1-2
祥子の視界にバス停が入った瞬間に、目当ての人物がすぐに分かった。周りのバスを待つ人々とは明らかに違った色彩感覚のファッションに、日本人らしからぬものを感じた。
バス停のベンチに座る中国人女性は、ピンクのジーンズを履き、スニーカーは明るいブルーだ。パステルカラーのストライプ柄のベースボールキャップまで被っている。
「トウさんですか?」
祥子がその女性の正面まで歩いて尋ねると、彼女は立ち上がって、今朝の朝刊の折り込みチラシを祥子に差し出した。
「これ見ました。電話の人ですか?」
「そうですよ。トウさん一人で来たの?」
「はい。そうです」
電話で受けた印象でもう一人いると感じていた祥子は、首を捻って辺りを見渡した。だが、トウ以外には、バスを待つ老婦人と、スーツを着たサラリーマン風の男がいるだけだった。
ノーメイクで夏の日差しの下に立つトウが、祥子には高校生ぐらいに見えた。だが、日本で働いているということは、少なくとも高校生ではないだろう。とりあえず詳しい話は事務所で聞くことにして、彼女を事務所へと案内した。
中本探偵事務所のある築四十年を過ぎた「ニューシティ・シャインビル」の階段を上がる間に、祥子の後ろをついて歩くトウは、電話を耳に当て誰かと会話している。その会話の中で、「アイヤー」という言葉が聞こえて、祥子が振り向いた。
「『アイヤー』なんて本当に言うんだ。マンガとかの中だけかと思ってた」
笑ってそう言う祥子に、トウが笑って頷いた。
「言います。よく言います。アイヤー、アイヤー」
祥子がそれを聞いて、「アイヤー」と繰り返し呟きながら、事務所のドアを開けて中に入ると、トウは電話を切った。
「アイヤー……じゃない、どうぞ、入って」
祥子が促すが、トウはその場から動かなかった。
「どうしたの?」
もう一度祥子が話しかけると、トウが申し訳なさそうな顔をしていた。
「お金、いくらですか?」
チラシには細かい金額は記載していない。彼女が費用の心配をするのは当然のことだった。
「それも詳しい話を聞いてから。大丈夫、今日は一円も要らないよ」
祥子がそう言うと、やっと安心したようにトウは事務所の中へと入ってきた。事務所に入ると、パーティションに区切られた応接セットのソファーへと案内した。
「コーヒーとお茶、どっちが良いかしら? あ、オレンジジュースもあるけど」
「オレンジジュース」
ソファーに座ったトウが答えて、笑顔を見せた。
祥子はその様子を見て少し安心し、トウの前に一枚の紙を出した。
「これを書いてもらいたいんだけど……」
契約書ではなく、依頼人の名前と依頼内容を書く紙だ。依頼人の中には、この事務所に平静とは言えない状況で来ることが多くある。その時に口頭だけでは、情報が上手く伝えられない。あらかじめ決められたフォーマットに手書きで記すことによって、落ち着かせる効果もある。祥子がトウに渡したのは、その中でも人捜しのフォーマットで作られた、基本情報入力用の物だ。
「日本語は読めますか?」
祥子の問いに、トウはスマートフォンを取り出して頷いた。分からない言葉はこれで調べられると言っているようだ。
――依頼人。
――不明者。
二人の勤務先は、いずれもオオタ加工と書かれた。どうやら自動車部品メーカーに、今年の四月から外国人技能実習生として働きに来ているようだ。
「ありがとう。ちょっと待っててね」
祥子はオレンジジュースをテーブルに置いて、唐が書いた紙を受け取ると、一旦悠のデスクに向かった。
「ちいちゃん、これを入力して。『捜索・人』っていうテンプレートがあるから。あ、やっぱり、最初だけちょっとやってみせようか」
祥子は悠の隣に身を寄せて、悠のパソコンに向かってその内容を打ち込みながら、作業の説明をした。
「いなくなったのは彼女の同僚かい?」
中本がキーボードを叩く祥子に聞いた。
「はい、あれですよ。最近何かと話題の技能実習生です」
「やっぱりそうか……」
中本が「やっぱり」と言うのも無理もない。近年失踪する技能実習生の数は増加し続けている。
