4.1.2 新街区調査
イビガ・フリーデは世界最大の宗教組織であるシェスト教の秘匿機関であり、その構成員であるヴェヒターは、特異な才能をもってして、ヒトの世の敵であるケモノを駆逐することを使命としていた。
その存在は、ケモノが不可視であるがために隠されているのだが、しかし、ヴェヒターを含めた構成員がケモノ狩りだけに専念していれば良いかというと、決してそんなことはない。
「スヴァンさん、体の調子はいかがですか?」
「問題ない」
「それでは、昨日の任務報告書の提出を速やかにお願いします」
「あの、今日中に提出するので、待って……下さい」
ブラウンの長い髪を束ねたグロリア・ホルストが、僕に優しい声で報告書の提出を催促してきた。イビガ・フリーデが組織である以上、成否に関わらず任務報告書の提出を求められるのである。
少し待って下さいという僕のお願いに、彼女はそのヘーゼルカラーの瞳を寸分も動かさずに答えるのだ。
「六柱の神々はこのように言っています。〝すぐ成せることを先延ばしにするのは、怠惰である〟と」
「……はい、すぐやります」
グロリアには大聖堂まで運び込んでもらった恩がある。いくら報告書の作成などという地味な仕事が苦手で先延ばししたいと思っても、恩人からの催促であれば、すぐに片を付けなければならない。恐らく支部長が裏で糸を引いているのだろう。
それはさておき、グロリア・ホルストはスヴァンテが襲撃されてより後、突然、オペレーターになった。家庭の事情とのことだが、或いはその事件のことで自責の念に駆られているのではないかと、気になるところではある。気になるところではあるのだが、しかし、既婚者の彼女が言う家庭の事情というものに軽々しく踏み込んではいけない気がして、そして何よりも、当事者である僕が聞くのはどうにも憚られるので、気にはなるけれど、かと言って聞くことも出来ていない。
「あの、スヴァンさん」
グロリアが再び僕をじっと見る。これは話をしてくれるに違いないと期待をしたのだが――
「次の指令が発出されています。アルデンホフさんと一緒にブリーフィングルームまで来てください」
* * *
「――つまり調査から、ということですね」
「はい、アルデンホフさんの言う通りです」
今度の現場は帝都第五区画、通称〝新街区〟と呼ばれている実に雑多なエリアだ。
グロリアによれば、第五区画で今朝発見された遺体がどうも臭うと、協力者から連絡があったとのことだ。臭う、というのは当然のことながら
だから、調査なのだ。
イビガ・フリーデはケモノを狩るために存在する組織であり、ヴェヒターは狩人である。
調査の結果、痕跡があればそれを辿り、ケモノを滅する。なければ、素知らぬ顔で何もしない。そういうことだ。
そして調査が必要な場合というのは、ケモノの目撃情報がないのである。目撃情報がないということは、協力者が現場の近くにいないケースが最も多いのだが、それ以外にもケモノのようなものを見たが、定かではないというものも含まれる。
「スヴァン先輩、早速調査に向かいましょう」
太陽はまだ高いが、痕跡も記憶も時間が経てば薄れてしまうものだ。動き始めるのに早いに越したことはない。
フェドラハットをかぶり、制服のスーツに着替えた僕は、〝シェスト教会怪奇現象調査室〟と書かれた、写真付きの手帳をジャケットの内ポケットに滑り込ませ、大聖堂を出た。
第五区画は近年、と言ってももう五十年は経っているのだが、その五十年前から造営が始まった比較的新しい区画だ。
帝都のシンボルである小高い丘の、その西の麓に扇状に広がるのが大聖堂のある第二区画。そして第五区画はその第二区画の北側に位置している。
城壁を取り払った後に造られただけあって、今なお膨張し続けている区画でもある。
造営の理由はもちろん、人口の増加に対応するためであった。
ゆるやかに衰退を続けている帝国ではあるが、未だにここヒ大陸はおろか、四大陸すべての国の中で最も大きな勢力を維持している。大小さまざまな属国も二十や三十は下るまい。
その上、帝都は帝国圏の経済の中心でもあり、更に科学技術の研究に潤沢な予算を投じ続けているお陰で、世界最先端とも言われている医療が受けられるのだから、大きな疫病も戦争もない中で、人口は増え続ける一方だった。だからこそ、自らの衰退に気が付いていないということも言えるが。
そういうことであるから、帝都の第五区画は世界で最も景観の近代化が進んでいるエリアだと言っても過言ではなく、断定しても良い。
なぜ世界で最もなどと断言できるのかと言えば、第五区画には、眼前に広がっている通り、コンクリートの高層ビルがいくつも建っているからだ。
大聖堂から歩いて三十分ほどで、歴史を感じる石造りの町並みが一変するのであるから、目まぐるしく、そして面白いことである。
だが、石を積み上げたものではなく、大量の土を固めたものでもない、コンクリートでできた五階建て以上のビルディングが競うように存在しているその死角で、スヴァンテは殺害された。
そうだ。丁度、前方に見えている角を曲がった先にその場所は在り、そして今回の現場は、すぐそばだった。
大通りに面している、煉瓦で装飾された六階建てのビルの角を曲がると、昼間でも日の当たらない路地が目の前に現れる。その路地の両脇は無機質なビルの裏――というわけではなく、いくつかの小さな商店が軒を連ねていた。
表通りの華やかさと比べてしまえば、じっとりとした陰鬱な雰囲気も漂いはするが、犯罪の匂いが濃いわけでもない。そこにいる人たちの表情に絶望は微塵も見えず、どこの町にでもあるような、都市開発に取り残されながらも、普通の生活を営んでいるだけのことであった。
そんなある種の懐かしさも覚える場所だが、狭い中にも所々に開けた箇所があった。それはもともと周辺の住民たちが何とはなしに集まる交流の場であったり、或いは引っ越しなどで建物を取り壊して更地にしたばかりの土地であったりするのだが、そこにもやはり陰鬱さはなかった。
一部を除いては。
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