第7話 北向き、セレン


  北向き、セレン


 惨めで、恥ずかしく、情けない気持になったけれど、結局わたしは、細かな木々に包まれて用を足した。選べるような状況ではなかったにしろ、全て済んで、土の器を見たあとは酷い後悔の念に苛まれた。ポケットティッシュがいくつあるかを考えた。リュックに今までのものが溜まっている可能性は高いが――わたしはヒヤリとした。後ですぐ確認するにしろ、本当に――一刻も早く、帰らなければならない。

 わたしは焼きものを見た。「……これをいったい、どうすればいいと言うのだろうか」盥くらいの大きさの土器は、明るい褐色に、炎のように色が付いていた。とりあえず、外に居る片腕の子に事情を説明するしかなさそうだった。わたしは振り向いて、若葉が折り重なる眩しい部屋を出ていった。

 樹木のトンネルのような部屋から、開放的な屋上庭園に出た。周りは張り裂けそうな青空だった。蔓の絡まる四方の柵の下には、永遠に森の海が広がっていた。少し離れたところに彼女を見つけた。胸くらいの高さの植えこみに、また水をあげているみたいだった。

 わたしが近づくと、彼女もわたしに気付いたようで水をやる手を止めた。先ほど見た白い花が、いくつも咲いている。彼女はごく自然に、何のけれんみもなくわたしの顔を眺めているようだった。わたしは周りの花木に目をちらちらやりながら近づいた。

 わたしが彼女の前に来ると、彼女はわたしの顔を窺っていたが、やがて言った。

「済んだの?」

「はい――すみません」

 彼女がわたしの顔を見つめていたのが分かっていたので、わたしは目線を落としていた。彼女の、身体に巻いている布の、荒い織り目を見ていた。片腕が無い――ということを意識しないわけにはいかなかった。気にしないように、見ないようにと思うほど、無い腕を意識の外にやるのは困難だった。

「あの……どうしましょう。跡片づけとか」

 彼女は少し不思議そうな顔をした。

「跡片づけ?――ああ、あとでやるわ」

「えっ……」

 あとでやる――?見ず知らずの他人にあれを始末させるのは恥ずかしいし、申し訳なさすぎる。

「あの……わたしがやります」

 彼女はまた、わたしの顔をじっくりと観察しているように見えた。しかし――何かその視線は昨日の小さなヒトたちとは違っているように思えた。そこには好奇――の感じが無いように見える。

「いいわよ、それが仕事だから。花に水をやったら、やるわ」

 わたしは彼女の顔を眺めた。ちいさな鼻とくち、かわいい綺麗な顔だちをしていたけれど、不思議とひっそりとした印象を受けた。黒い、静かな瞳のせいかもしれない。

「仕事なんですか?」

「このニワの管理」

 彼女はそう言うと、また花に水をやりだした。樫のような、大きくて長い匙を差し入れて水を撒いた。目の前の甕には澄んだ水が湛えられ、焼成された土肌に粒々混じった礫が揺らいでいた。

 彼女は自分の周りの一画に水をやり終えると、匙を水面に入れて、甕を持ち上げようとした。屈みこんで、左手を底の方に差し入れ、あっ――と思うとそれを持ち上げた。胸や顔、右肩辺りを上手く使って運びだした。手馴れたものだった。

「あっ……手伝います」

 わたしは、重い甕を運ぶ彼女の後を、馬鹿みたいに付いて行きながら言った。

「べつに平気よ」

 片腕の子はせっせと甕を運んで垣根を廻った。わたしは何も出来ず、後ろからそれを眺めていた。身体を屈めながらの運び方は奇妙に見えた。彼女はよたよたと、不格好に進んでいった。

