第6話 北向き、鍵と庭
北向き、鍵と庭
次の日の朝、わたしはT駅の構内を歩いていた。親戚の住むS県の駅で、わたしが去った新幹線の改札は太いスチールの柵で鎖されており、行き交う人もおらず、フロアは無味乾燥としていた。わたしは駅員に見せた新幹線の切符をはっきりと覚えていた。列車を降り、階段を上って、切符を手放すことが、特別なことに感じられたからだ。重いリュックを背負いなおし、改札を出たところで、その景色を見た。
駅の構内では、それぞれに目的を持った人がわたしの前方を左右にすれ違っていた。それもわたしには不思議に思えた。この人達が本当にばらばらなのが不思議だった。わたしの居るところからは、道を右か左に行かなければならなかったが、駅のフロアは幅が広く、道と言う感じはしなかった。それは「箱」と言うほうが実感に近かった。その「箱」のなかに居て、わたしの視野というほんの狭い、近い範囲のなかでも人はばらばらだった。わたしは試しに利き手を前に出してみた――丁度わたしの目の前を人が通るのに合わせて。
その手はぶつからずに、わたしの顔の前に現れた。わたしの目の前の人はもう過ぎ去っていた。その人はとっさに身を躱したのかもしれない。しかし、わたしは多分違うのだろうと思っていた。おそらくここに居る人達は皆が皆、ほんの近いところに手を伸ばしても誰にも触れられないのだ。「箱」のなかに無数に入っている人達はちょうど光のようで、スクリーンに映された幻燈のようで、互いに干渉し得ないのだ。その、光を反射してわたしの目に映る人達はとても近いのに、救いようのない程遠くを歩いているという相反した景色が、わたしを不思議な気持にさせた。
わたしは左に曲がり、歩き始めた。疎らにすれ違う人のなかで。疎らにすれ違う幻燈のなかで。廊下には両面から見える時計がぶら下がり、路線の案内図が掛かり、名勝のポスターが貼ってあったりした。地方の大きな駅にありがちなにおいもしていた。わたしは乗り換えをしなければならなかった。乗り換えをするんだという目的のために、○番線の乗り場を探していた。××××線の到着する○番線はずいぶん端にあるらしい。途中、他のホームへ降りる階段を幾つも過ぎ去った。そこを降りて行く人もあった。彼らが階段を降りてゆくその景色も、何かわたしには不思議な気のするものだった。
結局わたしは突き当たりまでゆき、ぶら下がる○番線の看板の下を降りていった。○番線のホームは狭かったが、それにしてもそこに立っているのはわたし一人だけだった。本当は誰か居たのかもしれないけれど、わたしは居なかったと記憶している。どちらにしても同じことだ。幻燈が見えるかどうかなのだから。今居るわたしの席にも幻燈が居る。××××線車輛の一隅の、狭い四人掛けのボックスシートはわたしと他三人で埋まっていた。三人は家族のようで、弁当を広げながら何か話をしていた。その間で交わされる言葉も、何か目に見えるようだった。わたしが印象に残ったのは三人の持っている弁当の包み紙だった。鯖の押鮨と幕の内とサンドイッチだった。わたしは一人、車窓の外の景色を眺めた。飛ぶように過ぎ去る景色を。外を見ているのはわたしだけだった。この、窓の外の同じ景色ですら、見ているのはわたし一人だけのようだった。
わたしは古い本屋の三階に居た。この本屋は十年後、潰れてカラオケルームになる本屋だった。そのころにはこの町の、本屋を始め、古くて暗い店はおおよそ無くなっていた。わたしは物憂い翳りのにおいのする、この本屋の三階で本を探していた。蛍光灯の明かりがあるにも関わらず、店内は薄暗かった。それは、ここに眠る書物が放つ暗さに違いなかった。親しい暗さだった。それは、遠いようで近いわたしの影だった。
