彼らのそれから

深海くじら

デフォルトは三分

 シンスケには三分以内にやらなければいけないことがあった。 

 真っ先に行った作業で出たゴミの類いを空っぽになっている無地のポリ袋にまとめて押し込むと、背広の内ポケットからスマートフォンと財布、名刺入れを順番に取り出してテーブルの上に置く。軽くなった背広から片腕を抜き、歩きながらもう片方も脱ぐ。隣室に繋がるドアを慎重に開くと、灯りの消えた部屋の隅を足音を忍ばせて進む。奥のラックにぶら下がるハンガーを手探りで外し、背広を掛けてそっと戻す。ハンガーのフックが金属のバーに擦れ、静寂が支配する部屋に高周波の音が響いた。

 背中をこわばらせたシンスケは、おそるおそる背後を返り見た。部屋の半分を埋めているベッドに横たわった布団は微動だにしない。床の軋みに気をつけながら近づいていったシンスケは、息を止めて掛け布団の上端を覗き込んだ。黒髪をはみ出させた黒い影は、規則的な寝息を立てている。迂闊な溜息を吐き出すことも無く、シンスケは後ずさりして部屋を出て行った。

 明るいダイニングに戻りドアを閉めたシンスケは、スマートフォンを触って時間を確かめた。一分経過。

 急がないと。

 無意識の手つきでネクタイを緩め、名刺入れから紙束を取り出す。角を丸く切り落とした五枚の名刺。美内すずえ、成田美名子、青池保子、松苗あけみ、柊あおい。光沢がちりばまれた高そうな紙の真ん中に大きめの書体で書かれた名前の右肩には、五枚とも同じ店名が並んでいた。

 テーブルの上に並べた五枚の名刺を眺めながらひとりひとりを思い出そうとしたが、向かいに座っていた美名子さんと隣でこまめに酒をつくってくれていたあけみさんの顔しか記憶に残っていなかった。



 小一時間の残業を終えた週末の夜、シンスケは同僚の先輩から食事に誘われた。予定外だったのでLINEを送ると、間髪を入れず、湯気を上げたつり目の豚のスタンプと『飲み過ぎないようにね♥』が連続で返ってきた。

「さすが新婚さん。いいねえ。ラブラブだねえ」

 横から画面を覗き込む先輩が、茶々を入れてきた。

「二十年も経っちゃうとさ、うんともすんとも言ってこなくなっちゃうよ」

 そう言って笑う先輩に苦笑を返しつつ、シンスケはスマートフォンを仕舞って腰を上げた。


 一軒目は大通の串焼き居酒屋だった。メニュー選びに迷っていたシンスケの手元からタブレットをさらった先輩は、慣れた手つきで次々と注文を入れていった。ほどなく生ビールが届く。

 ビールを二杯ずつ、串焼き十本にもつ煮とお通し、それらがひと通り片づいたところで、おもむろに先輩が腰を上げた。

「そろそろあったまってきたことだろうし時間もいいから、次、本番行こうか」

 予告無しの言葉にとまどうシンスケをよそに、先輩はさっさと会計に足を向ける。シンスケもあとからついていくしかない。

「ここの払いはいいからさ。それよか次。次のとこは天国だよ。もう、お花畑」


 八時前はサービスタイムと聞かされて、引き摺られるように連れてこられたシンスケの目の前に、重厚そうな茶色の扉があった。スポットライトに照らされた扉の真ん中には金属製のエンブレムが鈍い光を放つ。

『熟女CLUB ふらわあドリーム』

「はあ?」

 思わず声を上げたシンスケを振り返り、先輩はにやりと笑った。

「マジ、天国だから」


 