 彼女は別の植え込みまで行き、甕を下ろすとまた水を撒き始めた。わたしは少し迷ったが言った。

「あの、何かやれることは無いでしょうか?」

 彼女は手を止めて、またわたしの顔を眺めた。そして――初めて――笑いながら言った。

「あなたはサンナサンじゃないの?」

 わたしは彼女の目のあたりをじっと見た。

「わたしにはサンナサンというのもよく分からないけれど、みんなはそう言います」

 彼女はちょっと考えているようだった。

「ヘヤから出て来たんでしょう」

 わたしはあの無機質な、奇妙な部屋を思い出した。

「黄色いドアの部屋だったら、そこから出て来ました」

「その口ぶりだと、何だか良く分かってないみたいね」

「全然よく分かってないです。神様のようなものかなと思ってますけど」

「カミサマっていうのが分からないけれど、何かしら?」

 わたしはひとしきり考えた。

「一方的にもてはやされて……何をするかも分からない、居るかも分からないもの……?」

「あなたみたいに」

 片腕のない彼女はにこりとした。わたしは笑うか迷った。彼女は目を細めて笑っていたが、左手に持っていた木杓をわたしに差しだした。

「そうね、なら花に水をやるのを手伝ってくれないかしら。あとこの列とこの列だけだから」

「わかりました」

 わたしは彼女から木杓を受け取った。

 水の湛えられた甕に、ざぶりと木杓を差しこみ、身体を横にして水を撒いた。花に水をやるのは悪くない気分だった。近いところから、二回、三回と遠くに水を投げ放った。肘を曲げてスナップを利かせると、水は弧を描いて飛散していった。屋上庭園の青空に透明なつぶが舞って、緑にそそがれていった。わたしは水をやりながら、辺りの景色を眺めた。この屋上庭園は規則正しく植物が植えられていて、開放されているように感じた。そう、まさにこの場所は、自分のほか全てのものに開け放たれている――という感じがした。見渡す限りの青空と、見渡す限りの海原のような密林の真ん中で、ぽつん――と取り残されているようだった。さっきわたしが入った「トイレ」を見ると、それは緑に覆われた長方形の場所――海でも平野でも、山あいでも星空でも、宇宙でも――何か、世界の端っこに建てられた、「観測所」のように思われた。

 水を撒きながら辺りを見渡していると、片腕の子は少し離れたところでしゃがみこみ、何か作業をしていた。植木の影でよく見えなかったが、剪定をしているようでもあり、草取りのようでもあった。彼女は少しずつにじり寄りながら、手を動かしていた。わたしはそれを眺めながら、ここから届く範囲に水を撒き終えたので、甕を持って移動しようとした。動かそうとしたが、水の入った甕はかなり重かった。わたしは木杓をボチャリと甕に突っ込み、しゃがみこんだ。両手で甕を抱え込みながら、あの子はよくこれを片腕で持てたなと思った。

 移動した後も、物思いにふけりながら――考えることはたくさんあった――水を撒いていたが、やがて全ての花木に水をやり終えた。どうしようかと思って、片腕の子の様子を見た。彼女はさっきより少し移動したところに座りこんでいた。わたしは少し迷ったけれど、彼女の方に行ってみた。

 座っている彼女の後ろに立ったが、片腕の子はよどみなく手を動かしていた。何をしているのだろうと思って後ろから覗きこむと、彼女は花についている虫を捕っていた。毛虫ぐらいのもぞもぞとした黒い虫だ。摘まみ取っては壺に入れていた。わたしは心で「うう……」と唸った。

「終わった?」彼女は植木の影に頭を入れながら、背後のわたしに言った。

「終わりました」わたしは虫の入っている足元の壺を見ながら言った。わらわらと這い出てきたら卒倒ものだ。

「そう」彼女は片腕を植木の奥に差し入れている。

「他には、何かやることはありますか」

「そうね、特にないわ」

「……」わたしは自分のした――「観測所」の土器のことを考えた。

「そこの長椅子で休んでいたら?わたしももう少ししたら休憩するわ」

 屋上の蔓草が巻いている縁(へり)の、ちょうどいいところにベンチが一つあった。脚と座面の、三枚の木の板だけで出来ているベンチだ。

「じゃあ少し座っています」

 彼女は返答変わりに、また黒い毛虫を壺に入れた。

 ベンチに座って、庭園の景色を眺めていた。明るい木々たちは、青空の日を照り返し、風が通るたびに揺れ、色彩を変えていった。空の高いところでも、ゆったりと飛翔する鳥の声がし、身近には柵にも、花木や芝生にも、小鳥が遊んでいた。片腕の子は丹念に植木の手入れをしている。わたしは自然と目線を上にあげ、遠くの空を見つめていた。白い雲を、本当に動いているだろうか――と眺めていた。草花の澄んだ匂いは、もうずっとしている。わたしはぼんやり雲の動きを見ていた。それは、何か――青空の、白く、浮かんだ雲を見ているようでありながら、同時に、上から、わたしと、わたしの居るこの庭を見下ろしているような感じがした。風が吹き、庭中の木々の葉を揺らした。

 片腕の子はいつの間にか虫を取り終え、わたしの置いてあった甕のところに行き、下から持ち上げた。身体を思いっきり曲げて、まだ水の残っている甕を持って歩いてゆく。わたしは、ふと、彼女の後ろ姿を「奇妙」と言えない気がした。それをおかしいと思うのは、両腕を持つわたしの見方で、あくまで「両腕を持つひとの世界」の基準だ。別の世界の基準を持って来て、おかしいとか奇異だとか言うのは――意味の無いことのように思える。

 片腕の子は木陰の隅に消えていった。あの子の名前は何て言うのだろう。そう思っていると、またすぐに彼女は木の影から出てきた。手には二つの紅色の実を持っていた。昨日カツミからもらったものと、少し違う。

