4.2.4 ケモノ憑き

「ケモノ憑き? 僕が?」


 僕の視界の中で、グロリアが茶色の髪を揺らして静かに頷く。何を考えているのかは分からないが、その表情は普段より幾分か硬い。

 施療所のベッドで目を覚ますと、ベーテル先生も支部長も、そしてエリーヌさんもおらず、彼女一人だけが傍らの椅子に腰をかけていた。

 その彼女が目を覚ましたばかりの僕に向かって言ったのだ。「ヴェヒターでありながらケモノ憑きになるなど、大失態ですね、と六柱の神々は仰っています」と。

 それに対しての僕の反応が先ほどのものであり、残念ながら「神々ではなく君が言っているんだよね?」という言葉を最後まで発することもないうちに、「支部長を呼んできます」と言い残して去っていってしまった。僕の瞳に映る彼女の白炎は、今にも燃え尽きそうにか弱い。果たして前からこんなにも弱々しい炎だったろうか。スヴァンテの記憶を探しても、それは見つからなかった。


「おう、起きたか起きたか」

「あ、すみません。こちらから出向かなければならないものを」


 グロリアが立ち去り、時計の秒針が九百回動いた頃、ドタドタと音がして、上体を起こした直後にクライトン支部長が現れた。そう言えば、支部長もヴェヒターとして活動することが多いというのに、その顔は実に表情が豊かで、このときも満面の笑顔だった。


「まあ、寝てろ寝てろ。気絶したんだから大人しくしておけ」

「ありがとうございます」

「それで、お前、気絶する前に何か変わったことはなかったか?」

「あの、ケモノ憑きになったとグロリアから聞いているんですが」

「おう、その通りだ。お前はケモノ憑きになった。魔石がスパッと割れたら、中から黒靄が出てきてよ、それがするりとお前と同化しちまったみたいだな」

「ははあ、それで」


 ケモノ憑きというのは訓練されていない浄眼か、あるいは全く視えない者に発生する錯乱状態を指した名称である。原因は簡単なもので、ヒトがケモノと目を合わせるだけだ。視えない者がケモノと目が合うというのはおかしな話なのだが、イビガ・フリーデの長い歴史の中で、記録がいくつもあるので真実なのである。

 そうして目を合わせると、ケモノに侵食されて心を破壊され、最悪、死に至る。しかし、心が破壊されず、ただ錯乱し、破壊衝動のままに暴れ尽くすこともあった。これがケモノ憑きであり、この場合、黒靄は当人の中に在ってすでに黒靄ではなく、ヒトの形を成すケモノとなっているのである。

 そしてこれも、放置しておけば、暴れ続けることによる肉体的ダメージや疲労で、いずれ死に至るものだった。

 そのケモノ憑きを治す方法はただ一つ。

 内なるヒト型のケモノを、ナハト・ルーエなどの、ヒトに影響がないプライモーディアル・ブレッシングで滅することのみ。


 そういう意味では、すぐそばに支部長とエリーヌさんがいたことは幸運だったと言えるかもしれない。あくまでも、〝そういう意味では〟であって、やはりケモノ憑きになってしまったのは不幸な出来事ではある。


「それで、どうなった?」

「ああ、その話でしたね」

「何せヴェヒターの癖にケモノ憑きになった奴なんて、今までほとんど記録に残っていないからな。早く教えてくれ。な、頼むよ。あ、グロリア。こっちきて書きとってくれ」


 支部長が少し声を大きくしてグロリアを呼ぶと、彼女は静かに引き戸を開け、ベッドの横の小机にペン、インク、最後に紙を置き、また音も立てずに空いている椅子をそこまで運んでいた。

 見える限りはその顔は事務的で、白い炎も弱々しい。


「えーっと、何から話したものでしょうね。気が付いたら僕は真っ暗な空間にいて、それが多分、黒靄に入り込まれた直後だと思います。それから――」


 それから僕は、二人を交互に見ながら、あの真っ暗な空間で体験した全てを話した。自分でも不思議なほどよく覚えていて、あれはもしかしたら夢ではなく、現実だったのかも知れないとも思う。


「ふむ……」


 聞き終えた支部長が、腕組みをしながら右手で顎を触る。

 グロリアは無言で紙に向かい、すっすっとペンを走らせていたが、それも話しが終わるとじきに終わった。

 暫しの静寂の後、支部長が両手で自身の太股を軽くパンと叩いた。


「うーん、ま、あれだな。リヒト教ってかヴィエチニィ・クリッドの連中が、ケモノを捕獲している理由がそれだろうってことは分かるんだが、そうなると俺がここで考えて、結論なんか出していいものじゃない。ケスティルメにお伺いを立てるから、それまでは魔石を使うの禁止な」

「あ、はい」

「でも、魔石を集めに行くのはいいぞ。いざってときには燃料供給公社に売りつけて、活動資金にできるからな」

「なるほど。さすが支部長ですね」

「俺が支部長で良かっただろ? よし! そうと決まったら本部に送る書類を作らなきゃならねえな。グロリア、手伝ってくれ」

「承知しました」

「僕も手伝います」

「いや、お前は今日は寝てろ。そんで、明日以降は普通に働け。任務の無い日は、魔石を集めに行ってもいいぞ。というよりか、ヴェヒター全員司祭待遇で給料高いから、むしろ積極的に魔石で稼いで教会に入れろ」

「さ、さすが支部長ですね」

「だろ? 俺に惚れるなよ」


 グロリアが支部長を冷たい目で見たことを合図に聞き取りは終わり、翌日から日常が戻ってきた。

 それからしばらくは、ケモノ絡みの案件も少なく、ヴェヒターとしては平穏な日々が続いていたが、その間、インペリアルプレスを始めとした帝都の新聞では、いくつかの属国で内乱が起きていることが報じられ始めたのだった。

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