三 復讐心

3-1

 八月十八日、火曜日、午後六時。

 中本と祥子は、オオタ加工の寮から六百メートル離れた寺の駐車場にいた。その日の正午過ぎに、唐から地図サイトのリンクが書かれたメールが届いた。通訳はいないが、事務所で見たスマートフォンの写真にも写っていた、一年長く働いている楊を連れて来るらしい。指定されていた時間は五時半だったが、三十分遅れてようやく中本たちが乗る車に歩いてくる二人の姿が目に入った。

 中本と祥子は車を降りて二人を出迎えた。仕事終わりで腹を空かせているであろう彼女らに買ったサンドイッチを差し出す。

「お疲れさま、お腹空いているでしょう。良かったらこれを」

 中本からビニール袋を受け取った唐が隣に立つ楊に袋を回し、彼女も嬉しそうに好みの具が入ったものを選び、残ったものを祥子に返した。

「遠慮なく頂きます。私は楊と申します」

 楊は、滑らかな日本語を話した。唐が事務所で写真を見せた時に「私よりも古い」と言っていたが、小柄で丸いメガネをかけた楊は、唐よりも幼く見える。

「初めまして。私は木戸祥子で、この人は中本所長」

 祥子が楊に笑顔を向けると、楊は二人に深めに頭を下げた。

「そこに座りましょうか」

 祥子が、寺の掲示板の横にあるベンチを指差して言った。四人が座るには小さい。彼女たちをベンチに座らせると、中本と祥子は二人の正面にしゃがんで向かい合った。

「李さんとは連絡取れたかい?」

 中本は答えの分かり切った質問から始めた。連絡が取れたなら、開口一番そのことを伝えているはずだ。

「まだ返事はありません。メッセージに気付いても、返事はしてこないかもしれません」

「それは何か理由が?」

 中本は楊に感心していた。日本語の上手さもそうだが、見た目の幼さとは裏腹に堂々とした居住まいに対してだ。正直、こんな田舎の工場で働くのはもったいないとさえ思えた。

「紅さんのお姉さんも失踪していたのです」

 中本と祥子には初耳だった。李のブログには姉が技能実習生として大阪で働いているとは書いてあったが、失踪については何も書かれていない。もっとも、彼女のブログは、彼女が中国に居た間にしか更新されていなかった。

「それで、そのお姉さんの失踪が何か関係あるのかな?」

 楊は躊躇なく李の姉について話し始めた。

「紅さんから聞いた話ですが、お姉さんは失踪した後に大阪の風俗店で働かされていたそうです。もちろん好きでそんな所で働いていたわけではないでしょう。ブローカーに騙されて買われたのですが、ちょうど接客していた時に、警察の捜査が行われて逮捕されたそうです」

 よくある話だ。中本はそう思った。

「そして中国に帰った後、すぐに自殺しました。紅さんは私たちにはこう話していました。絶対にブローカーに騙されてはいけない。今の仕事が嫌になったら、失踪なんてしないで家に帰った方が良い。その話をした時の紅さんは恐ろしかった。そんな紅さんが失踪したのですから……」

 中本は祥子と顔を見合わせた。祥子は言葉を失っている。李が日本に来た時には、まだその憧れは残されていたのだろうか。もし、憧れではなく復讐心がその胸の中に宿っていたとしたら、単純な仕事を苦にしての失踪、ということにはなりそうもない。

「土曜日に李さんが逃げ出すような……姿を消すような気配はあったんですか?」

 中本が楊に尋ねると楊は、「ない」と首を横に振った。

「唐さんは? 何か聞いていませんでした?」

 中本が唐に聞いても、すぐには返事がなかった。

「唐さん?」

「……ありません。紅さん、いつも通り」

 唐は日本語が楊ほど達者ではない。中本は、再び楊に向かって話した。

「それじゃあ、行きそうな場所とか分からないかな?」

「もしもお姉さんが働いていた場所か、そのブローカーが分かったら、大阪に行っているかも、とは思いますけれど……」

 彼女が復讐心に駆られて事件を起こせば、その可能性があると分かっていて放置していた会社側の責任は大きい。中本のオオタ加工に対しての怒りが増した。

「李さんのスマホが車の中に残っていたって聞いたけど、そのスマホが今どこにあるのか知っていますか?」

 現状唯一の手掛かりになりそうなものは、李が残したスマートフォンぐらいしかない。

「分かりません」

 楊はそう答えた後、唐にも質問したが、唐は首を横に振った。

「社長が持っているか、おう先生が持っていると思います。もしかしたら、もう他の荷物と一緒に紅さんの家に送っているかもしれません」

「翁先生っていうのは?」

広海協こうかいきょう……、ええっと、広島海外技能支援協会の翁先生です」

 話を聞きながら、祥子が庄司宛に広海協と翁の名をメールで伝えた。

「唐さん、前に社長は怖いと話していたけど、具体的にはどう怖いのかな?」

 中本の質問を、楊が中国語に訳して唐に伝えた。答えも楊から返ってくる。

「社長はすぐ怒鳴ります。殴ったりはしませんが、大きな声で。でも、私たちは専務を殴る社長を何度も見ています。専務はとても優しい、良い人なのに……。私たちもいつ殴られるか分かりません」