「わたしも休むわ」

 彼女は躊躇いなくわたしのふくらはぎのすぐ脇に腰を下ろした。彼女の持つ果物の匂いがありありと感じられる。彼女は左手をわたしの胸に差しだし――。

「はい」

 わたしの手に紅の実を落とした。わたしはボールをキャッチするように膝の上で受け取った。

「くれるんですか」

 彼女はそれには何も答えず、果物の皮をむき始めた。まるで庭中に広がったかのように、甘い、瑞々しい香りがたちこめた。さっきまで、全然食欲など無かったけれど、何か食べてみたい気持になった。わたしも、桃のような柔らかな皮に爪を入れ、赤々とした表皮を剥いた。また――香りが立ち込めた。まるで、濃い薄い、霞みのような紅梅色の粒子が、わたしの胸元から広がっていくようだった。

 隣に居る彼女は、わたしから顔を逸らして、ぼんやり離れた植木でも眺めているみたいだった。わたしは思い切って聞いてみた。

「ねえ、いきなりだけど、名前は何て言うの」

 彼女は眺めている植木から、ふと気がついたようにわたしの顔を見た。

「わたしの?」

「あなたの」わたしも彼女の顔を眺めてみた。可愛い、整った顔をしている。しかし――とても、寂(しん)とした目をしている。

「セレン」

 わたしは心のなかで「セレン」と復唱してみた。そう言われると、何だか彼女は、セレンという感じがする。沈んだ黒い瞳、可愛らしい口と鼻、無い右腕。セレンと言うのは彼女であり、彼女はまさにセレンなのだと――そういった気になってくる。わたしのなかのダレカが言った。「名前というものが、そもそも、そういうものなのかもしれない」セレンが彼女なのだろうか、彼女がセレンなのだろうか。「ミナは?」わたしは――。

「わたしは三奈」

「ミナ――サンナサンっていうのは」

「わたしのところでは誰も言わない。学校の男子がサンナってわたしのことを呼ぶことがあるけど……でも、基本的にその呼び方はされない」

「ふうん」

 彼女は分かったのだろうか。多分よく分かっていないだろう。わたしは、屋上庭園の上の、目の前に広がる青い空を眺めた。360度の青空と、360度の森だ。学校とか男子とか――そんな言葉がここに存在するだろうか。

「あなたのことを三奈って呼べばいいのね。とりあえず」

 彼女はそう言うと、手に持っている果実をかじった。

「そう」わたしは何だか知らないけれど、少し明るい気持になった。

「三奈ね――なんか言いづらいわね」

 そう彼女が言うと、沈黙が流れた。風の音と、鳥の声と――わたしが果物を飲み込む音しかしない。それは腕が触れそうなほど近くにいる、彼女の耳にも聞こえてしまうのではないかと感じる。

「セレンって呼んでいい?」

 思い切ってわたしは言ってみた。彼女はふっとわたしの目を見た。彼女の涼しい目もとが、すこし丸くなったように思えた。

「いいわよ。もちろん」

「普段は何をやっているの」

「だいたいここの手入れをしているわね」

「……」

「……」

 また沈黙。どうやらセレンも、自分からあれこれ話すような性格ではないみたいだ。わたしも進んで誰かと話したり、おしゃべりを楽しんだりする柄じゃない。手に持っている果物も、もう少しで無くなりそうだ。わたしは目の前の植え込みを見、柵を見、「観測所」の――上の空を見た。青い空の端っこには、いつの間にか、さざなみのように白い雲が広がっていた。ひとしきり眺めると、そのあとにちょっと離れたところの白い花を見て、手元の果物の皮を見た。

「……」

「……」

「あの、ちょっと聞きたいんですけど」わたしは手元の果物をもてあそびながら言った。

「なに?」セレンには気張ったところがなかった。「この子は落ち着いている」ダレカが言った。

「あの、わたしは何をすればいいんでしょうか。どうすれば元のところに帰れるんだろう」

「わたしは三奈がどこから、どうやって来たかも分からないんだけれど」彼女は静かに言った。

「もと居たところはね。マンションなんだけどこういう感じじゃないの。わたしとかあなたとか、身長150センチとか、男の人は170とか180とかあって、こんなに木が生えていたりしないし、車も通っているし、空もこんなに広くないし、空気も美味しくないし――」何を言っているのだろう。これじゃあ説明になっていない。それに――マンションとかセンチメートルとか、車なんて物もこの子には分からないんじゃないか。わたしは彼女の様子を窺ったが、何も尋ねず、黙って聞いていた。

「とにかく、こことは全然違うんだけど、同じような作りの建物にわたしのお兄ちゃんが住んでいて、そこで505号室の鍵を見つけて、全然知らない人の部屋なんだけど……それでその変な部屋に入って、コンパスをいじって目を回して気絶したら……外に出たらこのジャングルの、樹上生活みたいなマンションに変わっていた……」そう言って、わたしは膝の上の果物に目を落とした。わたしの話している間、セレンは一言も口を挟まず黙って聞いていた。わたしにもよく分からない――ましてこの子にわたしの言っている意味が分かるのだろうか。そう思っていると彼女は口を開いた。

