ふじVストミーティング

 夜明け前の海岸道路を相棒のⅤストロームとひた走る。左手に広がる深い藍は太平洋。星の見えない空が水平線の向こうからほんのりと蒼を薄くしはじめている。時折すれ違うトラックのほかは動くものも無い道路に白い光を当てて、私は走る。あまり重くない、むしろ軽快な排気音を底冷えする風に響かせて。

 緩いカーブを経てトンネルに入る。下り坂。ここを抜けたら鎌倉の海だ。



「ほんとにひとりで大丈夫?」

 ヘルメットをシートの背もたれに差したイツローが近寄りながら聞いてきた。ひさかたぶりで少しきつく感じるヘルメットを外しながら、私も応える。崖下の浦賀水道に白い波頭が幾筋も浮かんでいた。

「大丈夫だって。今日だってちゃんと乗れてるでしょ」

「でも現地十一時はじまりってことは、朝早いんだろ。街道を飛ばしてるトラックとか、けっこう怖いよ。それに峠道もあるみたいだし……」

「夜の道も峠も経験済みだって。岩山でずいぶん練習したんだから」

「いつの話だよ」

 イツローが笑った。ディスプレイ越しじゃない、手を伸ばせば触れるところにある3Dの笑顔。


 リアルに会うのは去年の秋以来だから半年ぶりになる。彼の主戦場はシンガポールで私はサンノゼ。地球を半周する超々遠距離交際も、なんだかんだで丸四年。ふたりともに縁もゆかりもなかった東北の地方都市で偶然出会い、オートバイを通じて惹かれあった。蜜月のときもあったけど、私が大学スタンフォードに戻ってからは数えるほどしか会えていない。もちろんビデオ通話はほぼ毎日だから、話題の齟齬なんかはほとんどない。とはいえ極端に身体性スキンシップの乏しい交際は心のどこかを揮発させ、涸れ川ワジのごとく干上がらせる。


「ま、乗れてないわけじゃないってことはわかった。このために早く帰ってきたようなもんだし、思い切り楽しんでくればいいよ」

 さほど執着も無さげな顔で笑いかけてくるイツローに、私の中の誰かが警鐘を鳴らす。ねぇすみれ、そんなに安心してて大丈夫なの、と。

 イツローは今年で二十六、私は……先月三十一になった。私はもちろんだけど、彼だって落ち着いてもいい歳だ。現に彼よりひとつ若い同期は、さらに若い後輩と結婚して来週末には披露宴を挙げる。世間一般のそんな流れを、彼はイツローはどんなふうに考えているのだろう。

「くれぐれも、だけど、怪我なんかしないように。シンスケたちの晴れ舞台に、腕吊ったり松葉杖ついたりで参列したくはないだろ」

 うん、と私も頷く。

 さて、と言ってイツローはヘルメットを取り上げた。

「今夜は実家なんだろ」

 再度頷く私。なんだろう、この自分のぎこちなさ。

「明日は早いんだから、今日はここまでにしとこう。な」

 オートバイサベージに跨るイツローを目で追う。バイザーを上げた彼の表情は、逆光でよくわからなかった。



 開会時間には十分余裕がある午前十時過ぎ、私のバイクは目的地の駐車場に滑り込んだ。道の駅富士川。そう、今日はここで『ふじVストミーティング』が開催されるのだ。

「イン、クレディボゥ!」

 思わずヘルメットの中で声を上げた。

 凄いのだ。広い駐車場の見渡す限りに私の愛馬と同じバイク、Vストロームが並んでいる。その数は……ちょっと想像つかない。

「なにこれ。凄過ぎでしょ」


 

 披露宴の招待状と前後して届いたメーカーからの案内メールに、このイベントのことが記されていた。どちらも四月後半で日付もかぶってない。帰国を一週間ほど前倒しすれば、どちらにも参加できる。