「会社側ではなく、同僚が依頼に来たというのも問題だな。さて、どうするか……」
探偵社は当然ながら一般私人と同じで特別な権限などはない。失踪した李を見つけられたとして、再び今事務所にいる唐と同じ職場で働かせるのは無理だろう。受け入れ企業や団体にも、実習生の所在が分からなくなった場合は、入国管理局へ届け出る義務がある。その時点で、職場への復帰は事実上不可能だ。自分で失踪した場合ではあるが。
「とりあえず話だけでも聞いてみるか」
親元を離れてやってきた異国の地とはいえ、頼る相手がいなわけでもないはずだ。仲介業者や、勤め先の会社に相談できない理由も、中本には気になっていた。
「会社は捜してくれないの?」
中本がそう確認すると、ソファーに浅く座った唐が何度も頷いた。
「社長も、専務も、捜さないです」
「捜さない、か。随分と薄情なんだな……。悠さん、このオオタ加工って会社を調べて下さい」
悠がインターネットで調べたが、オオタ加工のホームページは見当たらなかった。
「今時珍しく、会社のホームページは持っていないみたいですね。悪い噂は沢山出てきますけど。まあ、ネットってそういうもんですよね」
中本は悠が持ってきたノートパソコンに表示されているページを確認した。
「有限会社か。それならホームページ持っていなくても不思議じゃないだろ。決算公告の義務がないんだし。……にしても、確かにいい会社とは呼べそうにないな。求人が絶えず出ているじゃないか。お決まりの『アットホームな職場です』って
中本は悠に下がらせ、唐の方に視線を向けた。
「それで、李さんが帰らないって、どこから帰らないのかな?」
中本の質問に対して、唐がスマートフォンを出して写真を中本に見せた。
「昨日、ここに行きました。浜田の海」
浜田というのは、島根県浜田市だ。広島県の北、日本海に面する浜田市は、釣りやサーフィン等のマリンレジャー目的に、通年広島から多くの人が訪れている。
「ちょっと見せてもらっていいですか?」
中本が唐に断ってスマートフォンを手にした。広い砂浜でバーベキューをしている写真が表示されている。画面には目の前にいる唐を含め、六人の男女が写っていた。年齢もバラバラだ。同じ会社で働く人たちだろう。
「写真はこれだけ?」
中本が唐に聞くと、唐は「そうです」と頷いた。姿を消した李を案じているのか、唐の表情は曇っている。
「どっちが李さん?」
写真には、唐の他に、二人若い女性が並んで写っている。二人共、唐同様幼く見える。中本は、その二人を指差して尋ねた。
「李さん、これです。これは
「古い? 先輩ってことか。この写真、メールで送ってくれるかな?」
唐は頷くと、中本が差し出したスマートフォンに表示されたメールアドレスに写真を送信した。
唐がスマートフォンを操作する間にも、中本は唐の様子が気になっていた。日本語が得意ではないのだろうが、それにしても表情が硬い。
「この写真は誰が撮ったのかな?」
「分からない人」
唐は首を横に振った。
「通りかかった人に撮ってもらったのかな?」
「分からない人」
今度は頷きながら同じ言葉を繰り返した。
「それじゃあ、李さんは昨日、浜田でこの写真を撮った後いなくなった。そういうことか」
写真が一枚しか撮られていないとすれば、この写真を撮影した後は、写真を撮るどころではなくなったのだろうと考え、中本はそう聞いた。
「はい。そこの海でバーベキューした。次に、温泉。温泉に行く時、紅さんいないです。社長と専務が少し捜した。いないです。他の人は帰りました」
会社側は李が姿を消したのを、自分から失踪したと判断したのかもしれないが、社員で小旅行に出かけた時に行方が分からなくなった技能実習生を、会社が充分に捜さないという事実が中本には理解できなかった。
「所長、その社長と専務に話を聞いた方がよさそうですね」
祥子の意見に中本も頷いたが、唐は激しく首を横に振った。
「ダメ! 社長怖い!」
予想外の反応に、中本と祥子は顔を見合わせた。
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