カスケードクライシス

西野ゆう

一 リコウさんが帰りません

1-1

「お電話ありがとうございます。中本探偵事務所、森でございます」

 広島市郊外の可部かべ地区。周囲を山に囲まれたこの街の夏は蒸し暑い。四階建ての雑居ビルの最上階にある中本探偵事務所は、空調を働かせても焼けたコンクリートの熱がじわじわと伝わってくる。

 暦の上では秋になってはいるが、涼しさとはまだ無縁のこの八月に事務員として働き始めたもりちかが、滅多にかからない電話を耳から離して受けたのは、相手の声が大きかったわけではなく、受話器のぬるい感触を耳で味わうのが嫌だったからだ。

「すみません、私はトウケンカです。リコウさん、帰りません」

 電話の向こうから聴こえてきた片言の日本語で、その女性が日本人ではないと容易に判断できた。

「えっと、刀剣家さん? 誰が帰らないんですか?」

 悠は、自分より四歳年下ではあるがこの事務所では先輩の木戸きど祥子しょうこに助けを求める視線を投げた。「ほとんど近所のお年寄りからの、お使いみたいな電話ばかりだから」という事前の説明とは全く違う電話に、悠は早くもお手上げだった。

「あら、どうしたの、ちいちゃん。電話代わりましょうか?」

 その祥子がやや胸を反らして言うと、悠は受話器を手で覆い、もう片方の手で拝むようなジェスチャーをした。

「お願いしていいですか、先輩」

 言葉の最後にハートが飛びそうな甘えた声で、悠が答えた。

「よく見て勉強してねっ」

 それに対して祥子も音符が飛びそうな跳ねた声を出す。

「すみません、お電話代わりました。木戸と申しますが、どうされましたでしょうか?」

 にこやかに電話に出た祥子の顔が、みるみる曇ってゆく。電話の向こうで早口に話される言葉が、祥子には辛うじて中国語だと分かるだけだった。

 祥子が悠を見ると、口元を押さえて笑いを堪えていた。その後ろでは、所長である中本みのるがのんびりと一週間前の写真週刊誌を読んでいる。その中本がデスクに置かれたマグカップに手を伸ばして口元に運んだ時、祥子の情けない視線とぶつかった。

「ん?」

 中本が声を上げると、祥子が泣きついた。

「所長が変な広告出すから、変な電話がかかってきたじゃないですか!」

「変な広告ってことはないでしょう? センスがちょっと古かったかな、とは俺も思ったけど……」

 中本探偵事務所の歴史は長い部類に入る。戦前から始まったその歴史は、現所長の中本稔で四代目を数える。中本が父親からこの探偵時事務所の経営を任されたのは、今から四年前、中本が二十五歳の誕生日を迎えた時だ。

 その長い歴史は赤字の歴史でもあった。その赤字は、中本家が他に所有している不動産収入でカバーできていたとはいえ、会社として存在する以上、利益を求めるのが健全な姿だと、三か月前に中本の父親が今までのボランティア寄りだった経営方針を軌道修正した。

 そこで、今日の朝刊に折り込み広告を出した効果が、早くも出たらしい。

「で、変な電話って何なんですか?」

 中本が保留にされた電話を引き継ごうと受話器を上げ、点滅する外線一番のボタンに指を置いた。

「中国語なんですよ」

 祥子のその言葉を聞いて、中本は一度上げた受話器を置いた。

「中国語? でも広告は日本語でしか出していないんだから、電話してきたってことは、日本語も分かるはずでしょう?」

「そんなのこっちが聞きたいですよ」

 祥子と中本のやり取りに、それまで笑いを堪えていた悠が真面目な顔をして言葉を挟んだ。

「でも、私が受けた時は日本語でしたよ。片言でしたけど……」

 それに祥子は首を傾げた。

「え? 私の時はずっと中国語だったけど?」

「祥子さん、それって一瞬保留になったから、一緒にいた人とでも話してたんじゃないのかい?」

 中本の指摘に思い当る節があったのか、祥子は斜め上を見てペロッと舌を出した。

「ああ、そうかも」

「ふう……。まあいいです。俺が受けます」

 中本は再び受話器を上げて、一番のボタンを押した。

「お待たせしました。所長の中本です」

 電話の向こうからは、祥子の言葉通り中国語が聞こえていた。

「もしもし、ご用件をお聞かせ願いますか?」

 再度中本がゆっくり呼びかけると、一旦相手の言葉が途切れて今度は日本語が返ってきた。

「リコウさんが、帰りません」

 女性というよりも、女の子と言った方がいい印象の声だ。

「リコウさん、ですか?」

「そうです。昨日、帰りません。今日、帰りません……」

 どうやら、リコウという人物が昨日から帰らないということらしい。今日が八月十六日の日曜日。多くの企業は今日までが盆休みだろう。

「今日お仕事は休みですか?」

「はい、明日お仕事です」

「こちらの場所は分かりますか?」

「分からない。今、可部かべ上市かみいちバス停」

 電話の相手は、中本探偵事務所から五十メートル離れたバス停の名前を出した。広告の地図に載せた最寄りのバス停までは辿り着いているようだ。

「すぐに迎えに行きますから、そこで待っていて下さい。そちらのお名前は?」

 中本は電話に表示されている相手の携帯番号をメモしながら尋ねた。

「私は、トウケンカです」

「トウケンカさんですね。分かりました。そこを動かないように」

 中本は電話を切ると、祥子にバス停まで迎えに行くように指示した。祥子の持つ柔らかさは、初対面の人物の緊張をほぐすのに最適だ。祥子自身も、中本が充分電話でコミュニケーションを取れていたのを見て安心したようだ。

「それじゃあ行ってきます!」

 祥子は中本から名前と電話番号をメモした紙を受け取ってバス停へと急いだ。

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