 そうと決まったときの私の動きは速い。その日のうちにイツローと涼子に予定を伝えて逢える段取りを要請し、返す刀で実家に通話、イレギュラーな帰郷と車庫に置きっぱなしのオートバイの整備を頼んだ。そうして成田に降り立ったのが一昨日のこと。



 それにしても、と私はため息をついた。

 Ⅴストローム、さすがに多過ぎだよ。

 昨年秋に浜松のスズキ本社で行われたⅤストロームミーティング2023では千二百台集まったって書いてあったけど、今日のもそれに匹敵するんではなかろうか。黄色、白、黒、私のと同じ赤い車体と色とりどりのⅤストロームたちが、出荷前の港のように整然と並んでいる。気遅れした私は、赤の列の端にスペースを見つけて愛馬バイクを停めた。

 五年前に買ったときのままの赤いヘルメットを黒革ツナギの小脇に抱え、私は道の駅の建物に歩を進める。すれ違うライダーたちがもれなくピースサインを送って来た。この気安さはまるで、私の住んでる西海岸みたい。当然ちゃんと笑顔をつけてお返しする。年配男性が多勢を占める同輩たちの中に、女性ライダーの姿もちらほらと混じっていた。

 記念写真、抽選会、交流会。重たい曇り空の下だったけど、そんな天気は吹き飛ばすくらい賑やかで楽しいライダーミーティング。ぜんぜん接点なんてなかったのに、たったひとつの突出した共通項Ⅴストロームだけでこんなに仲良くなれるなんて。

「ちょ、そこの綺麗な峰不二子さん。うちの女子部に寄ってかない?」

「え。私?」

「黒ツナギきめきめでプロポーション最高の美人なんて、お姉さんしかいないじゃん! ほら、こっちこっち」

 そんなふうに誘われてⅤスト女子部にも加入して、お土産の巾着もいただいちゃった。

「このデザインのシルエット、まんまお姉さんやん」

「いやいやいや。もうおばさんですから」


 彼女たち現役ライダーの面白失敗談を聞いていたら、ポケットのスマートフォンが震えた。輪から一歩下がって確かめる。画面を点けると、そこにはイツローからのLINEが三本並んでいた。


―― 楽しんでる? 天気はまだもってるみたいだね。

―― 終わったら合流しよう。そこから北に五分ほどのところにマックがある。増穂店ってとこだけど、ひとつしかないからたぶんすぐわかる。

―― まあ急がなくていいよ。こっちは本読みながらゆっくりしてるから。


「なになに、お姉さん。彼氏さんから?」

 私を誘ってくれた女子部の世話役が興味津々で乗り出してきた。慌てて仕舞おうとする私に、彼女は言葉を重ねてくる。

「いまそれ見てて、お姉さんの顔が急に変わったから」

 え。どんなふうに?!

「すっごく嬉しそうな貌になった。もうね、見てるこっちまで恥ずかしくなっちゃうくらい」

 ちょっとまって。なにそれ。

 今度のは自分でもわかった。私いま、めちゃくちゃ紅くなってる。

 にやにやしながら覗き込んでくる彼女の前で、私は自分の気持ちを反芻していた。

 そっか。私、嬉しいんだ。こんなに楽しい場所にいるのに、イツローが迎えに来てくれたって知っただけで気持ちが全部もってかれちゃうくらい。

 ああ。涸れ川に水が。すべての風景を緑に変えてしまうほど大量の水が流れこんできてる。

「うん。彼氏。近くまで迎えに来てくれたんだって」

 同じ車種オートバイに乗ってるってだけで繋がった出会ったばかりの女友だちに、胸を張ってそう答えた。それから私は彼女の目の前で、でっかいハートマークのスタンプを送り返す。

「いいなあ。うらやましいなあ。お姉さんも、こんな綺麗な彼女がいる彼氏さんも。うん。あたしも頑張んないと」

 大袈裟にガッツポーズをみせて、彼女はからからと笑った。

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