「そのカギっていうもので、またヘヤに入ればいいんじゃないの?」

 わたしは彼女の目を見た。相変わらず、とても静かな瞳だった。

「それが……その鍵が無くなっちゃったの」

「そしたら、とりあえずそれを探せばいいわけね」

 セレンがそう言ったのに、わたしは少し驚いた。

「そう……そうだね」

「わたしも探してあげるわ」

「本当に?」

「ええ、多分それもわたしの仕事に含まれると思うわ」

 そのとき、ふっと、また風が吹いた。

「仕事?セレンの仕事って何なの」

「サヨ」

「サヨ……?」

「『サ』よ。あなたの幇助をする」


 そのあとわたしたちは、白い雲が空に広がり、そこから覗く日が頭の上に来るまで話をした。セレンの話はこういうことだった。彼女の仕事というのが、サンナサン――神様のようなもの――が、この世界――このジャングル――のなかで何かをするときに、それを手助けするという。わたしの世界というか常識と、彼らの住む自然の、あいだを取り持つのが役目らしい。

「でもね――」セレンは言った。「普段はここの、ニワの掃除ばかりを、日がな一日中していたわ。先代のサも先々代のサも、わたしの直接聞いている人たちは、みんなそうだったし、それで一生を終えたわ。実際に来たことなんてなかったから。サンナサンなんて。みんな毎日、ここの掃除をして――ニワは前の前のサンナサンがオクジョウに作ったらしいの。とても気に入っていた場所だったらしいわ。言い伝えによるとね。もうウン千、ウン万年前の出来事らしいから――まあそんなこんなで過ごしていて、サの役割というのはあったけれど、みんな話だけで聞いている存在だったから。……それが、わたしのときには、実際に来たのだけれど」

 そう言って、セレンはわたしの目を見た。わたしも彼女の瞳を見た。とても微妙な色合いを宿していた。その何とも言えない感情をわたしは知っているのだろうか。今まで、体験したことがあるのだろうか。

「だから困ったことがあったら言ってちょうだい。「役割」について、前の代のサから教えられたことはあるけれど、実際には、今までの誰も分かってはいなかったのよ。だから、あなたが直接教えてくれると助かるわ」

「なら……とりあえず鍵を一緒に探してくれる?」わたしはそう言った。すると彼女は立ち上がり、手に持った皮を口に入れて飲み込んだ。

「じゃあ、とりあえず下りましょうか」

 セレンはわたしに片方の手を差し伸べて、長椅子からわたしを立たせた。


「どこらへんで失くしたか覚えてないの?」

 わたしたちは粗末な縄梯子をつたって、九階に降り立った。

「わからない。昨日の晩、カツミと端の部屋――ウロで果物を食べたときにはあったと思うんだけれど」

「クの前ね。そのあとは分からない?」

「ク?――うん。一応そこはさっき探したんだけれど……大きい虫が飛び出てきて」

 セレンは笑った。

「虫が嫌いなんだ」

「あんまり……好きな人いないでしょう?」

「そうね、ちっちゃい子は遊んだりするけれど――まあね、喰うかもしれないからね」

 喰う?――あんなに大きくて、気持悪くて、さらに咬まれるとあっては、どうしたってご免だ。

「まあ、じゃあわたしはそこをもう一回調べてみるわ。あなたは九階の廊下からクバを探したらいいんじゃない?」

「手分けして探す?」

「その方が効率がいいでしょう」

 わたしは少し心細い気がしたが、確かにその通りではあった。

「虫が出そうなところは、無理しなくていいわよ。わたしがもう一度見るから。何かあったら、わたしはこの階に居るから呼びに来て」

 セレンはそう言うと、部屋の奥の蔦の茂みから、鍵を探し始めた。

 わたしは部屋――洞穴の入り口から廊下に出て、とりあえず床を点検した。蔓木でどこもかしこも覆われていて、あるはずのコンクリートもよく見えない。「虫が出そうなところは探さなくていい」とセレンは言った。しかし、虫が出て来なさそうなところなんて、ただの一つもない。わたしはとりあえず腰をかがめ、雑巾がけをするように目線を左右に往復して動かしていった。

 注意深く蔓木の廊下を見ていったが、鍵は見つからなかった。九階の廊下の端まで来て、今まで下ばかり見ていた目線を上にあげた。相変わらず圧倒的な存在感の、非常階段の樹には、薄い光が差していた。南の空には雲がずいぶん広がっていて、日の光が拡散されて柔らかくなっていた。木の生い茂る廊下の壁にもたれて、このマンションも――空から見れば、森の海のなかの一個の大樹のようなものなのかもしれないと思った。

 廊下には鍵が無いようなので、突き当たりの、昨日わたしが気絶した部屋――さっきセレンはクバと言っていた気がする――に入った。今朝も来たが、一つの物も無く片付いていた。昨日の祭りのあと、片づけられたのだろう。