本棚の上の方にあるものが取りたかったが、わたしの低い背では届かなかった。本棚に掛ける段梯子を使い、ひとつひとつ上った。大した高さでなくても、それはやはり少し緊張のするものだった。梯子の一番上に立ち、首を反らし、手を伸ばして、本を取った。わたしはその本の表紙を吸い込まれるように眺め、満足して振り返り、梯子を降りようとした。そのときの眺めは――小さいわたしを引き留まらせるには充分だったらしい。この本屋は古い石の階段で、丁度吹き抜けに近い構造になっており、三階から下の階が見下ろせた。今、上まで続く階段を上ろうとする人、踊り場を折れて下に行く人、紙のにおいのするレジ、棚の前でページをめくる人たち。わたしより大きいこの人たちに囲まれて、何かわたしは不思議だった。この人たちは何もかもを分かっていて、不思議なことなど何もないように、景色のなかを動いていた。わたしは古い本屋の三階の、段梯子の上でぴたりと世界を止めて、景色を眺めていた。そのときにわたしは知ったらしい。十年後にこの本屋は潰れて、カラオケルームになることを。今となっては忘れてしまった。その記憶は手から零れ落ちる砂のように消え去り、わたしは今、そのカラオケルームの前を歩いても何も思い出さなかった。
列車は終着駅に着いた。そこはホームから、線路からして砂混じりの海岸沿いの駅だった。わたしが無人の改札を出て、少し歩いて砂浜から後ろを振り返ったとき、すでに列車はその場に無かった。残っているのは駅だけだった。その駅もどうかすると、次に振り返ったときには消えてしまいそうだった。
波打ち際に沿って、わたしは裸足で歩いていた。行けども行けども砂浜は尽きないようだった。海にはぼんやりとした光が差していた。風は穏やかに吹いていた。波は静かに打ち寄せていた。しかし、それは何でもなかった。それは決して、わたしを不思議な気持にさせることはなかった。わたしは悲しかった。悲しい気持ちで、海を横にして歩いていた。
このまま悲しい気持で、尽きぬ砂浜を歩いて行くのだろうかと思っていると、少し先で、流木の上で、人がひとり座っているのが見えた。わたしは警戒した。誰も居ないと思ったからだ。このわたしの海岸には、もう誰も居るはずがないと知っていたからだ。
わたしはゆっくり、少しずつ歩いていった。海岸に居たのは、わたしと同じ年恰好の男の子だった。海を見ていたその男の子は、わたしに気が付いたようだった。彼は海から目を離し、不思議そうにわたしの顔を見ていた。わたしは近づき、流木に座っている彼のそばまで来た。
「やあ」
「やあ……」
わたしは返事を返した。彼の座っている流木は、適当な長さの座り良い丸木だったが、彼はその木の真ん中より半分、右に座っていた。わたしは自然と、彼のすぐとなりに腰を下ろした。彼は海を見つめていた。わたしも、黙って波の寄せるのを眺めていた。波打ち際の、砂が水に濡れて灰色になり、染みていくところを見ていた。ふたり並んで海を見ているなかでも、わたしのこころには時とともに深く、不安が広がっていった。瞬きした瞬間にも彼は消えてしまうのではないかと怯えていた。列車のように。駅のように。わたしは彼に伝えたかった。彼にもわたしに何かを伝えて欲しかった。しかし口から言葉を発してしまえば、たちまち彼も幻燈になってしまいかねなかった。丸木にふたり座っている、この一センチほどの隙間が、救いようもなく離れ、屈折し、そこに境が出来てしまうのが怖かった。
波打ち際の砂は、乾く間もなく濃い灰色をしていた。わたしは黙っていた。何も言うことは出来なかった。こうしているうちに彼は消えてゆくだろう。わたしは海を見ながら諦めていた。涙がこみ上げてくるのを感じた。
そのときに――彼はふところから何かを取り出した。何をしているのだろう――何をしても無駄だ。光を返してそれは薄い金色に見えた。わたしは目を落ち着かせて、彼の顔の前にあるそれをよく見てみた。彼はトランペットを海に向かって突き出していた。唇を静かにあて、吹き始めた。
わたしは彼が吹くメロディーを聴いていた。涙はもう、静かに流れ落ちていた。わたしは砂浜に落ちていたヴァイオリンを手に取り、弾き始めた。吹く風に乗せ、寄せる波に合わせ、弓を動かした。思い通りに上手く弾けるのが嬉しかった。わたしたちは海岸に立ち、目の前の海に向かって演奏していた。海はきらめき、光彩を放っていた。いちめんに広がるその目映い光は、奇跡のために打ち鳴らされる嵐のような拍手だった――。
わたしは顔に光の当たるのを感じ、目を覚ました。そして再び、どこか物陰に潜むように目をつむった。いい夢を見ていた気がする。何か、ただいい夢だったなということだけ覚えていた。心地よく――明るい、うっとりするような――夢だった。夢の色彩が、海に落とした朱のインクのように、溶けて見えなくなってゆく。あるいは紙縒りの先のような糸煙が、空に昇っていくようだった。わたしは静かに目を開け、部屋を横に見ていた。かさかさとした蔓の上に、土器の皿が置いてある。そこにこぼれるように、細い枝の、白い花が盛ってあった。何だか懐かしい。その花をぼんやり見ていると――。