 回想しているうちに二分が経過していた。あと一分。

 熟女バーはたしかに楽しかった。天国は言い過ぎだが、行楽地くらいの感じはあった、とシンスケも思う。

 そもそも風俗遊びなどしたことのないシンスケにとっては、今回のは初めての夜と言っても過言では無かった。



「こんばんは、あけみです。こちら、初めての方?」

「こいつ俺の後輩。シンスケって呼んでやって。先月結婚したばかりのピカピカの新婚だよん」

「あら、おめでとう! お祝いしたげなくっちゃね。ねえみんな聞いて、うちのシンスケちゃんが先月結婚したのよ!」

「おめでとー!」

「やるじゃんシンスケ」

「あけみママ、おめでとう!」

「シンスケちゃん、早くあけみママに赤ちゃん見せたげて!」

 いきなりのあけみさんの呼び掛けに、フロアのまばらな島々に付き添っている女性たちが間髪入れず応じてきた。彼女らの客たちも同じノリで祝杯をあげている。

 根が陽キャなシンスケもこの展開には面食らった。が、想定外のトップギア発進に釣られ楽しくもなっていた。


 ふらわあドリームでの乱痴気騒ぎに乗せられて、気がついたら二時間半。スマートフォンを見ると、何通かのLINEが届いていた。


―― おそいじゃん

―― クドカンのドラマ、はじまっちゃうよ

―― とりま録画した


「おいおい、まだ十一時前だぞ」

 そう呟きながらもシンスケは、たしかに仕事以外でこんなに遅くなることが全くなかったのを思い出した。とりあえず、録画の礼だけは返しておいた。



 大通のはずれで先輩と別れたシンスケは、千鳥足で自宅へと歩を進めていた。

「シンスケ?」

 背後からの声に振り返ると、ひさしぶりの顔があった。

「鵜沼さん?」

 大学のサークルでの先輩だった。シンスケが会長を引き受ける前にその役についていた元会長。

 そういえばこの人の年はいろいろとあったな、とシンスケは思いだす。コロナが世界を席巻する直前の年。自分たちはまだ二年生だった。新入生だった妻と知り合ったのもその年。

「聞いたぞ。お前ら結婚したんだってな。おめでとう」

「そんなとこまで鵜沼さんとこの跡を継いじゃいましたよ」

 この鵜沼も、学生時代から同棲していた同窓女子と一昨年結婚している。

「ここであったがなんとか、ってやつだ。ちょっと一杯やってこうぜ」


―― ちょ、おそすぎじゃね?

―― 日付変わったよ

―― 明日の打ち合わせがあるから、あたしもう寝る

―― 十時には式場だから、ちゃんと覚えといてよね!(`Д´)


 シンスケが町外れの自宅に辿りついたのは午前二時を回っていた。

 帰り道で小腹の空いたシンスケは、途中のコンビニで夜食を物色する。本当は妻から夜食を禁止されているのだ。いや正確には、自分から言い出したつきあいである。

 入籍は済ませたものの披露宴を後回しにしたふたりは、今はその準備に追われている。その最大の課題が、妻のダイエットなのだ。

 学生時代に比べ、一割以上立派になった妻の体格では、一番好みのドレスを着こなすことができない。それをクリアするには大減量作戦の断行が必要だった。意志の強さも行動力も持ち合わせる妻だったが、こと食に関してはかんぬきが甘い。ついついたくさん食べてしまうというのだ。ダイエットという名の苦行を完遂させるためには、シンスケも協力して付き合うと宣言せざるを得なかった。



 気がつくと、三分を少し過ぎている。

「ちょっと伸びちゃったかな」

 名刺をまとめてゴミ箱に捨てたシンスケは、ダイニングの席に座って湯気の漏れるカップラーメンのふたに手を伸ばした。が、そこで瞳孔がすぼまった。

「これは! 『熱湯一分』のやつだった!!」

 コンビニで買ったのはとんこつ博多ラーメン名店の味。締めのラーメンは固め細麺にしようと思っていたのだ。

 思わず声を上げたシンスケだったが、もう遅い。

 箸を差し込むと、ふにゃふにゃに伸びた細麺がずるずると引き上がってきた。うなだれつつ麺を口に運ぶシンスケの背後でドアが開く。


「こんな時間にひとりでなに食べてんの?」


 振り向くと、ぐっすり睡っていたはずの由香里が仁王立ちで睨んでいた。

「ダイエットにつきあってくれるんじゃなかったの?」

 由香里は回りこんで向かいの席に腰を下ろす。

「ずるいじゃん、シンスケ。食べるの好きなあたしにドレスのために痩せろって言っといてそーゆーことするとか。自分も協力するって言ってた口で」

 固まったシンスケは、まだひとくちも食べてない。熱湯注入からすでに五分は経過している。お奨め時間の四分超過。

「もう、知らないからね、あたし」

 言い放ってシンスケの手から箸とカップ麺を奪った由香里は、はふはふとラーメンを食べ始めた。箸を持つ手の形で固まったままのシンスケは、披露宴を来月に控えた妻の禁断の夜食風景を見つめることしかできなかった。

 だが、幸せそうに麺をすする妻を見ていると、シンスケもなんとなく良い気分になってきた。

 あけみママに見せるためでは無いけれど、早く赤ちゃんつくろうかな。


 翌日のゴミ出しで五枚の名刺が発掘されるのは、また別の話。

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