「誰か、ここの片づけをした人に聞いてみたほうがいいんじゃないかな」

 とりあえず部屋から廊下に出て、セレンのところに向かった。隣の、さっきトムジが居た部屋には、また衝立がしてあったが、今は何の物音もしてこなかった。わたしは、東廊下を歩いて、非常階段の木漏れ日のなかを通り、エレベーターの木の脇を抜けて、西廊下の突き当たりの部屋まで戻った。

 セレンはちょうど、入口のすぐそばまで来ていて、膝を落として、手を床に差しこんでいた。

「無いわね――廊下にはあった?」

「ううん――見つからなかった」

 セレンは一生懸命探してくれているようで、申し訳なかった。

「端の部屋まで――ウロまで行ってみたんだけど――」

「うん?」

「片づけられているみたいで、誰かに聞こうかなと思って」

「ああ、そうね。ルミとかがやったと思うけれど。でも、今はゴカイの下に行って木の実を集めていると思うわ」

「五階?」

「ゴカイ」

 どうしようかと思った。仕事中なら、ちょっと申し訳ない。

「まあ、帰ったら聞いといてあげるわよ。ちょっと一息いれるわ。クロムシが一杯出てきて、一匹、一匹、北の森に逃がしていたらくたびれちゃった。夜中、寝ていて喰われなかった?」

 腕の毛穴から、背筋から、首からうなじに頭の毛穴まで広がったように感じた。昨日私が気絶して寝ている間、蔓の下では、黒いムカデが蠢いていたのだろうか。セレンはわたしの様子を読み取ったのだろう。面白そうに笑った。

「ルミに言っとくわ。今夜はカヨケを多めに焚いておくようにって。それより――」

 わたしは彼女の目を見た。視線の先に、わたしの床に転がっているリュックがあった。

「これはあなたのよね?変わったヌノイレね。でもすごく便利そうだし、贅沢に出来ているわ。何かむこうから持ってきたの?」

 わたしはリュックのポケットを見た。そういえば、ポケットティッシュがあるか確認しないといけない。それに、もしかしたら「あの部屋の鍵」が入っているかもしれない。

「着替えとか色々――もしかしたら鍵が入っているかも」

「ちょっと出してみて」

 セレンの瞳の奥に、星のような好奇心の光が宿っていた。わたしはリュックの近くに座り、セレンが見守るなかリュックのフラップを開けた。焦げ茶のジャケット、水色のシャツ、下着類――わたしが蔓木の床に置くたびに、セレンの目の光が強くなっているのが感じられた。わたしが一冊の漫画を取り出したときセレンは言った。

「それは、何?」

「漫画だよ」

「マンガ?」

「絵の描いてある本」

 セレンは身体を傾け、顔をわたしの方に寄せてそれをじっと見ていた。わたしもこの漫画の、この巻の表紙は気に入っていた。それは緑に包まれた青い湖のはしに、小さいヨットが現れる絵だった。

「大きな溜まり水――綺麗なソラね。変わったものが浮かんでいる」

「空じゃないよ。湖。これはヨット」わたしは小さく書かれている白い小舟を指して言った。

「ヨットね。ソラって言わないの?」

「湖だよ」

「あなたのところではミズーミって言うわけね」

「そうだね」何かしっくり来ないな――話が噛み合わないのは仕方がないけれど。

「ねえ、少しなかを見てもいいかしら?」

「いいよ」わたしは彼女に漫画を手渡した。

「ありがとう」

 彼女はページをめくり、そこにじっと視線を傾けた。やがて言った。

「どこにも絵にアナがあいていて、模様が付いているわ」

 わたしは何かと思って、セレンが指差しているところを見た。ふきだしにセリフが書かれている。わたしはああ――と思った。

「それは、ふきだし。字が書かれているんだけど……」わたしはふと考えた。「あなた、字分かる?」

「ジ?」

「ここの人たちって、文字は使う?」

「モジ?この模様のことかしら?」

 そうだろうな――字と言う言葉が無いというより、文字なんて存在しないんだろう。「口頭伝承」とダレカがわたしのなかで呟いた。

 セレンに文字のことを言おうと思ったが、セレンはわたしから目を離して、漫画を熱心に見ていた。ほとんどページのなかに吸い込まれていく様子だ。わたしは、何だか文字のことを説明する気もなくなった。「第一、どう説明するのか」とダレカも言った。彼女は、熱心に絵を見て、やっと次のページをめくった。次のページを目に映したときにも、静かな瞳の底に、細い光があるのを感じた。