わたしは、はっと覚醒した。すぐに上体を起こすと、自分が今まで寝起きしたことのない部屋に居るのに気が付いた。いつもの部屋では無い。兄のマンションでも無い。草の、嗅ぎ慣れないにおいがする。太いばねのような蔓が床を覆い、壁中に蔦が茂っている。わたしは目線を下げ、自分の身体に掛かっているものを見た。それは薄い毛皮のようだった。敷物は――これも違う動物の毛皮のようだ。手で探ると、毛皮は何かふわふわとした植物の屑のようなものの上に敷いてある。わたしの背が悠々と収まるくらい、床にこんもりと盛られ、わたしはそこに寝ていた。鳥の鳴くのも聞こえる。わたしの知る、街中でよそよそしく鳴いているものではない。降りしきる雨のような、辺りを包みこむ話し声だ。
わたしは敷物の上に座り、目に留まった白い花を眺めていた。花は、素焼きの皿から爽やかに広がるように活けてあった。日の差した部屋で白い花を見ていると、わたしは霧が晴れるように「出来ごと」を思い出した。黄色の扉、コンパス、銀と紫の砂時計。蔓の繁茂する廊下、樹木のようになった非常階段、海原のような森の眺め、夜、祭祀、こびと、火、カツミ――。最後の方は記憶が混濁していた。明滅する、断片的な影のようなものしか見えなかった。背の低いヒトたちのことは何となく覚えていた。気分が、雲が日を遮るように暗くなった。
そのとき、玄関の方からカサカサと音がした。わたしはどきりとし、身を強張らせた。やがて、身長150センチくらいの、浅黒い、逞しい顔つきの男が入って来た。カツミだった。彼は口をきゅっと結び、こちらにやって来た。カツミは、横になり身体を起こしているわたしの傍に座った。わたしは直視出来ずにちぢこまっていた。なぜだか分からないが、いきなり殴られるんじゃないかというような怯えと不安を感じた。カツミは言った。
「おまえ、大丈夫なんか?」
「……なんのこと?」わたしはちいさな声で言った。
「覚えてないか。おまえ、昨日の晩いきなし気絶したんだぞ」
「わからない……今は朝?」
「日が昇って、ちょっとしたところじゃ」
「そう」
「ちょー待て。水を汲んでやる」
カツミはわたしの前を過ぎ、部屋を横切って、樹木の生い茂るベランダの方に行った。北側に面したベランダのそばで、甕から水を汲んでいた。わたしは彼の立っているところの蔦の辺りを見ていた。そのうちに、昨日の色々のことが、全部本当のことだったのだと実感してきた。わたしが起きたのは、父と母が居る家の、いつもと変わらない自分の部屋では無かった。昨日のことは、はっきり存在した事実で、今はその延長線上にある。ダレカが言った。「寝たのが此処なら、起きるのも此処だ。当たり前じゃないか。きみが寝ている間に、せっせと誰かが働いて、きみの思うように問題を解決してくれるはずがない。寝ることで何かがリセットされるわけでもないし、きみを都合の良い世界に運んでくれるわけでもない……」
「ほら、飲め」
カツミはわたしに水の入った器を渡した。わたしは中の水を一口飲んだ。昨日も同じ味の水を飲んだ。冷たい、自然の湧き水。それは美味しい――が、家の水でも、ぬるくてまずい兄のマンションの水でもない。
「どうだ、大丈夫そうか」
「うん、大丈夫……」
「さいか……」
カツミの表情が少しほぐれた。始めは何か緊張していたが、わたしもカツミに対して少し落ち着いてきた。しかしそのときに、また入り口から物音がして若い女性が姿を現した。女性とは言っても昨日見た――ほんの子供のような大きさで、でも成熟した体つきのヒトだ。わたしはまた、動悸が早くなるのを感じた。
「カツミ、サンナサン起きたの?大丈夫?」
昨日も聞いた、しっとりとした声だ。
「ああ、大丈夫そうじゃ」
「みんなに言ってこようか?」
「ああ……」
カツミはわたしの顔色を窺った。わたしは細く、喉から声を出した。
「ねえ、大勢は……」
カツミは入り口のほうに顔を向けて言った。
「いや、もう少し静かにさせたげたほうがええ。起きたばっかりじゃからな。何か喰いもん持ってきてくれるか」
