二 ご縁がありませんでした
2-1
翌朝、就職情報サイトを見てオオタ加工へ横山が電話をすると、その日の午後三時には面接に来てほしいと言われた。
「今の中小企業いうのはこんなもんなんやろうか。面接行ったら『明日からよろしく』なんて言われそうやわ」
横山が冗談でもなくそう言って事務所を出てから、山間部にあるオオタ加工に着いたのが約束の時間の十五分前。すぐにその工場には向かわず、実習生の寮になっている建物を外から眺めていた。
「寮っちゅうより、普通の家やな」
何人がこの寮で生活しているかは分からないが、干されている洗濯物の数から見てそれほど多くはなさそうだった。
日当たりもさほど良くはないだろうその場所は、周りを山に囲われており、同じ敷地内に建つ社長宅を除けば、隣の家まで百メートルは離れている。コンビニなどはもちろん見当たらない。近くのバス停を見ると、朝夕を除けば、バスは二時間に一本程度しか走っていないようだ。車かバイクでもないとかなり不便な生活を強いられるだろう。
そんな寮には車庫のスペースもあるものの、車やバイクはもちろん、自転車の一台もなかった。
「こりゃあ、職場と寮の往復だけだな。……ここに三年か」
技能実習制度は途上国に技術を持ち帰らせ、その発展に貢献するという名目で行われている制度だ。しかし、その正しい認識を持って働きにくる実習生がどれだけいるのか。その正しい認識を持って受け入れる企業がどれだけいるのか。
李は国連からも「強制労働」と揶揄されるこの環境から逃げ出したのか、あるいは何らかの事件に巻き込まれたのか。中国から少なからず夢を見てこの地にやって来た彼女は、ここで何を思って生活していたのか。横山が寮から工場まで歩く道には、機械の動作音と、蝉の鳴き声ばかりが大きく響いていた。
「すみません、面接にきた横山と申しますが、事務所はどちらでしょう?」
横山が工場の入り口でタバコをふかしていた従業員に尋ねると、無言で二階へと上がる外階段を指差した。
「どうも……」
随分と暗い職場だ。横山の印象は良くはなかった。
暗いのは従業員の雰囲気だけではなかった。階段を上り、曇りガラスをはめたアルミの軽いドアを開けると、室内は目が慣れるまで通路がどこにあるのかでさえ分からないほど暗かった。
目が慣れるまでたっぷり二十秒を要し、狭い通路に並べられたロッカーの横を進むと、右手に【事務所】と書かれたプレートが貼ってあるドアがあった。ドアの向こうも暗かったが、横山は念のためノックをしてドアを開けた。
「失礼……しますっと、あれ? ここは事務所じゃないのか」
横山が入った部屋は、電気ポットと電子レンジが置いてあるところを見ると、どうやら休憩室らしい。かつてはそこが事務所だったのだろうが、別の場所に移ったのだろう。それを、プレートを外さずに放置しているだけでも、この会社のいい加減さが分かる。
横山が事務所だと思って入ったその部屋にはもうひとつ別のドアがあり、そこを開けると十二坪程度のスペースで四人の従業員が作業をしていた。
「すみません、事務所は……」
製品の検査をしているその場所に唐がいたが、横山の顔を知らない唐はチラリと横山の顔を見ただけで作業に集中していた。
「あっちの上」
その部屋の一番奥で作業をしていた四十歳くらいの痩せた女性が、作業の手を止めずに横山が顔を覗かせたドアの左手を顎で指した。
「どうも」
ドアを閉めた横山の耳にもはっきりと聞こえる舌打ちの後で、「ああ!」と苛立った声がした。先程事務所の場所を言った彼女だろう。横山も盛大に溜息を吐いた。
「強制労働か……」
横山は、経営陣に会う前から不安が募っていた。
再び薄暗い通路に出ると、出荷を待つ製品が並ぶ広大なスペースの上に、プレハブの箱を置いただけのような事務所が見えた。そこに上がる階段の登り口には、幾つかのスリッパが入れられている下駄箱があった。女性物のスニーカーが一組ある。中に人がいるのは間違いなさそうだった。
横山はそこで靴を脱ぎ、スリッパを借りて事務所へと上がった。
「失礼します。面接にきた横山と申します」
中では悠と同じくらいの年齢の女性が、一人パソコンに向かっていた。
「こんにちは。少々お待ちくださいね、すぐに担当者を呼びますから」
明るい笑みを浮かべてそう言う事務員に、ようやく横山はほっとした。その事務員がデスクに置かれた受話器を上げると、ボタンを押した。
「副社長、事務所にお帰り下さい。副社長、事務所にお帰り下さい」
受話器に向かって話したその声が、工場内のスピーカーから流れた。
「そちらにおかけになっていて下さい。すぐ来ると思いますので」
その事務員が言った通り、一分と待たず副社長と思わしき人物が現れた。どうやら社長の奥さんのようだ。横山と同年代のその女性は、背は小さく小太りで、伸び切ったパーマの頭に老眼鏡が埋まっている。小学生に意地悪なおばさんの絵を描けと言えば、きっと目の前にいるこの副社長のような顔を描くだろうと横山は思った。
「えっと、横山さんね。こっちに入って」
そう言って副社長は事務所奥にある【社長室】と書かれたドアを開けると、部屋の蛍光灯のスイッチを入れた。社長は不在のようだ。
「そこに座って。で、希望はどこだった? ああ、履歴書見せて」
酷く落ち着かないおばさんだ。横山は苦笑して、鞄から封筒に入った履歴書を取り出した。
「これが履歴書です。で、希望……ですが、一応検査の求人を見て応募したんですが」
横山が見た求人情報誌には、製品検査・軽作業で二名の募集とあったが、この副社長はどの求人を出しているかの把握さえできていないようだ。
