4.1.7 オフチャク

 全力で狭い路地を走り抜けるエリーヌさんを、僕は必死に追いかけた。

 フェドラハットはすでに握りしめられ、彼女の柔らかなブロンドのセミロングが僕の視界で揺れる。

 ところで、僕はいったい何から逃げているのだろう。「走ってついてこい」と彼女は言っていた。僕はその通りに、倉庫街の薄暗く狭く、そして長い道を駆けている。そしてオイレン・アウゲンには、僕たちの後ろから付いてくる二つの黒靄こくあい

 ただ走っているのではなく、この二つの黒靄から逃げていることは疑いようがない。

 なぜ?

 なぜ追われるのか。

 なぜあれほどケモノに強いエリーヌさんが逃げるのか。

 この黒靄はなんであるのか。


「穿て、ペアシン」


 前を行く彼女は突如立ち止まって振り返り、僕が追い抜くと同時に二重の声がした。無言でも顕現させられるものを、わざわざ僕に聞こえるように詠唱したのだから、それはつまり、シクロが必要な事態だということである。


「滅せよ、リィンカーネイション」


 振り返り、シクロを顕現させる。

 すると同時、ペアシンから静かに弾丸が放たれた。すぐにもう一発。

 それは地面に小さな穴を二つ空けただけだったが、追跡者を足止めするには充分である。

 立ち止まったそれをよく見れば、僕たちを追跡していた黒靄の持ち主は、白いスーツを纏った二人組だった。お揃いではない。デザインも色合いも微妙に異なる。しかし、スヴァンテの記憶は二人を同じ組織の構成員だと即座に断じた。


 ヴィエチニィ・クリッド。

 それが組織の名前であり、そして彼らは実働部隊であるオフチャクという名のメンバーに違いないと、スヴァンテの記憶が告げている。

 エリーヌさんは彼らのすぐ手前の地面を穿った後、左手の手のひらで空気を抑えるように僕に待機を指示した。ペアシンの銃口は彼らの方を向いたままだ。それに対して向こうはというと、目で見える限りはシクロを顕現させておらず、争う構えはないようにも思える。


「オフチャクが何用だ」


 そのように言い放つと、今度はついてこいと片手で僕に伝え、自身は銃口を降ろさずにじりじりと向こうに近づいていく。


「あー、その、なんと言いますかね。エリーヌ・ルブランさん。誤解を招いてしまったことは謝りますが、私たちはイビガ・フリーデと争うつもりはありませんよ」

「ほう? だというのに我らを追いかけるとは、大したパシフィスト平和主義者だな」

「それはただの誤解です。ああ、なんと不幸なすれ違いでしょうか」

「ふん。……それで、その自称パシフィストがこんなところまで追いかけてきて、いったい何の用なんだ?」


 エリーヌさんは十五メートルほどの距離で近づくのをやめたが、相変わらずバットプレート床尾板を肩に当て、相手にしっかりと照準を合わせていた。その銃口の先にいるのが、先程から喋っている丸坊主の男である。はっきりとは見えないが、背丈も体格も標準的で、どこか見覚えがあるような、そんな掴みどころのない容貌であり、特徴と言えば坊主頭くらいなものだろうか。その後ろにもう一人いるが、こちらは帽子を目深に被っていて、よく分からない。

 なんにしても、向こうはエリーヌさんを知っているみたいだが、丸坊主で変に丁寧な喋り方をする男は、スヴァンテの記憶にはいなかった。


「なに、大した用事ではありませんよ。あなた方が調べているクラース・エーケバリさんの事件の事なんですけどね、手を引いてくれませんか、というお願いをしにきたわけです」

「それは、脅しか?」

「まさかまさか。……ですけど、まあ、どのように受け取ってもらっても、私どもとしては一向に構いませんけどね」

「……少し時間を貰おうか」

「どうぞ。我らが唯一神は時間に寛大であらせられますゆえ」


 エリーヌさんは、何を思って時間を稼いだのだろうか。こちらが調査していた事件なのだ。いかに同業とはいえ、はい、そうですかと、簡単に止めてたまるものか。

 エリーヌさんもきっとそう思っているはずだ、と僕は思い込んでいた。


「スヴァン、引き上げるぞ」


 彼女はペアシンを構えたまま僕のところまで下がり、丸坊主の男に聞こえないよう、小声で撤退の二文字を口に出す。


「どうしてですか」


 当然、僕も小声で返した。横目で見た丸坊主の男の笑顔が鼻につく。


「これ以上の調査は無駄だと判断した。理由は戻ったら話す。あいつらの言いなりになることに納得がいかないなら……そうだな、奴らの足元に弾丸でもお見舞いしてやれ」


 そうだ。確かに納得していない。

 だから僕は静かに頷いた。


「ヴィエチニィ・クリッドのオフチャクよ。こちらはこれ以上、調査を行なわないと、このエリーヌ・ルブランの名にかけて約束しよう」


 エリーヌさんが銃を構えたままそう告げると、丸坊主の男は作ったような笑顔に一層磨きがかかり、けれど彼女はその足元に一発の銃弾を放った。僕も追いかけるように即座に地面を穿つと、シクロをすぐ消し、二人そろって、大袈裟に肩を竦めて見せた。


「すまない。手が滑ったようだ」

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