「分かった」
入口に立っていた女性は、わたしに柔らかく微笑んで外に出て行った。悪い人じゃない。それどころか、優しくて思いやりのありそうな人だ。それでも――ただアンバランスに小さいというだけで、わたしの心はかき乱された。道で、べろべろに酔っ払って何かわめき立てている人と遭遇したときのような、言いようのない不安をどうしても感じる。
「……あのヒトお姉さんだっけ」
「そうじゃ、ルミ。覚えとらんか?わしの次にソウズケ飲んだ」
「覚えてる。ルミさん……」
わたしは昨夜のことを思い出していた。人や物がランプの灯のようにちらついた。それを、筋道だった記憶にしようとすると、とたんに輪郭がぼやけた。
「わたし、何で気絶したの」
「歳を聞いたら倒れた。なんか困ってるみたいじゃった」
おぼろげながら彼らの――小さいヒトたちの――雰囲気を思い出した。わたしに向けた視線を。彼らの態度を。
「ねえ、サンナサンって言うのは何なの。あなた達にとってのなに」
カツミはわたしの目をじっと見た。そしておもむろに言った。
「あんたの名前じゃ」
「わたしの名前は三奈だよ。サンナって呼ぶ人もいるけど……」
「ミナ……」
カツミはわたしの名前をつぶやいた。そのとき一羽の小鳥が部屋の窓枠に飛んできた。一声鳴いて、餌の無いのを知ったのか、またどこかに飛び去った。
「それに、わたしの歳――もうすぐ十五になるくらいだよ。あなた達、変なこと言ってなかった。その、一万歳とか……」
「十五か……まだ若いんじゃな」
カツミは視線を下げて、わたしの水色のシャツをじっと見ていた。胸の辺りの、おそらくは閉じているボタンのひとつを。わたしは昨日から服を着替えていないことに気が付いた。
「ねえ……」
「でもおまえ、ヘヤから出て来たんじゃろ」カツミはわたしの顔を見て聞いた。
「部屋?」
「黄色い扉のヘヤじゃ」
「そう、コンパス置いたらぐるぐる回って……」
わたしははっとした。わたしの穿いているズボンは、シャツと同じで昨日のままだ。しかし寝る前の記憶から抜け落ちている感触があった。わたしはその場所を手で押さえた。あるはずのポケットの膨らみが無い。慌てて立ち、ポケットに両手を突っ込んで鍵を探した。「あの部屋」の鍵だ。右も左も、前も後ろも探した。同じところに二度、三度手を入れた。わたしが取り乱しているのを見てカツミが言った。
「なんじゃどうした」
「鍵が無いの」
「カギ?カギってなんじゃ」
わたしは度を失って苛々した。この、常識の通じないのに。
「鍵よ、鍵――先のとがっていて、ドアを開ける――」話していて気が付いた。この世界のどの部屋にも、鍵はおろかドアさえ付いていないのに。わたしはリュックのポケットを漁った。そして自分の家の鍵を取り出した。
「これと同じようなやつ。ポケットに入れておいたのに無くなってる」
カツミはわたしの家の鍵を受け取ると、珍しそうに眺めた。そしてわたしに言った。
「これと同じのが無いのか?」
「同じじゃないけど――とにかく似たやつ」
「それが無いと困るのか?」
「困る……」
わたしは部屋の出口の方に歩き出した。急いでリュックを片手に担いだ。わたしはずんずん歩き部屋を飛び出した。カツミは慌てて後をついて来た。
「なんじゃ、いきなり」
わたしは蔦の茂る、蔓の蔓延る廊下を歩いていった。わたしが居るのは西の先の廊下だった。景色からすると上の階――おそらく九階だ。どの部屋にも部屋番号のプレートなど掛かっていない。わたしは通路を通るのに邪魔をしている、エレベーターに生えている木の枝を掻い潜った。昨日見たとおり、エレベーターには貫くように一本の木が生えていて、あるはずの階段は消失していた。わたしは足を速めて廊下を突き進んだ。カツミは小走りについてきた。わたしは廊下から敷居を跨ぎ、非常階段に降りた。ガサガサと樹が揺れ、鳥が飛び立った。カツミは追いつき、わたしに言った。
「どこに行くんじゃ」
「505号室――黄色いドアの部屋」
「ヘヤに行くのか、どうして……」
