2章 アザレアの心臓

潜水艦トロイメライ

「不埒者めが」


 約二十分後、僕は「ご休憩」のホテルの一室のベッドの上で“バリア”を張って立て籠るアザレアに、きつい目で睨みつけられていた。あ、枕が飛んできた。ぼふ。


「そのバリア、そっち側からは抜けられるんだ」

「うむ」

「他になんか弱点はないの?」

「それを訊いてどうするつもりじゃ?」

「いや別に」

「吾が許可を出したものだけが、このバリアをすり抜けることができる。つまり吾のうら若き肉体におかしな野望を抱き、なおかつその下心を隠してこんなところに誘い込みおった雄犬などは論外じゃ」

「手厳しいな」

「……それに」

「それに?」

「吾といま、ここで情を交わしたとして、そのあとどうするつもりだったのじゃ」

「そのあと、とは」

「今のこの、空に月が三つある世界」

「ああ」

「いつまでも続きはせぬ。また、いつまでも続かせるわけにはいかぬ」

「まあ……そりゃそうだ。このままだと、この世界はどうなるか分からないもんな」


 つい、アザレアの魅力に負けておかしな真似をしようとしてしまったが、そんなことをやっている場合ではないといえばないのだった。ここにもテレビがあるからいまニュースを付けているが、世界のどこかで、異世界人同士の衝突が既に始まっているそうだ。地球の軍事力は甘く見たものではないが、アザレアがそうであるように異世界には異世界の戦闘向けテクノロジーもちゃんとあるわけで、いまのところ戦局がどうなっていくかは見えない。


「あのな、ここだけの話だから言うがの。吾も、汝のことを男として見ておらんわけではない」

「はえ? どういう意味?」

「……っ! 幾度も言わすな! 情を交わすことも満更とは思っていない、という意味にしかならんじゃろが!」

「え? いいの?」

「よくないわ馬鹿者!」

「どっちなんだよ」


 また枕が飛んできて、ふん、とアザレアはそっぽを向く。


「吾は魔王の血を引くものじゃ。その吾と情を交わすということは、我が伴侶として生涯をともにするということ。そこまで覚悟しておるのか? しておらんじゃろ?」

「そ……それはまあ」


 やりたい一心で肯定の意思表示などしようものなら後でどうなるか分からないから、さすがにそう言っておく。


「一つ、少し前の話をしよう」

「すこし?」

「そう、少し。少し昔あるところに、父親を失ったお姫様がいました」

「……む」

「家族はすべていなくなり、家来たちにも見放され、女官たちもいなくなり、お姫様は略奪を受ける城の自室で震えておりました」

「大丈夫だったのか?」

「バリア」

「ああ……」

「守ることができたのは自分の命だけでした。途方に暮れ、できることは何もなく、お姫様は寝室の上で、ひとり毒薬をあおって自ら命を絶とうとしておりました」

「そんなことしたの?」

「未遂に終わった」

「なぜ」

「お姫様が毒薬をあおろうとしたまさにその時、突然そこに不埒な犬が現れました」

「誰が不埒な犬だよ。だけど、そうだったのか」

「そう。天の助けか、魔の配剤か、何だか分からないけど、とりあえず、もう少しは生きてみようかと、お姫様は思いました。おしまい」

「なんていうか……大変なんだな、お前も。魔王なんて言うから、もうちょっと偉くて強いのかと思ってたけど」

「正式には、まだ魔王ではない」

「そうなの? 自分で魔王アザレアだって言ったじゃないか」

「厳密に言うと、継承の儀を済ませて初めて正式な魔王になれる。そして」

「そして?」

「魔王が不在の状態が解消されれば、おそらくこの異変を終息することができる」

「なるほど。具体的には、どうすればいいんだ?」

「儀式そのものは一人で行うことができる。ただ、重要なことが一つあって」

「うん?」

「魔王の子であった者が性の清浄を保った状態でないと、魔王にはなれない。男でも女でも」

「完全に世襲なんだ。危なっかしいルールだな」

「うむ。おかげでついさっき魔王位が断絶しかけた。誰かさんのせいで」

「知らんかったんだよ! しょうがないだろ!」

「しょうがないで済むか。乙女の唇を奪いおってからに」

「ごめん」


 実はそこまでは達成していたのである。


「そういうわけだから、セツナの気持ちには応えられない。それとも、二人で一緒に世界を滅ぼすか?」

「……」

「一緒に、融合していく世界の中で、戦い抜いていく覚悟があるか? ゆうべほんの世界の乱脈で出会っただけの、吾とともに、な」

「……すまん」

「ふ。振られてしもうたの」

「……すまん」

「謝るでない。吾にも女の面子というものがあるのじゃ」

「そうか」

「それでは、ここで継承の儀をさっそく、始めるとするが。儀式が始めれば、二つの世界はもとの状態に戻り始める。だから、これが最後じゃ。特別じゃからな」

「え?」


 抱きつかれて、唇を奪われた。今度はアザレアの方から。


「これが吾の初恋の味、じゃからな。覚えおけよ」

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