第1話

私には三分以内にやらなければならないことがあった


何故かそのことだけは覚えている。

けれど、それが何であったのか、どうあっても思い出せないでいる。

とても大事なことであったように思うのに、なぜか頭の中は真っ白だ。

それどころか、自分の名前も思い出せない。

心臓だけがただばくばくと音を立てて鳴り響いている。

三分なんて、あっという間に過ぎるのに。


せめて時が止まればいいのにと思う。

これが何かの勝負であるなら、あまりにも不利だ。

仕切り直しを願いたい。


「いいよん」


余りにも間の抜けた声がして、空間が凍り付いたような感覚があった。

「はい。仕切り直すわけにはいかないけれど、時は止めてあげたよん」

さっきと同じ声がして、私の目の前に男の子の顔が逆さまで現れた。

彼はにっこりと笑って一度視界から消えると、体勢を立て直して再び私の目の前に現れた。

腕を組んで、ロッキングチェアーにでも座っているような優雅な姿で。

けれどどこにも座ってはいない。

要はふわふわとその体勢で空間を漂っている。

彼は、否、そもそも彼と表現していいのかどうかも分からない。

最初に見たときは少年と思ったけれど、よく見ると少女のようでもある。

「しなくていいよ。ないものは特定のしようもないでしょ」

私の心を見透かしてか、そう言ってくすくすと笑う。

もう何が起きても驚かない自信はあった。

と、いうよりも、目の前で起きるどんな不可思議なことよりも、私が何をしなければならなかったのかを思い出すことの方が先決に思えた。

「とりあえず、不便だから名前だけでも聞いていいか?」

敢えて言葉に出してそう言うと、目の前の得体のしれないものは、んー、と少し考えて

「とりあえず、パックとでも呼んでもらおうかな」

と、言って、シシシと笑った。

真夏の夜の夢。

確かにこれは、夢なのかもしれない。

「さあ、どうだろうね」

余りにも人をからかうような態度に内心ムッとする。

「じゃあ、パックはどうして時を止めてくれたんだ?」

「君がどうするか興味があったからさ」

「興味、ね」

フン、と、鼻から笑いが出た。

自分でも嫌な笑い方だと思う。

私はいつの間に、こんな笑い方をするようになったのだろう。

「とは言っても、ここがどこで私が誰なのかもわからないんだが?」

「それを教えるのはルール違反のような気がするなぁ」

誰がどこで作ったルールなのか。

パックはにやついて私を見ている。

何もヒントになりそうなものはない。

パック自身もどうやら味方ではないようだ。

それなら、

「どうする?」

パックが興味があるのはそこかと思う。

真っ暗な空間で、真っ白な頭で、私が「何」をするのか。

思い出せれば一番いい。

私は自分の体を確認してみた。

今この空間で、何かを探せるとしたら自分しかない。

かといって、特段自分が何かを持っているわけでも、身に着けているわけでもなさそうだ。

変わったことといえば、右手に握りしめている古びた鍵。

「これ、」

私はそれを持ち上げてまじまじと見つめた。

覚えていない。

覚えていないが、心臓が反応している。

これが、まさに鍵。

「そう、だ、」

場所は古い洋館。

高い高い塔の上の小部屋。

そこに閉じ込められていた。

塔は古くて、今にも壊れそうだった。

否、それを望んでいたのかもしれない。

塔が崩れて、私が死ぬことを。

けれど、ある日この鍵が届けられた。

どこの誰かは知らない。

けれど、味方が一人でもいると思うと勇気が湧いた。

鍵は小部屋のドアのカギ穴にかちりと合った。

走って逃げる。

見張りがいない、三分間が勝負だった。

思い出した瞬間、霧が晴れるように周りが見えた。

私は小部屋の中にいる。

ドアは開いている。

私は駆け出した。

つもりだった。

塔の幻影は一瞬にして掻き消え、私の体には鋭い痛みが走った。

見張りがいる。

その剣が、私の血で染まっていた。

逃げ出すようなら殺せ。

そう言われていたのは想像するに難くない。

でも。


何故だ、時は止まったていたんじゃないのか。


「だって、三分以内にやらなければならないことは、『あった』のでしょう?」


どこかで、例のくすくす笑いが聞こえる。

今となっては分からないけれど、もしかして。

もしかすると。


私の思考はそこで終わった。

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