わたしは足を滑らせないようにと、太い蔓のあいだを降りて行った。昨日の午後、あの部屋を出てきたときのことを考えていた。鍵を閉めたかは、はっきりと思い出せない。でも、そのまま出てきてしまったように覚えていた。あるいはそうであって欲しいと願った。太い蔓を握りしめながら、駆け下りられない階段を焦れったく思った。飛行機の搭乗時刻が差し迫っているように、先を急いだ。一秒でも遅れたとき、その間に誰かがあの部屋の錠を鎖すのではないか。コドモが――彼らのなかでの子供だ――何人か廊下や階段に居て、驚いたような顔をした。わたしはとにかく下の階へ急いだ。
五階まで下り、境を跨いで廊下に出た。右に曲がり廊下を歩いた。堅い蔓木を踏みしめながら、黄色いドアの前に着いた。カツミはすぐに追いついて、わたしの脇に立った。扉の前には昨日見たときと同じような小さな壜と、かわらけのような土の皿が置いてあった。土の皿にはさっき見た白い花が盛ってあった。わたしは手を伸ばした。ドアノブに手を掛けたとき、冷やりとするスチールの感触がした。カツミが後ろでじっと見守るのを意識しながら、わたしはノブを回して腕を引いた。ドアは――閉まっていた。
わたしとカツミは先ほど居た部屋に戻り、食事をしていた。わたしは――自分の目の前にある、土器のなかに木の実や肉を煮込んだどろどろとしたものを眺めていた。
「ヘヤが外から開いたことは無いんじゃ。前にサンナサンがやって来たのは、オーキナの、百回も前の祖父さんらしい」
「そう……」
わたしは土器のなかを見ていた。手づかみで食べるというのを別にしても、食欲は少しも湧かなかった。
「カギは探してもらうように言っといた。よく分からんがそれが無いとヘヤに入れんのだろう。サンナサンと言っても出入り自由ではないんじゃな。まだ十五じゃからか?」
「……」
「……おまえは前のサンナサンとはまた別のサンナサンらしいな。前のサンナサンは囲炉裏をもたらした。壺は、それよりもずっと前のことらしい」
「もたらす?」
「黄色のヘヤから訪れるサンナサンは、わしらに何かをもたらし、去ってゆく――そう伝えられとる」
「あなた達にとっての神様みたいなもの?」
「カミサマ?」
わたしはくり抜かれた窓を通る光を見ていた。光は地面の蔓に陰翳を施している。床の、特に窓の光があたっている所を見ながら言った。
「わるいけど、わたしはあなた達に何ももたらさない。土器の作り方も囲炉裏の作り方も知らない。……出来ればすぐにでも家に帰りたい」
なにか顔の歪むような気がし、滲むような声が出た。そんな声が出ることが、わたしをさらに惨めな気持にさせるようだった。昨日のうちに、すぐに引き返しておけば……。この風変わりな森のマンションが、どうなっているか知ろうとせずに。このまま、もしも鍵が見つからなければ、どうなるのだろうか。わたしは永久に帰れないのだろうか。帰れない――わたしは、今までほとんど迷子になったことはなかった。家に帰れなくなるのではと思ったことは、もしかしたら今まで無かったかもしれない。とても思えない――前にもこんな気持になったとは。帰れないと分かったとき、こころのなかで、黒い風船が膨らんだ。わたしの思うより早く大きく、広がって行く――そんな気分だった。
「そりゃそうじゃ。父上も、母上もおるのだからな」
カツミはそう言って黙った。固い顔をしていた。無表情で、どこか一点を見つめていた。それは、わたしに対して、別に同情はしないといった顔つきに思えた。わたしは黙っていた。お互い静かに座っていたが、おもむろにカツミが立ち上がった。
「カギを使えば、あんたはここから帰れるっていうのは、皆に言わんほうがいいかもしれん。わしは構わんが、皆は……期待している。わしらは今、すこし大変じゃし……。わしは狩りに行く。ゆっくり休め」
そう言うとカツミは出て行った。彼が部屋を完全に離れたところで、わたしは独りで泣いた。悲しく、辛く、不安だった。どうしてわたしがこんな目に合うのか、怒りの気持も沸いてきた。泣きながら色々なことを考えた。昨日と今日、中学生になって初めて泣いたのかもしれない。最後に泣いたのは小学校のとき、何かで遊んでいて、仕事で遅く帰って来た父に怒られたときだ。それは、今考えても、わたしには理不尽な怒りにしか思えなかった。そのことを思い出すと、悲しみと悔しさが増した。
