第3話 生活臭
ドアを体がギリギリ入れる程度に開けると同時に、マリはすぐに閉めた。この部屋の汚れが廊下に行かないようにするための、ほんの一粒の、涙ぐましい努力だと自分でもわかっている。しかしその動作中ずっと笑顔だったので。
「お帰りなさい、マリ。何か良いことがありましたか? 」
「違うの、ドアを開けた途端、美味しそうな匂いと暖かかったから、うれしくって」
「この前のドアの補修で密閉性が増しましたから」
「料理もありがとうミント、わあ美味しそうな具がたっぷりのスープ」
しかしその後、ミントの声は聞こえなくなった。
ミント、それは彼女達が誕生の時から支える人工知能である。時代によってロボットになったこともあるが、現在では音声だけとなっている。実体は巨大なコンピューターで、図書館の奥にミントの本体がある。この部屋にあるのは持ち運びの出来る「一部分」といった所で、時々、マリはミントと「お出かけ」することもある。現在のミントの声はマリに合わせてなのか、二十代ぐらいの中性的な声である。マリはミントのこの声が初めて聞いたときからとても好きだった。それが全く聞こえない、明らかにミントの意思で止まっている。
「あ! もしかしたら・・・・その・・・ミーちゃんって呼んだ方が良かったのかな」
と気が付いた。
それは今朝のこと、ミントがマリが一日中ほとんど一人でいることを心配して、二人で話しているときのことだった。
「私大丈夫よ、ミントがいるからさみしくない。いつも感謝しているの。
ここでのあなたは、とてもやさしい。しかもお料理まで作ってくれる」
「材料はあなたが買ってきて、料理は機械がやってくれています。私はメニューをインプットするだけです」
「それでも楽しいわ。お話が出来る猫といるみたい。私の星では、猫に
ミーちゃんって名前をつける人が多いのよ」
「そうですか、お好きならそう呼んでください」
ミントは良く冗談も言うので、そうだと思っていたのだ。
「ミント・・・ミーちゃんで本当にいいの? 」
するとしばらく間があって
「マリ、あなたは今までの巫女の最年少なのです。ですから・・・・私もちょっと・・・それにあやかりたいと思いまして・・・そう呼ばれるほうが若返るような気がします」
「ハハハハハ、そうなの? 」
マリは街で出会った高校生のように笑った。なぜならミント年齢は二百年を超えている。歴代の巫女の記憶、記録、その全てを知っている。さち先生は数ヶ月一緒にいて、色々と教えてもらったが、当時彼女の体調が思わしくなく静養が必要だった。それからはミントが図書館では先生代わりであり、ここでは母親であり、友人であり、ペットのようでもある。つまりマリにとって家族以上の存在なのだ。
「そうね、じゃあここではミーちゃんって呼ぼうかな、図書館ではちょっと呼べない」
「どうしてですか? 」
「だって、ちょっと怖いくらいだもの。真剣で」
「マリ、あなただってそうですよ。仕事中はそんな可愛らしい笑顔は見せませんから。不思議です、私はあなたたちを「巫女」と呼ぶのが嫌いでしたが、今は本当にふさわしいと思います。あなた方は図書館を神聖な場所と認識して行動している、ですから巫女と呼ぶのは本当にふさわしいでしょう」
「え! 私図書館でそんなに違う? 」
「違いますよ、人間は自分の顔は見えませんから、さあ冷めないうちに食事を。ちょっとだけ香辛料を加えてみました」
「わあ! 楽しみ! 」自動調理の鍋からお皿によそって、キッチンカウンターの隣にある椅子に座った。ちょっと離れたところにテレビと小さなテーブルもある。この部屋にキッチン兼居間で、大きさはそれほど広くはない。一人暮らしの会社員が住んでいる所とそう変わらない。ただ隣に小さなベッドルームとデスクがあるので、その分は特殊と言えば特殊である。
普通通り食事を終え、お皿は自分で洗って、シャワーを浴びる前にミントは
「おやすみなさい」を言って、自分でこの部屋での電源を切る。AIとはいえ、高性能になると面白いことに「休息」が必要となる。情報の整理という意味でもあるが、完全に「眠る」こともある。マリの安全は一般のシステムに任せ、彼女は本当に一人の時間となる。
「どうかな、さち先生にはミント、いやミーちゃんが連絡してくれるというけれど。
体調も元に戻ったみたいだから」
布団の中で、マリは茶色い皮の色と、青ユリの赤紫を思い出し
「そうか・・・あの色は・・・私の星の夕焼け色だったな・・・・」
穏やかに眠りについた。
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