川崎の同期生 前編
「二十九日なんだけど、暇だったら川崎に行かないか?」
「や、リュウジに予定があるんなら、無理にとは言わないけど……」
どうせなにかオタク的なイベントの誘いだろう。去年のハロウィンのときと同じ顔をしてる。眉を寄せる僕の一瞥で勢いをなくしたハヤトだったが、気を取り直して話を続けた。
「北宇治の吹奏楽部がさ、川崎で公開演奏するんだって」
「北宇治の吹奏楽部? ユーフォの?」
「そうそう。いま第三期やってるだろ。あれの劇伴CDが発売されるんで、そのリリイベって話」
京都を舞台に高校吹奏楽部の活動を描いた名作アニメ『響け!ユーフォニアム』なら、僕も観ている。なんなら、今季オンエアの中で最も注目している。その吹奏楽部が、川崎で?
ハヤトの説明を聞きつつ、頭の中で直近の予定を確かめる。世間的には週末から大型連休がはじまるわけだが、うちの業界ではむしろかき入れ時にあたる。僕も三日の憲法記念日が本番のパレードを控える身なので、ちゃんとした休みは後半に合わせることで調整している。だから前半でのプライベートな予定は空っぽだ。そして昭和の日の二十九日は進行表では予備日扱い。順調に進んでいる今の状況だととくに業務は入らないはず。
「劇中の演奏を担当してるオケがやって来て、きっちり生で演奏するらしい。って
あの演奏をナマで聴けるのか。そんなの、考えるまでもない。
「行く」
僕の即答に、緊張気味だったハヤトの顔がゆるんだ。
「よかった。ヒマリもよろこぶ」
「あいつも来るのか?」
「僕はお邪魔じゃないのか?」
「むしろ来てもらわないと俺が困る。あいつ、ユーフォの話したくてうずうずしてるから。にわかの俺相手じゃ役不足過ぎて話にならないって」
あいかわらず乱暴な物言いをしてやがる。だがハヤトはそんな扱いにも満足しているようだ。根っからのM体質だからな、こいつは。
「ハヤトがそれでいいんなら、僕は問題ない。それじゃ、あとで集合の詳細を送ってくれ」
初夏を思わせる好天の下、僕は半袖の黒Tシャツ姿でアーケード街外れの信号が変わるのを待っていた。スマホの地図によると、目の前の通りを挟んだ向こう側が目的地らしい。
南欧風の名前が付けられたその通りはレンガ色が目立つ街並みで、およそ日本らしくない風景だった。歩行者オンリーの石畳の広場には、すでにそれらしい列ができている。思っていた以上に年令層は高そうだ。
「リュウにいちゃん!」
列の後方から声が聞こえた。
見ると、カップルの女の方が手を振っている。ヒマリだ。
「おおむね時間通り。感心ですね。さすがはリュウにいちゃん」
ヒマリは相変わらずの上から口調で僕を迎えてくれた。ライムグリーンのワンピースが目にまぶしい。サマージャケットを腕から下げたハヤトが彼女の隣で苦笑いをしている。
「本日はお誘いいただきありがとうございます」
「お、いいですね、その謙虚なたたずまい。センパイの好感度が爆上がりですよ」
「悪いねリュウジ。ヒマリのやつ、朝からテンション上がりっぱなしで」
そう言って苦笑するハヤトに、ヒマリは食ってかかる。
「なに涼しい顔してんの。これを興奮しないでどうするの。だいたいですね、ハヤトくんもにいちゃんも、準備がなってません!」
ハヤトが腕から下げた焦げ茶色のサマージャケットを引っ張って、ヒマリは怪気炎をあげている。
「なんですか、この煤けたような色は。リュウにいちゃんも。TPOってものがあるでしょうが。ほら、そこへいくと私なんか」
そう言ってワンピースの裾を軽く持ち上げるヒマリ。
「見てください、この色合い。北宇治吹奏楽部といえば、テーマカラーはライムグリーン。この日のために先週探し回って用意しましたよ、ワンピース」
「ガチだな、おまえ」
「ガチに決まってるじゃないですか。だってプログレッシブ・ウインド・オケの生演奏ですよ。三日月の舞ですよ。リズと青い鳥ですよ! なんなら、
「いやいやいやいや。そんな長いのとか、やらんだろ。フツーは」
「わかんないですよ。サントラCDのリリースイベントですし、きっと大サービスしてくれるに違いありません」
願望百パーセントのヒマリには、いまはなにを言っても無駄だろう。僕はハヤトと顔を見合わせて、ヒマリに気づかれないよう小さく笑った。
コンパクトな
光の演出における制作プロダクションの素晴らしさをハヤトに啓蒙するヒマリから目線を外し、僕は左右を見回した。すり鉢底の円形広場を半周ほど取り囲む二百余りの階段席は満席で、開演三十分前だというのにすでに立ち見の姿も二重ほど連なっている。背景に流れるおなじみの楽曲を聴きながらぼんやりと彷徨っていた僕の目は、十人分ほど先のひとつの顔にフォーカスして止まった。涼しげな白いシャツを纏ったショートカットの若い女性。見覚えがある、気がする。仕事で? いやもっと前か?
