天象儀
野村絽麻子
ボクと黒猫と叔父さん
うしかい座のα星アークトゥルスがチカチカと瞬いて37光年の距離からこちらを見下ろす静かな晩、ボクには三分以内にやらなければならないことがあった。
うーんと背伸びしながら
「大丈夫だって、星は逃げたりしないんだから」
*
今朝届いたばかりの宇宙郵便は、長いこと
“チョウネクタイ ショク アサッテ”
つまり。意味的には、こう。
“蝶ネクタイ 食 明後日”
夜空で蝶ネクタイと言ったらこの季節ならもちろん「うしかい座」のことで、食は星食、郵便の消印から数えて明後日ってことは。指折り数えてみたボクの手がピタリと動きを止める。これって、今夜って意味になる。
情報誌「アストロノォト」を捲ってみたけれど、それらしき情報は何処にも掲載がない。
「うーん……叔父さんが星食の日付を間違えるはずないし」
黒猫が柔らかな体躯を折り曲げて後ろ脚で耳を掻く。気持ち良さそうに目を細めると、
「あ!」
思わず声に出して叫んでしまった。だって分かったんだ。
「叔父さんの連絡汽船!」
非難がましくこちらを舐めつけていた黒猫も、ふと、動きを止めた。どうやらボクらの想像はまるでちょうちょ結びのリボンのように纏まったのらしい。と言うことは。
本棚から
「あった。星間連絡汽船の運行時刻表。と、航路図!」
「ボクやキミなんかのマニアしか、観ないものだよねぇ」
不思議。あんなにもロマンチックで素晴らしいものなのに。
去年の夏に連絡汽船が金星の前を通過する時、ボクらは揃って窓辺からチ・カ、チ・カと瞬く光を眺めたのだった。
ついついうっとり思い出していたら、黒猫がしなやかな尾っぽで僕の頬をやわらかく撫でた。そうそう、謎が解けたら次は準備といかなければ。何しろ汽船がアークトゥルスの前を通るのはほんの数秒。そして航行時間は迫っている。見逃すわけにはいかない。
*
クローゼットの扉を開いて引き出しを漁る。確か、金星の時は夏にしては肌寒い夜で、ブランケットに包まって観測していたから。この辺りにあるはずなんだ。
「ねぇオペラ、叔父さんは本当に
ウゥン、と背後で唸り声を出した黒猫も、いまひとつ解っていない顔をする。ボクにはどうにもピンと来ていないんだ。
「そりゃあ、連絡汽船に合図を貰うのは嬉しいよ? 嬉しいけど……」
なんだか訳もわからずしゅんとしてしまう。こんなこと考えたくはないけれど、ひょっとして叔父さん、どこかお加減でも悪いのかしら。
ニャア! いつの間にかすぐ隣に来ていた黒猫が鋭く鳴いて、ボクはまたしても我に返る。いけない。もう、時間がないじゃないか。
引き出しのいちばん奥、タータンチェックのブランケットと一緒に、探していた誘導灯が転がり出てくる。
「あった!」
慌てて掴んで窓辺に駆け寄ると、
「さすがにカノープスには敵わないけれど、α星は明るいね」
レンズの中央に上等な
「これで安心!」
ボクと黒猫はそろって夜空を見上げてみる。
「……叔父さん、まだかしら」
「……ニャァア」
壁にかかった
「来た! 叔父さんの
空飛ぶ夜汽車の別名を持つ
汽船がアークトゥルスの前をすっかり通り過ぎてから、手元の誘導灯を何度か灯して短い
オ・ジ・サ・ン・ゲ・ン・キ・?
もちろん、返事が来るんだけれど、それはボクたちの想像とは少し違う、僕らよりもうんと短い風変わりなものだった。
ウ・イ・ン・ネ・ツ・ケ
……ウインネツケ? うーん、と首を傾げる。ウインネッケ? うしかい座の星には聞かない名前だし。となると……
「あ、わかった! ポン・ウィンネッケ彗星!」
ヒラリ、ヒラリとパラボラアンテナのように耳を動かしていた黒猫の、尻尾がピンと立てられて。それから僕たちは同時に黙ったまま立ち上がってしまう。だってそこには、夜空を走る幾筋もの銀色の光の筋があったのだから。
「全て
これほどの規模の流星群は、そう何度もお目にかかれるものじゃない。
「ねぇオペラ、……とってもきれいだねぇ……」
ニャ。短い返事をした黒猫も、呆然と夜空を見上げている。
光のシャワーのように降り注ぐ美しい天体からの贈り物を、ボクと黒猫はブランケットに包まったままで、ずっとずっと眺め続けた。
天象儀 野村絽麻子 @an_and_coffee
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