「よかったら、それ貸してあげるよ」

「いいの?」

 セレンは驚き、少しずつ――いや、一瞬のことなのかもしれない――期待に満ちていくような感じがした。わたしも、なぜか緊張した。

「……いいよ。わたしもう読んだし。わたしがここに居る間はね。お兄ちゃんのだから……」

「ありがとう。じゃあ、あなたがいる間は……。そう、今はカギを探さないと」

 セレンは漫画を蔓木の床に置いた。セレンが漫画を置き、わたしたちは、目を見合わせた。さっきから部屋に来て遊んでいる鳥が、高く鳴いている。

「カギは入ってないの?」セレンが言った。

「入ってないみたい」

「そっちの方には何が入っているのかしら?」セレンは、リュックのポケットを指した。

「何が入ってたかな……」

 わたしはリュックのポケットを一つずつ探していった。幸いなことに――随分なヴィンテージ物から――ポケットティッシュは大量に押し込まれていた。ただ、鍵は無いみたいだ。わたしは、ポケットの隅に入っているものを見つけた。セレンの視線が注ぐなか、それを取り出した。

「それは何?」

「チョコレート、お菓子、食べもの」

「ふうん」

「食べる?」

「どういうものなの?」

 わたしは紙の包みから、くしゅくしゅと銀紙にくるまった板チョコを出し、少し破いて褐色の甘いお菓子を見せた。

「それ、食べ物なの?」

「食べものだよ。甘い味がする」

 セレンはわたしの手にある、銀紙に包まれた「それ」を疑わしそうに見ていた。

「食べない?」

「戴くわ」

 わたしはぽくりと板チョコを折り、銀紙を剥いて、裸にして手渡した。そのとき、セレンと手が触れた。チョコが融けないかなと、ちらっと思った。セレンは、ぽんと手渡された――わたしの言う「チョコレートなるもの」を訝しげに見つめていたけれど、親指と人差し指で摘まんで、口の先で少し齧った。それを噛んで飲みこむと――すぐに、今度はすこし大きめに齧って、食べ始めた。

「美味しい。苦味があるけれど、とても甘いし。変わった香りがする」

「それは良かった」

 わたしも、かじって食べた。食べてみると、暖かさで予想以上に柔らかかった。香りは――甘く、ほろにがい、チョコレートの匂いとしか言えない匂いだ。少しずつ、奥歯で噛んで、口の前の方や、舌の上に移動させて――だんだんと融けて、飲み込んだ。ダレカが言った。「初めてチョコレートを食べたときの気持って、どういうものなんだろうね」

 セレンは手に持ったものを食べ終わると、指に付いたチョコに気がつき、一本、一本舐めた。何だか猫みたいだなと感じた。不思議に品がある。舐め終わるとセレンは言った。

「こんなに変わった、美味しいものがあるのね。何だか、木や土みたいと思ったけれど」

 たしかに、始めてチョコレート見たら、土や何かの工業製品のようなものに見えるかもしれない。わたしが最初に見たとき、どう感じたか――もう覚えているはずも無いけれど。二歳とか、三歳とかだろうか。

「おいしかったわ、ありがとう。少しあなたのところにも行きたくなったわ。でも、カギはないみたいね」

 チョコレートの入っているポケットに、鍵は入っていなかった。わたしはもう一つのポケットを探してみたが、鍵は見つからない。

「やっぱりリュックには無いみたい。入れた覚えもないし」

「そう、じゃあやっぱりウチを探さなきゃいけないわね。骨が折れそうだわ」

「ウチって?」

 そうわたしが言ってセレンの顔を見ると、彼女は複雑な色を浮かべた。たぶん、ここの人達にとっては、当たり前のことを聞いたのだろう。「中学生が――月とは何か――って天文学の教授に聞かれたような感じなのかな」セレンはよくよく考えて、言葉を選びながら言った。

「わたしも、あなたも……皆がいるところよ」

「このマンション……この場所ってことね」

「まあ……そうだけれど」

「……?」

 何か彼女の言い方は――表面上は合っているけれど、実情としてはそれほど正しくないというような響きがあった。

「どこから、探しましょうか?ウチに来て、あなたが居た範囲はどのくらいなの?」

「五階の部屋から出て……エレベーターの木を見て……。それから、カツミ君に会って……九階まで非常階段の樹を登って、あとはここと、端のクバ?にしか行ってないと思う」わたしは昨日の自分の足取りを思い返しながら言った。

「じゃあ、あとはソトカイダンと、ゴカイを探せば良いというわけね」

「そうだね」

「なら、一緒にソトカイダンをくだりながら、ゴカイに行きましょうか?ちょうどいいと思うわ。ルミたちも居ると思うし」

「そうだね。ただ……」

「ただ?」

 わたしは言おうかどうしようか迷った。セレンはわたしのために鍵を探してくれている。しかも虫まで取ってくれている。その上、このことを言うのは、非常に厚かましい気がした。それでも――何だか果物を食べて、チョコレートを食べたせいか――胃が起きてきた。というより、はっきりと、お腹が空いてきた。もうお昼過ぎだ。セレンは食べないのだろうか。

「もう、お昼だけれど、セレンは何も食べないの?」わたしは言った。

「……」セレンは黙って、口を噤んだ。そして難しい顔をした。「あれ、怒らせたんじゃないの?せっかく、一生懸命鍵を探してくれているのに」ダレカが言う。わたしは慌てた。セレンがまだ黙っているので、何か言おうとすると――。

