4.1.10 ヴィエゼニ
掃除が行き届いていない繁華街の表通りを、あちこち眺めながら散策する。ボロボロになった酒場も、歯車で看板が動く新しいキャバレーも、どこかばらばらなように見えて、だけどこの町に馴染んでいて、これはこれで趣きがあって良いものだと思う。
薄暗いところから、こちらを値踏みするように見る強面の男たちがいなければだが。
そんな中で、僕は一本の細い道を見つけた。路地というには広く、だからと言って地元の人間だけが知っている抜け道のような、雰囲気の良い道である。そして僕の勘が正しければ、この道は一本隣の通りに繋がっているはずなのだ。
ところがこの狭い道に入った僕が、反対側まで抜けることは適わなかった。
行き止まりだったというわけではない。通行止めになっていたわけでもない。
いたのだ。オフチャクが二人と、大きなイヌ型のケモノが一体。
すぐにその場から逃げれば良かったものを、散策中の好奇心のままに、聞こえてきた詠唱に耳を傾けてしまった。
「囲め、ヴィエゼニ」
それはやはり二重に聞こえ、すぐに仄かに白く輝く檻がケモノを閉じ込めた。ナハト・ルーエと同様に、収縮してケモノを滅するものかと思ったが、そういうこともなく、その大きさのまま、脱出しようともがくケモノを閉じ込め続けていた。
自分の立場も忘れて見入った僕に、やがて一人が何かに気付いたように僕を睨む。右手に持っているのは、シクロの短剣だろうか。
そのときになって、僕はようやく自分の間抜けさに気付いたのだ。
オフチャクも浄眼で構成されているのだから、僕が近寄ってそれを呆けてみていれば、正体に気付かないはずがないと。
だから、僕は踵を返して走った。
狭い道を全力で駆けた。
オイレン・アウゲンに映る追手は一人。僕よりも速い。
表通りを斜めに横切り、後先考えず薄暗い路地を選択する。追手もそのまま路地に入ってきた。
どうする? どうすれば逃げられる?
走る走る走る。どんどん壁が通り過ぎ、どんどん追手が迫る。
大きな木樽が道を塞いでいる。僕は手を使ってそれを乗り越え、そして後ろに蹴り飛ばす。結果など見ない。見る必要はない。見れば追いつかれる。
僕にはオイレン・アウゲンがある。オイレン・アウゲンに追いかけてくる黒靄が映るならば、追手は健在ということだ。
逃げる、逃げる、逃げろ、逃げろ。
僕は二つ目の表通りに出た途端、何かに躓いてそのままゴロゴロと前に転がった。
黒靄はやはり動いている。少し距離は開いていたが、だが、それも終わりだ。
追手のオフチャクは男だった。グレアムではない。丸坊主の男でもない。
男は右手の短剣で、いや、短いのではなく細かったのだ。
男のシクロはレイピアだった。リィンカーネイションのスモールソードよりも更に時代が遡る細剣である。今どきこれが死のイメージとは、この男はいったいどのような人生を歩んできたのであろうかと、思いたいところではあるが――
即座に立ち上がり、無言でリィンカーネイションを具現化した。
目には目を、細剣には細剣である。
男は目を細め、直後、大きく踏み出し突きを一閃。
僕はそれを事もなげに弾く。
周囲からどよめきが起きる。
昼日中の繁華街である。昼間から酒をあおる者、出勤前に食事をとる者、夜勤明けの寝る前に食事をとる者、料理の仕込みをしている者。そういった者たちが、すわ喧嘩が始まったぞと、こいつは見ものだと色めき立つのだ。騒ぎになるのだ。人だかりができるのだ。僕がリボルバーを握り締めているのも意に介さずに、少し距離を置いて取り囲むのだ。
さて、この場をどうしのぐか。
勇士セルハンなら容赦なく相手の首を刎ね、または拳銃で頭を撃ち抜くことを即断するだろう。
けれど、今はそんな時代ではない。衆人環視のもとにそれを行なえば、僕は間違いなく殺人の罪に問われる。
まずは、揺らす。
「おい! こんなに目立つような真似をして大丈夫なのか?」
じっくりと相手を見てみれば、存外に端正な顔つきで、ブロンドの髪は神経質そうに横分けにされている。その男が、あからさまに顔を歪めているのだ。
その皺の寄った眉間を目掛けて、スモールソードを突き出す。
相手は横に躱す。
そこ目掛けて今度は薙ぐ。
男は手首を返し、レイピアの、その針のような剣身でスモールソードを受け流す。
予定通りの反応に僕はほくそ笑み、リボルバーを握りしめたままの左拳を、相手の腹に喰らわせて間合いを取った。
男は上体を曲げて腹を押さえ、苦しそうに悶える。
そこで、僕は油断した。きっとこれで諦めてくれるに違いないと、安心して視線を外してしまった。
次の瞬間、男の鋭い突きが僕の脇腹をかすめ、シャツを切り裂き、ジャケットを貫く。
僕は右足の裏で押しのけるようにして、相手を蹴った。
男はシクロを消しながら地面に伏したが、やがてよろめきながら立ち上がり、両手の拳を構えた。
何も知らぬ観衆たちからは、大きなどよめきと喝采が男に送られる。
だが、僕の心情は到底そんなものではなく、しつこい、とただそれだけである。
「道を開けろ」
構えているのがやっとで、殴りかかってこない男を背に、僕は観衆の一角を武器で脅し、道を開けさせようと試みるも、しかし、動いたのはほんの数人だけで外側までは至らず、寧ろ無言の圧力さえ感じられる。
已む無く振り返ろうとしたところで、僕は倒れた。
男が両足を掴むタックルを仕掛けてきたのだ。
慌ててシクロを消した僕に、男は馬乗りになって拳を振り上げるも、やはりフラフラしていて今にも気を失いそうだった。それだというのに歯を食いしばって耐えている。
この執念はいったいどこからくるのか。
顔を守る両腕の隙間から、殴る男の様子を窺いながら思う。
そうして僕の顔や腕が殴られるたび、周囲の歓声はより大きくなっていた。そのはずなのに、どこか遠くもある。
「お前ら、そこで何をしている! 散れ! 解散だ! 解散しろ!」
ああ、良かった。
目論見通りとはいかなかったが、帝都公安警察が嗅ぎつけてくれたのだ。
僕はお腹に力を入れて足を出し、すでに視線も怪しくなっていた男を払い除けた。
どこからか銃声が聞こえた。
混乱の最中にあった野次馬たちはいっそう混乱する。
これ幸いと僕は野次馬に紛れ込み、素知らぬ顔で、しかしあちこちに青痣のある顔と腕で第三区画を後にした。
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