 どうやら研修生たちに手を上げてはいないようだが、社長は相当荒っぽい性格のようだ。

「浜田では? 社長は怒っていたかい?」

「いいえ。ずっと楽しそうにしていました。私たちも楽しかった。副社長はお酒飲み過ぎてバーベキューの途中から寝ていました。でも、社長と専務は運転があったのでビール一本しか飲んでいなかったです」

「一本しかって……。日本じゃ一本でも飲んだら運転しちゃいけないんだけどな」

 中本が苦笑してそう言うと、楊は驚いていた。

「社長は『一本までなら大丈夫』と言っていました。それは嘘ですか?」

「嘘だよ。堂々とそういうことを言う人は信用しない方がいいな。で、海でバーベキューをした後に、李さんがいなくなったんだよね。その後は具体的にどうしたのかな?」

 中本が聞くと、楊が唐の丸まった背中に手を置いた。

「あの日、社長の車には副社長が乗って、専務の車に紅さんと私たちが乗って海に行きました。そして、バーベキューの時に、紅さんは少し飲み過ぎたと、トイレに行ったきり戻って来ませんでした。それで、専務と唐さんを海に残して、私と副社長は、社長の車で先に温泉に行きました。でも、紅さんは結局戻って来なくて、専務がトイレに捜しに行ったけどいなかったそうです。それで私たちが温泉に入っている間に、専務から電話で呼ばれた社長が、専務と一緒に捜したそうです。でも、結局見つかりませんでした」

「社長と専務はどのくらいの時間捜したのかな?」

「私が温泉に着いたのが四時半ごろ。社長が海に行ったのは五時ぐらいだと思います。唐さんが社長と専務と一緒に戻ってきたのは六時ちょっと過ぎぐらいです」

 中本はその話を聞いて眉間に皺を寄せた。楊たちが行ったという温泉は、海浜公園から車で十五分程度だ。つまり、社長が捜していた時間は三十分程度しかない。

「唐さんはどの辺りを捜したのかな?」

 中本が唐に聞くと、唐は自分の口で答えた。

「捜してない。専務が待ってろ言いました」

「李さんがビーチに戻ってくるかもしれないから、その場にいたってことかな」

 ゆっくりと確認した中本に、唐が頷いた。

 中本は祥子に声をかけて、一旦立ち上がると楊たちに背中を向けた。

「契約の話をしてもらっていいですか? これはもうダメ元でも、社長や専務に話を聞かないとどうにもならない。工場に行ってこようと思う」

「所長」

「ん?」

 祥子が中本に対して訴えかけるような視線を投げている。

「私が最初に会社へ話を聞きに行きます」

「『行かせて下さい』じゃなくて『行きます』ですか?」

 祥子は笑顔を浮かべて並んで座る二人の方を見た。

「彼女たち、かわいらしいと思いません? 写真の李さんだって、大人しそうでおじさん好きしそうだったでしょ?」

 安心させるように二人に対して笑顔を浮かべている祥子だが、その瞳には悲しみや怒りが押し込められている。中本は昨日の佐々岡の言葉を思い出していた。セクハラなんて次元ではなく……。祥子はその場にはいなかったが、彼女たちの様子を見て何か感じるものがあったのだろう。

「私の勘だと、社長や専務は女好きだと思うんですよね。私が行った方が、まだ話してくれる可能性があると思います。所長のねちねちチクチク攻撃より絶対」

「ねちねちチクチクって……。それはケースバイケースですよ。まあ、ケースバイケースというなら、今回のケースは確かに祥子さんが適任かもしれないですね。ワンクッション置いた方が、まだ話してくれる可能性はあるかもしれない」

 中本のその言葉を聞くと、祥子は乗ってきた車のドアを開けて、契約書などの書類の入ったバッグをそのまま中本に渡した。

「じゃあ、そういうことで」

 そう言い残してオオタ加工の工場方面へ歩いて行こうとした祥子を中本は呼び止めたが、「大丈夫です」と祥子は一言残しただけでそのまま去って行った。静かな山間の土地で大きな声を出して呼び止めるわけにもいかず、中本は、まだ見える位置にいる祥子に電話をかけた。

「祥子さん、くれぐれも彼女たちからの依頼だということは言わないで下さいよ。なんなら横山さんからと匂わせるくらいでいいですから」

 電話の向こうの「分かりました」という声と同時に、祥子は振り返りもせず手を頭の上で振った。

 中本は丁寧に楊たちに対して、調査費用や、調査内容の記録方法など細かい説明をして、会社には絶対に彼女たちからの依頼と知られないようにすると約束した。

「お金は払える時に払ってもらえばいいですから。無理して今の生活を切り詰める必要はありません。私はこれから会社に行ってみます。寮まで車で送りたいところですけど、見られるといけない」

「ありがとうございます。お気持ちだけで充分です。費用は私もなんとか払いますから」

 楊はそう言って立ち上がると、中本に頭を下げた。唐もそれに倣う。

「李さんのことだけじゃなくて、何か相談したいことがあればいつでも連絡して下さい」

 中本が車に乗り込んで走り出しても、二人は再びベンチに座って俯いていた。夏の夕暮れを楽しむには心の中がざわついている。その心が静まるのをそれぞれ待っているようだ。

「大丈夫? 気分が良くないみたいだけど……」

 楊が立ち上がり、ずっと黙っていた唐に言った。

「大丈夫。問題ない」

 そう言って下唇を軽く噛んでいる唐を、楊は自分の足で立ち上がるまで静かに待っていた。

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