「三奈のところでは、昼も食事をするということかしら?」とセレンが言った。

「……ここでは、食べない?」わたしはやっと考えて言った。セレンも考えているようだった。

「普通、昼は食べないわね。お腹が空いたの?」

「うん……朝、食べなかったから」

「朝は無いってこと?」

「ううん、無いってことじゃなくて、今日は食べなかった」わたしはばつが悪くなり、セレンから目を逸らして、横の蔓木の葉っぱを見ていた。そのとき、はたと――暗い気持になった。白っぽい蔓木から出ている一枚の緑の葉を眺めながら――わたしはお母さんのことを思い出していた。

「夕方は?」わたしの視線は、ふっと緑色の葉に戻った。わたしは言った。

「食べるよ」

「へえ――ずいぶん食いしん坊なのねえ」

 わたしはちょっとむっとした。

「わたしのところでは、そうなの。分からないかもしれないけれど」わたしがそう言うと、セレンは、ちょっと黒目を丸くしたが――すぐに涼しげに笑って言った。

「そうは言っても、ウチは無いわよ。サンナサンがお昼にも食べるっていうのは初耳だわ。……オーキナが居ると思うから聞いてみましょうか。オたちが狩りに行くときの食べものがあるかもしれない」

「オ……?」わたしは申し訳なく思ったけれど、オと言うのが何か興味が湧いた。

「オーキナとか、カツミとか。何て言えば良いのかしら……。わたしはメ。あなたもそうかしら?」

「ああ、男、女ってことかな」

 そう言われると、男をオ、女をメというのは、なかなかしっくりくる。

「オトコ?オンナ?変わった響きね。わたしは、オンナ?」

「そうだよ。わたしやあなたは女。ルミさんやトムジさんも――あなたが言うメっていうのが女」

 そのとき、セレンの瞳が水晶玉のように、大きく丸くなった。そして――堪え切れないというように、笑い出した。胸をふるわせて、屈みながら肩を揺らしていた。セレンの身体は、心地良い笑い声を出している。「洞窟のなかで、鈴を振っているような笑い声だ」とダレカが言った。

「なに?」わたしはあっけにとられ、楽しそうに笑っているセレンを見た。

「……だって……ルミはともかく、トジサマまでメって言うのだもの。可笑しくて」

「メって言わないの?」わたしはよくも分からないけれど、セレンの、あまりの反応に、何だか恥ずかしくなった。

「言わないわよ。トジサマがメなんて、どれだけ昔のことよ。ぜんぜん似つかわしくない。あのトジサマがメだって……」セレンはなおも楽しそうに笑っていた。わたしもそれを見て、笑っているしかなかった。

「ルミやトジサマはモって言うのよ」やがていつものように落ち着いてセレンは言った。

「モ?」

「あなた、子供を産んだことはある」

「ないよ!」いきなり何を言い出すのだろう。あったら大事件だ……わたしのところでは。

「じゃあ、あなたはメで合っているわ」セレンは事もなく言った。

「子供が居るか、居ないかってこと」

「まあ――そうね」

 またなにか、ぴったりとしないような返答だ。もっと何か、あるのだけれどというような感じがする。「言葉の違いというより、世界の違いということなのかな。いや――それは、つまり同じことなのかもしれない」

「それじゃあ、まあオーキナのところに行ってみましょうか」


 わたしはセレンに連れられて、また蔓木の生い茂る廊下を渡り、九階の端の部屋――クバの二つ手前の部屋に来た。ここも隣のトムジが居た部屋と同じように、衝立があって中が見えないようになっていた。衝立には上から下まで動物の毛皮が掛けられ、その毛並みは赤銅色に輝いていた。今まで目につかなかったのが不思議なくらいだ。ちょうど今、正面から日の光が差しているせいだろうか。扉は、天井や壁の緑の中で、廃墟の鉄骨を思わせるような赤錆びた毛皮で覆われている。セレンは「オーキナ居る?入るわよ」と言って、気軽に衝立の脇をすり抜けていった。わたしも後に続いた。

 蔓木の部屋のなかではオーキナがひとり、囲炉裏の奥に座りながら、向こう側を見ていた。わたしの言うベランダ――北の森の方を眺め、何か考えているようだったが、こちらを振り向いて、わたしの姿を認めると、とたんに昨日の、にこにことした穏やかな表情をして言った。

「おや、サンナサンどうかしましたかな」

「何か食べもの残ってないかしら?お腹が空いたんだって」セレンは何の遠慮もなく言った。

「それはそれは――」と言って少しオーキナは考えた。常識外れのことをしているのかと考えると、わたしは落ち着かない気持になったが、すぐにオーキナは言った。

「そうですな、何も用意して居りませぬが――」

「ヤキジトとかは無いの?」

「儂のがあるがの。畏れ多い――」

「しょうがないわよ。それでも良いかしら?」セレンはわたしの方に向かって聞いてきた。わたしはどぎまぎした。

「ヤキジトって?」

 オーキナとセレンは一緒になって、少し驚いているような感じがしたが、オーキナは微笑みながら、自分の脇に置いてあった、こぶしくらいの大きさのものを手に取って見せた。それは、笹のような大きな葉っぱに包まれている。

