4.1.6 エリーヌ・ルブラン
「ゆっくり休めたか?」
僕が西に向かってやや早足で歩き、色褪せたレンガが目立つ薄暗い通りに着いたのは、懐中時計が午後一時過ぎを指している頃だった。
男装の麗人といった服装で壁に寄りかかっているエリーヌさんは、相変わらず感情の読めない顔で僕に構う。
「遅れて申し訳ありませんでした」
一見して日常の風景であり、行き交う人々も気にしないところではあるが、ここは港と繁華街の第三区画である。只者ではない雰囲気を漂わせているエリーヌさんを、ガラの悪い男たちが監視するように遠巻きに見ているのが分かる。
もっとも、ヴェヒターが得体の知れない武器を振り回し、常人には見えないケモノを狩っているところを、夜に活動が活発になる彼らがこれまでに何度も目撃している、という理由もあるのだろうが。
さて、そんな人相の悪い下っ端たちのことは一先ず無視して、遅ればせながら調査を行なわなければならない。聞けば、エリーヌさんは僕が来る前に現場の下見をしていたそうで、気になった点を、案内するように示してくれた。スヴァンテとの同行任務の際にこのような対応をされた記憶はなく、疑問に思うところではあるが、今は厚意に甘えることにしよう。
「こことここの弾痕がつい最近できたものだな。私が見つけたのはこれだけだが、他に何か気付いたか?」
「すぐ確認します」
エリーヌさんが指し示したレンガの壁には、確かに弾痕と思われる小さな穴がある。それは薄汚れた周囲の壁と異なり、新品のように濃い色を覗かせていた。
他に何か気付いたか。
来たばかりではあるが、それでも現場にそれ以外の事件の跡は見当たらない。足跡なども残っているようには見えず、オイレン・アウゲンにケモノの気配もない。
そもそも、銃によるものと思われる事件を、イビガ・フリーデが調査する意味などあるのだろうかと思っているから、余計に何も感じ取れないのかも知れない。
「何もなさそうですね。帝都公安警察の現場検証は終わっているのでしょうか?」
「そうだろうな」
「そうであれば、やはりマフィア絡みの犯罪ではないでしょうか。弾丸を射出するケモノなど聞いたことがありませんし」
「そうか」
「被害者や周辺住民からの聞き取りは?」
「これからだ。その辺にいる奴らから、話を聞いてみるか」
被害者の名前は、クラース・エーケバリ。
ブリーフィングで示された資料によれば、飲食店で給仕をしている三十代の男性である。余程運が良かったのか、すでに治療も終わって、今は自宅で大人しくしているとのことだったが、こちらを遠巻きに見ている観衆から、彼のことを聞き出すことなどできるのだろうか。スヴァンテの経験上、何かあればすぐに排除してやるぞ、というような気配を漂わせる者達は、やはり異物に対して閉鎖的で攻撃的なのである。
この場合の、そして今回の異物は間違いなく僕とエリーヌさんなのだが、その彼女は場慣れしているのか、緊張する様子も見せない。寧ろ相手を睨むような目つきで、派手な色のピンストライプのスーツの男たちに近づいていき、眼にもとまらぬ速さでその内の一人を組み敷いた。
文字通り、一瞬である。
悠然と歩いていたかと思えば一瞬で組み敷き、そして一瞬で相手の顔を殴って硬い地面に叩きつけ、襟首を掴んで上半身を引き寄せ、そしてスーツの内ポケットから手のひら大の手帳を取り出しては、強引に相手の視界にそれを入れて言うのだ。
「シェスト教の怪奇現象調査室だ。一週間前のクラース・エーケバリ傷害事件について聞きたい。もちろん……協力してくれるよな?」
余りにも躊躇なく、洗練され、美しいとすらいえる一連の動作に皆が見惚れ、呆気にとられた。もちろん、今もって組み敷かれている男と、その仲間も含めてだ。
この場の支配者は、僅か数瞬で彼女になっていた。
僕は早足で近寄り、けれど、それ以外の男たちを視線で牽制する。オイレン・アウゲンで大体の位置は把握できるが、それだとて動作までをも把握できるわけではないのだ。
そういうこともあって、任務は二人一組が基本になっているのだと、これも、過去にスヴァンテがエリーヌさんから教えられた記憶なのだが、周囲のガラの悪い男たちはすでに背中を向けている者もおり、エリーヌさん一人でも、問題はなかったように思えた。
「――本当に銃声は聞こえなかったんだな?」
「ほ、本当ですって」
生け贄にされた可哀想な男たちは、逃げれば殺されるとでも思っているのか、エリーヌさんの質問に素直に答えている。
それにしても、銃声が聞こえなかったとはどういうことなのだろうか。銃による事件なのに。
サイレンサーでも装着していたのではないかと僕は思うのだが、やはりスヴァンテの記憶にはそのような物は存在しない。だけど、何かが引っかかる。
「分かった。行け」
尋問からようやく解放された男たちが逃げる様に立ち去れば、エリーヌさんが僕に近づき、小さな声で話しかけてきた。
「オフチャクを見たか?」
はて、オフチャクとはなんのことか。当然、スヴァンテの記憶を探ることになるのだが、名前は知っていても、それが具体的に何であったのかが思い出せない。何であったのかが思い出せないから、答えられず、顔をしかめることになる。
「スヴァン。平静を保て」
確かにスヴァンテの記憶に残っているその言葉は、僕が言うのもおかしなことだが、はっきりと思い出せる。だが、正しくは、『ヴェヒターたる者、いかなるときでも平静を保て』だった。昔はもう少し言葉数が多かったようだが、いつの間にか減ってしまった。これも理由があったはずなのだが、残念ながら僕ではその記憶をうまく引き出せない。
「ヴィエチニィ・クリッドのオフチャクだ」
エリーヌさんが、先程と同じ調子でぼそりと言う。
そうだ。ヴィエチニィ・クリッドのオフチャク。
世界最大のシェスト教にイビガ・フリーデがあるのなら、世界二番目のリヒト教にはヴィエチニィ・クリッドが存在する。浄眼の者で構成されたその秘密組織の活動内容は、イビガ・フリーデのそれとほぼ同じである。
そしてほぼ同じということは、違う点もあるということだ。
「教団の敵の排除……」
「走ってついてこい」
僕が思わず零したのと同時、エリーヌさんは緊張を残して駆け出した。
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