無人のステージを見つめていた女性の顔が不意に動いてこちらを向く。目が合った。逸らすことなくこちらを見つめ、それから眉を寄せる。たぶん僕と同じ。記憶の層を探ってる。
と、彼女の瞳が大きく見開かれた。波紋のように笑顔が広がる。
僕も思い出した。三年以上前の
「ひとの話聞いてる!?」
強引に袖を引っ張るヒマリの声で、僕は現実に引き戻された。
アンコール曲『宝島』の余韻が冷めやらぬ中、深々とお辞儀をした演奏者たちは万雷の拍手に送られてすり鉢の階段を上っていった。
「階段での押し合いは大変危険ですので、お帰りはこちらで指定いたしますブロックの方から順にお願いいたします」
中央付近に陣取っていた僕らは一番最後。運営の係員に指示されたブロックの観客たちが立ち上がった。一斉に背を向ける群衆の隙間から、翻るシャツの白が一瞬だけ覗いた。
階段を上りきり、地面の高さに戻ってきた。ゆっくりと進む帰り客を見送るように、マスコットキャラのチューバくんが大きな体をゆすって手を振っている。
「めっちゃよかったぁ」
語彙を失ったヒマリが何度目かの同じ感嘆を漏らすのを聞き流し、僕は前を行く人ごみに目を凝らしていた。でも白いシャツの後姿を見つけることはできなかった。
駅弁大学の同級生。専攻は違ったはずだけど、同じゼミの女子とよく一緒にいたから会釈したことくらいなら何度かあった。今ほどのショートではなかったけれどやはり短めのボブで、少し髪を染めてるときもあったはず。普通にしてると可愛い感じのひとに見える。だが、ちょっとしたとき見せる表情がとてつもなく妖艶で、その落差が物凄かったのを憶えている。
帰り客の流れもばらけ、ひとびとは思い思いの方角に流れて街に希釈されていく。僕の目は、まだ白いシャツを探している。
おかしいな。言葉を交わした記憶さえ覚束ない、同じキャンパスにいて見かけたことがあるだけのひとなのに。どうして僕はこんなに固執しているのだろうか。
「どうする、リュウにいちゃん。私たちはこれからサイゼにでも行って感想会を執りおこなうつもりなんだけど、もちろんにいちゃんもご一緒するよね?」
背中から浴びせられたヒマリの問いかけは、しかし僕の耳に留まることはなかった。
脇道のイタリアンレストランの壁を背に、彼女は立っていた。真っ白のシャツを少し緩めに着こなして、まるで当たり前のような顔をして僕の視線が止まるのを待っている。
魅入られたかのように歩を踏み出しながら、僕は思い出した。
同じゼミを終えて研究棟から出てくる僕ら。ゆかりんは僕らの列から離れ、名前を呼びながら彼女に向かって駆けだした。顔を上げた彼女が同い年とは思えない深い貌を浮かべ、その一瞬後に屈託のない笑顔で友人を迎える場面。
そう。あのとき彼女はこう呼ばれていた。
まーや。
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