わたしは何とか泣き止もうと必死になった。色々なことを考えた。先ほどのカツミとのやり取りを考えていた。わたしは最後に自分が言ったことを思い出していた。わたしはカツミの同情を誘うようなことを言っていた。カツミがもしかしたら解決してくれるかもと、期待したのかもしれない。それをカツミは気が付いたかもしれない。わたしはそのときの自分の声色を思い返し、ぞっとした。自分のことが、とても醜く思えた。わたしは泣きながら、自分で解決しなければいけないんだと考えた。泣いていたって始まらない。何でもいい。とにかく何かをするべきなんだ。
三十分か一時間くらい――多分、本当はそんなに経ってないのかもしれないけれど――しゃくりあげていると、少しずつ気分は収まって来た。わたしは水を飲んだ。自分は落ち着いたのだと思い、リュックサックの中を漁った。携帯の電池は既に切れていた。わたしがリュックサックの中身を漁っていると、漫画が一冊入っているのに気がついた。兄に返すはずが、寸前まで読んでいて、リュックに入れてしまったらしい。わたしはチョコレートを見つけ、割って少し食べた。それほど食べたいわけではなかったけれど、食べるべきだと感じた。唾が出ず、味はあまり分からなかった。やっと飲みこみ、服を着替えた。ズボンは今穿いているものしかないけれど、上は白いTシャツが一着あった。Tシャツには前面にロゴが入っていた。タイポグラフィー的に、アルファベットで一文が書いてある。どういう意味なのかは分からない。
わたしはTシャツに着替えると、部屋の奥のベランダに行った。甕のそばには小さな器があったので、それで水を掬い、顔を洗った。拭くものは無かったからTシャツに顔を押しあてた。
白い生地から顔を上げて、ベランダの外の景色を眺めると、建物の北側にも森の眺めが広がっていた。昨日見たものと違い、樹木が目の前に迫り、見下ろすと言う感じではなかったけれど、より暗く、より鬱蒼としていた。辺りは時が止まったかのように静かだった。わたしは木と同じ高さから――九階から――木の根元の地面を見つめた。冷たそうな黒い土が、見えるような気がする。
ひとしきり地面を見下ろすと、わたしはとりあえず今居る部屋を調べ出した。ここは、昨日の夕方に来た部屋だ。水を飲んで、赤い実を食べた。鍵を入れたポケットの膨らみがいつ消えたかは覚えていないけれど、ここに居るときには確かにあった。わたしは、昨日座っていたところを探した。部屋の床は、ばねのように固い蔓で覆われている。わたしは腕を差し入れ、指を入れ込んだけれど、すぐに、ここから鍵を見つけるのは容易なことではないと思い知らされた。枝をより分けるだけでも一苦労だったが、それよりも、鍵の無いのを確認して手を抜くと、支えを失った枝ががさりと元に戻り、わたしの探していたところはすぐに埋もれてしまう。見たところと、まだ見ていないところと、区別を付けられない。そう広くもない部屋だけれど、果てしない、砂浜に手を突っ込んで探すも同然だった。わたしはそれでもむきになって乱暴に蔓を押し分けていたが、奥の方に手を突っ込んだとき、大きな黒々としたムカデが、指の隙間からいきなり飛び出して来た。わたしは悲鳴をあげて、瞬時に身を引いた。黒い虫はまたすぐに、蔓のひしめく隙間に戻って行った。わたしはどんなに頑張っても、もうそこを探す気にはなれなかった。
そしてわたしはまたすぐに、次の問題にぶつかることになった。今の今まで大して気に留めなかった問題だ。レジャーや長い移動で考えることはあるけれど。でも、十五年間生きてきて、ここまで切実に迫って来たことはない。家に居れば、学校に居れば、現代日本に居れば――大体、それは何でもないことだ。でも、ここでは――トイレはいったいどうするのだろう。
「彼らに聞くしかないね。そのへんでしろって言われるかもしれないけれど」
わたしの中の誰かは言った。わたしは必死に考えた。思考がビリヤードのブレイクショットのように飛び交う。
「でも、廊下や部屋はどこも汚れていないみたいだった。決まった場所があるんだよ、きっと」
「だったら早く問い合わせないと。すぐにそこに行けるとは限らないんだよ。あのヒトたちと顔を合わせたくないなんて、言っている場合ではないと思うね。元のところに戻るまで、ずっと付き合っていかなければならない問題になるんだよ」
わたしは部屋を出て、廊下を小走りに歩いた。
「出会った人に聞くのかい」
「とりあえず東の端の大部屋に行ってみる。オーキナに会えればいいんだけど」