「あっそう。事務とかはできない? 今ボケーっとした女の子がいたでしょ? アレが今月でいなくなるから」
横山がこの工場に来て、一番まともだと感じた事務員に対して恨みを込めて話す副社長に、気の長い温和な横山もさすがにイラついた。
「事務は経験がないので。……今日、社長は不在なんですね?」
長くは居たくない。そう思った横山は、本来の目的を済ませてしまおうと話を変えた。
「社長はゴルフ。結構上手いんよ。この前もコンペで優勝して帰って来てね」
横山は呆れた。この小規模な工場の社長が平日にゴルフというのは、まあよくある話だ。呆れたのは、そのゴルフの腕を我がことのように満面の笑みで自慢する副社長だ。とても二日前に技能実習生が失踪した会社で、副社長という肩書を持つ人物の発言とは思えない。
「今こちらでは何人の方が働いていらっしゃるんでしょうか。先程、中国人の方もいらっしゃったみたいですけど」
横山が「中国人」という言葉を出しても、副社長の表情が変わることはなかった。失踪した事実などまるでないかのようだ。
「今はね、下に八人。上に八人。ああ、事務員は入れずにね。その中に中国人の実習生は下に一人と上に二人……ああ、一人いなくなったから上も一人か。実習生ってどこの国が良いんでしょうね? ベトナムもいいって聞くんだけど。中国はダメね。今年だけでもう二人いなくなったもの」
横山は耳を疑った。今二人と言ったか。まるで他人事のようにへらへらと笑う副社長に、思わず怒鳴りつけたくなった。
「失踪、ですか? 大変ですね……」
平静を装いそう言ったものの、横山の口角はヒクついていた。
「どうせ三年しかいないからね。それでも日本人より長くいるけど」
完全に自社に非はないと思い込んでいるのだろう。全く問題として捉える意識が無いように言い放っている。
「どういう仕事をされているか見学させてもらっても良いですか?」
他の従業員がどう働いているのか見てみたい。横山は仕事よりも人に興味を持ってそう言ったが、当然副社長はそうは捉えていない。それでも腰を上げて横山の要望には応えた。
「今までゴムに触ったことは?」
この工場ではゴムや樹脂の製品を製造している。質問は「ゴム製品製造に関わったことがあるか」という意図だと判断し、横山は首を横に振った。横山は製造業に就いたことは一度もない。
「そう。まあ中国人にもできる仕事だから簡単よ」
この副社長は、常に他人を下に見る性質のようだ。横山が一番嫌悪感を抱くタイプの人種だ。横山は、祥子を寄越さなくて良かったと心底思っていた。はっきりとものを言う祥子が来ていたら、間違いなく状況確認などできなかっただろう。
副社長は、まず一階の成型と呼ばれる作業をしているスペースから回った。材料となる帯状のゴムが機械に吸い込まれ、高温で型に流される。そのゴムの焼ける臭いが目に刺さるようだ。この臭いにも慣れるものなのだろうか。
作業をしている従業員は、横山を気に止めることもなく黙々と作業をしていた。
副社長は機械の動作音に負けじと大声で横山に説明をしていたが、もとより働くつもりなどない横山は、雑音にかき消されて認識できない言葉に適当に頷いて、作業員の表情に目を配っていた。
従業員の年齢はまちまちだ。二十代前半の若者もいれば、六十歳手前の人もいる。就職情報誌にあった「アットホーム」という言葉はどこを見てそう書いたのか。従業員同士の繋がりが太いとは感じられない。
高温の機械が並ぶ作業場は酷く暑い。ゴム製品の型を造るためのものだと思われる小型の溶鉱炉こそ稼働していなかったが、作業員の服は例外なく汗で濡れていた。
二階に上がると、横山が最初に顔を覗かせた部屋へと入った。一階と違い音も静かで空調もよく効いている。
「山根ちゃん、ちょっと仕事見せてもらえる?」
副社長がそう声をかけたのは、横山に事務所の場所を教えた女性だ。
「えー、忙しいから嫌です」
山根ちゃんと呼ばれた彼女は、先ほど横山に見せたのとは別人のように明るい顔と声で、副社長にそう言って見せた。顔は笑っているが、周囲を纏う空気が本心から拒否していると示していた。
横山は軽くショックだった。「忙しい」と口に出すのは、自分に仕事をこなす能力、キャパシティーがないと言っているようなものだ。少なくとも今まで横山が働いてきていた営業畑で「忙しい」などと自分から言う人間はいなかった。その横山に対して、更に副社長が追い打ちをかけた。
「あっそうか、どこかのお利口さんがいなくなったからね」
その副社長の一言は横山だけでなく、同じフロアにいた唐の表情を固めるに充分な威力があった。
「いなくなった方を捜さないんですか?」
その横山の言葉に、副社長は両手のひらを上に向け、首をすぼめて見せた。そのアメリカ映画を意識したような動きが滑稽であるのと同時に、横山には酷く腹立たしかった。
「捜さない、捜さない。勝手にいなくなったんだもの。帰って来ても、もう仕事には来てもらわなくていいわ。荷物も国に送りつけたし」
これはダメだ。横山は心の中で中本に謝罪した。この様子では会社から捜索の依頼を取るなど不可能だろう。
「分かりました。今日はありがとうございました。残念ながら、今回はご縁がなかったということで。あ、履歴書は返して下さい」
副社長は一瞬呆気に取られたが、直後に上向きについている鼻の穴を広げ「ふんっ」と鳴らした。
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