当てる。中本たちを気にして工場前の通りまで出た。

「随分慌てましたね。余程都合の悪いことでもあるのかな?」

「『捨てた』っていうのが失言だったんだろうね。分かりやすく顔をしかめていた。しかも、社長が相当怖いんでしょう。実習生たちに手を上げることはなくても、専務はよく殴られているって言ってたでしょう?」

「それにしたってあの専務、三十四歳らしいですよ? あんな年齢になっても父親が怖いなんて……」

 祥子は少し同情した風に、離れて電話をしている専務に目をやった。道端に落ちた小石を蹴りながら俯いて電話する姿は、どこか子供のようだった。

 その専務が電話を終えて中本たちの方に近づいてきた。

「社長がすぐに来る。俺は残っている仕事をしてくるから、勝手に社長へ聞きたいことを聞いてくれ」

 専務は閉められたシャッターを少し上げると、腰をかがめて工場の中に潜り込んだ。

「あーあ、ほんとに怖いんですね。逃げちゃった……」

 仕事が残っているというのは嘘だろう。どんな鬼がやってくるのか、中本は少し緊張した。

 オオタ加工の社長である太田の自宅は、実習生たちの寮の隣だ。工場からの距離は百メートルしか離れていない。それでも社長はシルバーのアウディA6に乗って姿を現した。

 息子である専務は細身で長身だったが、社長は小柄だった。中本の予想に反して、人のよさそうな顔をしている。だが、見た目が温和ながら怖いと言われる人間ほど、その闇が深く濃いものだと中本は知っていた。

「李紅を捜している探偵さんだって? 誰からの依頼かな? 広海協に報告した以外、失踪のことは誰にも言っていないはずだが」

 社長は笑顔だった。だが、笑ってはいない。表情の分類としては「笑顔」のうちに入るというだけで、それは感情を示すものではなかった。普段従業員以外に見せる表情として張り付いているものだと、中本には容易に推測できた。

「依頼者は申し訳ありませんが明かせません。今日事務所で依頼者の方からお話を伺ったんですが、余りにも手掛かりがなくて、依頼を受けるかどうかもまだ決めかねている状況でして」

 中本は二つ嘘を吐いた。依頼を受けた日と、まだ依頼は正式に受けていないということだ。これを社長が信じるかは分からないが、信じてくれれば依頼主が実習生だとは思わないだろう。

「それで社長。李さんの携帯電話が専務の車にあったそうですが、その電話はどうされました?」

「携帯? それは知らんな。他の荷物なら中国に送ったが」

「それはいつ?」

「月曜日だ」

「つまり昨日ですね。社長が手続きを?」

「そうだ」

「郵便局で?」

「ああ」

「どちらの郵便局でしょうか?」

「あそこの団地の中の……。何郵便局って名前だったか……」

「李紅さんの実家の連絡先を教えて頂けないですかね?」

「それは無理だ。失踪したとはいえ、個人情報が……」

「社長は昨日、終日休みだったんですか?」

「そうだが……、それは何か関係があるのか?」

 答えを全て話し終える前に次々に質問してくる中本に、社長は明らかにイラつき始めていた。中本はそれに構わず質問を続けた。

「念のためです。ちなみに昨日は郵便局以外にはどちらへ?」

「……釣りだ」

「釣り? ゴルフじゃなかったんですか?」

「ゴルフ? あ、ああ。練習場にだけは行ったが。専務がゴルフだと言ったのか?」

「さあて、誰だったか忘れました。釣りはどちらに?」

「瀬戸内に船を出して……」

「船を出して、ということは、ご自身の船で? マリーナはどこでしょう?」

「五日市……。何なんだ。捜しているのは李紅じゃないのか?」

「申し訳ない。自社で働く実習生が行方不明になったらどういう対応を取るものなのか気になりまして。李さんがいなくなったのは浜田のどこですか?」

 社長の額には比喩でもなく血管が浮きあがっていた。

石見いわみ海岸のキャンプ場だ」

「専務と二人で捜して、切り上げるのも早かったみたいですね」

「車に乗って行ったのを見たって人がいたから諦めたんだ」

「どんな車です?」

「そこまでは聞いとらん」

「それを見ていたのは誰です?」

「犬の散歩をしてたおばさんだ。近所の人だろ。名前は知らん。逃げたっていうのがハッキリしただけで充分だ」

「随分薄情なんですね」

「実習生一人いなくなったくらいで仕事を遅らせるわけにはいかんだろう? せっかく景気が上向いてきている今、納期を遅らせるようなことになったらかなわん」

「では、釣りも仕事のうちでしたか。接待か何かで?」

「いい加減にしろ! もう李紅のことで話すことはない!」

 社長の苛立ちは頂点を迎えたようで、そう言い残して車へと乗り込み去って行った。

「はあ……。凄いですね、所長のねちねちチクチク攻撃」

 祥子は汚らしいものを見るような仕草で中本を見た。

「祥子さん、口元が笑ってますよ。……さて、どうしましょうかね。とりあえず石見のキャンプ場かな」

「専務はどうします?」

 祥子が、立てた親指でクイックイッとシャッターの方を指した。

「放っておきましょう。何も話さないですよ、きっと。それより横山さんたちも、もう事務所に帰っているでしょう。俺たちも事務所に戻って方針を決めないと」

「ですね。……それにしても分かりやすい人でしたね、社長」

 中本は苦笑して頷いた。教科書通りの視線の動きが、社長の嘘を教えていた。

「郵便局に確認するまでもない。あれは嘘だ。ゴルフの練習場にも行ってなさそうだし。釣りは本当のようだけど」

「所長は李さんのスマホとかを海に捨てたんじゃないかとか考えているかもしれませんけど、わざわざ海に捨てなくてもこの辺ならいくらでも見つからないような場所ありますよね」

「確かにね。でも、人の心理として逃げたり隠したりするのは生活圏から離れた所にって考えがちだからね。それに、スマホは本当に心当たりがなさそうだった。海に捨てたとしたら他の荷物じゃないかな」

 中本と祥子は充分とは言えない成果を持って事務所へと帰った。

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