カツミにはあまり会いたくなかった。わたしの中の誰かは溜息をついた。
「なんにせよ、一刻も早く家に帰らないといけないね。下着はあと一枚しかない。それに、あと何週間かしたら、こんどはもっと大変なことになる」
わたしはまた泣きたくなったが、はっきり言って今はそれどころではなかった。
東の廊下の、突き当たりの部屋は、微かに甘い煙の匂いが残っていたが、昨日の酒宴が嘘のようにきれいに片付いていた。わたしは部屋に入って中を覗いてみた。が、誰も居なかった。すぐに隣の部屋に向かった。衝立のせいで中は見えない。ただ人の気配はしていた。何かごりごりと重い音がする。わたしは迷ったけれど、他に選択肢も無いと思い直した。
「ごめんください」
ごりごりごりごりと規則正しく鳴っていた音が止んだ。ゆっくりとこちらに来る気配がする。やがてわたしの目の前で、衝立がガタリと横に動き、思っていたより低いところから顔が現れた。首を下に傾けたとき、わたしは自分の間の悪さを呪った。それは小柄だが、ずんぐりとし、黒々とした髪で覆われ、しなびた乳房が垂れている。醜い魔除けの置物のようだ。でも、これが置物だとしたら、ある意味、傑作だろう。物体にこれほどまでの――目を背けたくなるような、鼻に付くような、強烈なほどの生命感を込められれば。しかしトムジは置物ではない。そしてわたしは、今から彼女と話をしなければならない。
トムジは何も言わず、真っ直ぐこちらを見据えていた。相手の出方を窺うというのは出来ない相談らしい。わたしはすぐに悟った。向こうからわたしに声を掛けてくることなどあり得ないと。わたしは意を決して口を開いた。
「あの……お忙しいところすみません……ちょっとだけ聞きたいんですけど……その……おトイレってありませんか?」
「……」
トムジは変わらず、わたしの顔を見ていた。それはまさに下から見下ろされるようだった。下腹部に痛みが走った。わたしは腕を組んで、お腹を押さえて屈んだ。取り繕う余裕はなかった。
「おトイレないですか……お腹痛いんです……」
「……」
トムジは超然としてわたしを見ていた。わたしは極限状態のなかでも考えていた。いったいこの人は、感情や思考が表に出るといったことがあるのだろうか。外からはまったく見えないけれど、それでも頭のなかでは、何かを感じ、何らかのことを考えるはずだろう。そんな微かな「弱み」さえ、この人は持たないというのだろうか。
「……」
ダメだ、どうしようもない。わたしはとりあえずお詫びを言って、トムジの前から離れようとした。その時――。
「腹が痛い」
そうトムジは呟くと、部屋から出てわたしの横を通り、廊下を階段の方に進んだ。わたしはお腹の痛いのも一瞬忘れ、阿呆みたいに何もせず見送っていたが、はっと我に返り、急いで後に付いた。トムジは非常階段の樹を過ぎて、歩いてゆく。どこに行くのだろうと思っていると、角の、エレベーターの木の前で止まった。そしてそのまま中に入り、木を登り始めた。わたしはお腹の痛いのも半分忘れて、目を丸くした。石臼のようなトムジの姿はエレベーターの枠の上に消えた。近づき、よく見てみると、九階のエレベーターの木には枝を伐採した跡がある。おそらくエレベーターの乗降口が塞がらないようにするためだろう。枝を落とされた幹には、一本の縄梯子が掛かっている。荒々しい、自然の蔦がそのまま編み込まれた縄梯子だ。トムジはそれを昇ってゆく。わたしはエレベーターの縁に立ち、上を見上げた。俵のようなトムジの大きな尻が、滑車で吊り上げられるように昇っていき、程なくしてトムジは十階の縁に立った。トムジは上り切ったあと、縁から一瞬こちらを見下ろした。上から差す光に、顔が影で覆われている。その影法師はわたしを見て――すぐにどこかに行ってしまった。
慌ててわたしは縄に手を掛け、下に引いてみた。始めの二回は軽く引き、次に両手で強く引っ張った。わたしは縄梯子に足を掛け、腕にぐっと力を入れて、片足を地面から離した。梯子がぎしりと揺れ、縄に全体重が掛かった。慎重に手を掛け、恐る恐る縄と縄の間へ足を入れ、梯子を登り始めた。木の生えたエレベーターの空洞内に、隙間はほとんどない。木肌は擦れるように目の前を吸い付き、土のような、苔のような匂いのなかを突入していく感じだ。閉塞感に身体が包みこまれる。猫が、狭い管を抜けて、庭に出ていくようだ。わたしはしっかりと手に力を入れ、上を見上げた。十階の出入り口から燦々とした光が漏れ、包みこむように明るい。