「今日の狩りのために作ったものです」

「オたちはよく食べるのよ。仕事のときに」セレンが言う。

「いいよ、そんな――オーキナさんの食べものなんでしょう」

「いいや、このようなもので良ければ。今日のわしはこうして座っているだけですし」

「いいのよ、オーキナはどうせ食べないから。多分、あなたに食べられるか、カツミに食べられるかの違いだけだわ」セレンは何の遠慮もなく口を出している。オーキナの表情がちょっとだけ固くなったが、それはセレンの「サンナサン」に対する言葉遣いに眉を顰めているようなのが分かった。

「それじゃあ、頂いてもいいですか?」わたしはおずおずと言った。

「畏れ多いことじゃが」と言って、オーキナはわたしに、葉に包まれた物を両手で渡した。わたしは葉を一枚めくって、中身を見た。焦げて茶色くなったような、団子のかたまりのみたいなものが入っていた。

「それがヤキジト。昨日のトギの余りを焼いたものよ」

 香ばしい匂いがする――なるほど、言われてみれば、昨日食べたデンプン状のぼそぼそしたものを焼いたものに見える。ただ、昨日のものと違うのは、チマキのように先が尖ってなく、ごろごろと丸めてあるだけで、さらに肉が混ぜ込んであるようだった。葉っぱと、肉の入った焼きおにぎりみたいで、結構美味しそうに見える。わたしは一口かじってみた。

「……美味しい」塩っけはちょっと足りないけれど、香ばしく、肉の脂が甘い。わたしは一口――もう一口と、もぐもぐ食べ始め、飲み込んだ。久しぶりに食べものらしい食べものを口にしたような気がする。御飯を食べているありがたみが分かった。今食べているのは、お米とは大分違ったものだけれど。わたしは、あともう一口というところでセレンの視線に気がついた。

「ずいぶん美味しそうに食べるわね」

 わたしは、セレンと隣に座っているオーキナを見た。親戚のお祖父さんのような慈愛に満ちた表情だ。わたしは急に人目を感じ始めた。

「遠慮しないで召し上がれ。水を汲んできてあげるわ」

「下へ行って、オたちに余っているものがないか聞いて来ましょうかの」

「あっ、大丈夫です。すみません、ありがとうございます」

 わたしは赤くなって、残りを食べた。おかげで、最後の一口は、味が良く分からなかった気がする。セレンが土の器に入った水を持ってきてくれた。わたしはそれを飲んだ。つめたい、とても美味しい清流だ。

「美味しかった?」

「はい」

「昨日より食欲がお出になったように見えまする」オーキナは満足そうにうなずいた。

「しっかり覚えておくわ。サンナサンは残りもののほうが好きだって」そう言って、セレンはちょっと微笑んだ。

「わたしのところの食べものに近い気がする」

「ほう……」オーキナの目が興味深そうに開いた。

「あのチョコレイト……とは全然違うじゃない」

「あれはお菓子だから」

「オカシ?そうよオーキナ、サンナサンは土のカタマリみたいなものを食べるのよ。もの凄く甘くて美味しいのだけれど」

「ほう、それはそれは」

「オーキナさんも食べますか。あ、部屋に置いて来ちゃったけれど」

「いやいや、折角ですが、今は遠慮しておきまする」

「そうですか」セレンのせいで、わたしは人に土のかたまりを食べさせるように思われているんじゃないだろうか。わたしは水をもう一口飲んだが、誰も話さないようなので言ってみた。

「おとこ……オたちは狩りに行っているんですか」

「そうじゃな……獲れるかは分かりませぬが」

「何を獲るんですか」

 オーキナは急に難しい顔になった。

「『ミヨウヤ』ですじゃ」

「ミヨウヤ?……どういうものなんですか」

「それは……」

 眉根が寄り、オーキナの顔の、皺のひとつひとつが、さらに深くなった。俯きながら、とても難しい表情をしている。三人は黙っていた。特にわたしは――この三人の間のなかで、どのような思考の流れがあるかが見えない。遠くで吹いている、風の音だけが聞こえる。

「オーキナ、話しましょうよ。ちょうど良いと思うわ。三奈も……サンナサンも、まだ良く分かってないのよ。遠慮していても仕様がないと思うわ」やがて、セレンが切り出した。オーキナは、まだ少し考えていたようだが、やがて視線を上にあげた。

「……そうですか。それでは……よろしいでしょうか?ご無礼のほどをお許し下されば」

「……」

「どうやら、ここの世界について……サンナサンというものについて……いよいよ、核心めいたことが話されるみたいだね」とダレカが言った。

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