わたしは十階に降り立った。そこは――わたしは実際に来たことはないが――マンションの屋上のはずだった。おそらく、四方がフェンスで囲まれ、同じような高さのビルが眺められる――そんな景色のはずだった。
わたしが縄梯子から地面に手を掛け、立ち上がったときに見たものは、今までの、鬱蒼とした森のなかのマンションの、続きのような景色でもあり、まったく別のものにも見えた。そこは庭のような、公園のような場所に見えた。青空と、眼下に広がる森の海。女の子が居て、植え込み程度の木々に水を撒いているのが目に映った。厚手の艶やかな緑の葉っぱに白い花がいくつもいくつも咲いている。地面には芝が生えている。その芝も無造作に茫々と生えている感じではなかった。
辺りを見回していると、トムジは隅のほうに居て、こちらを向いていた。わたしは芝を踏みながらそちらに歩いた。右手には腰くらいの高さの鉄柵に蔓草が絡まっていて、人が落ちないようになっている。ふと左の方を見ると、水を撒く娘が手を止めてこちらを見ていた。
トムジの居る一角まで行くと、彼女はわたしの目の前の場所を指差し、その後、水を撒く娘のところに歩いて行った。ふたりは何やら話をし、水を撒く娘はうなずいていた。やがてトムジはエレベーターの方に歩いてゆき、梯子を降りていった。
水を撒く娘は、わたしと同じようにトムジが帰っていくのを目で見送ると、わたしの方にやってきた。彼女は――他のヒトに比べれば――割と背が高かった。そして他のヒトと違い、長い布を身体に巻いていた。わたしはぼんやり彼女の姿を眺めていたけれど、彼女がある距離まで近づいたときにドキリとした。彼女はゆっくりとこちらに歩いてきて、わたしの目の前で止まった。身長は、たぶん150センチ無いくらいだろう。巻いている布は――身体をごしごし洗うには良さそうだが――畳の織りをさらに太くしたような、ぼこぼこした感じだった。彼女はその荒い織りの布を、ギリシャの哲学者のように、斜めに巻きつけていた。左手は布が巻かれず突き出ていた。そして――右腕は無かった。
わたしはショックを受けて、彼女の肩の付け根あたりをじっと見ていた。少しの出っ張りも無く、布が掛かっている。つるりとしたガラスの瓶に掛けられている包装紙を思い起させた。じっと眺めていたけれど、やがて彼女の視線に気がつき、はっと我に返った。慌てて彼女の足元に目を落とした。
少しの間、沈黙が続いた。わたしは悪いことをした――と思い。彼女の足元の草を眺めていた。彼女はわたしを見ているようだったが、やがて左手を上げて言った。
「そこに行かないの?」
彼女は左手でわたしの前を指し示した。さっきトムジも指差した場所だ、そこは――何なのだろう。この空中庭園のなかの区切られたスペースだった。茨の園のように柵がアーチ状に連なり、つるが巻いて門のようになっている。枝を組み合わせた屋根もあった。青空の下の屋上で、ここだけ四方が緑の壁で覆われ密室のようになっている。テラスに突き出た待合室のようだ。もしかしてここが、トイレなのだろうか。
わたしが黙っていると、右腕の無い子はわたしの目の前に来て、アーチの下の柵を押した。キィ……という軽い音がして、柵が動いた。
「お腹が痛いんじゃなかったの。いいの?」
わたしは下腹部の痛みを思い出し、彼女の脇を通って中に入った。中は静かで――屋根もあり、若草色の床と壁に包まれているからだろう――明るいがひっそりとしていた。片腕の子はわたしを通すと、蝶つがいのような柵を閉じ、どこかに行ってしまった。わたしはなかを見渡した。キラキラと、木漏れ日が部屋全体を包んでいるが、レースのカーテンをさっと引いたときのように静かだった。左の方、部屋の少し奥まったところに、盥くらいの大きさの土器が鎮座していた。わたしは、近づいてよく見てみた。それは薄い茶褐色の堅そうなやきもので、赤い模様が火のように吹いていた。中身は空っぽだった。
「これにしろってことだろうね」
わたしのなかのダレカは言った。
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