第3話 南向き、北側の非常階段と共用廊下


  南向き、北側の非常階段と共用廊下


 目が覚めると、小高い緑の山に囲まれた田舎の道を歩いていた。白雲の浮かぶ青い空のもと、舗装された固い道を歩いていたが、車道・歩道の区別は無く、古く汚れたガードレールはわたしを崖から落とさないようにと、うねりながら設置されていた。緑の濃い杉山と、先の方まで田畑が続いていたが、列車の窓から一面見渡すような景色では無く、崖まじりの高低差のある土地に作物を植えている。山あいの道には古びた小屋も、疎らな電信柱も、ビニールハウスも、置き去りにされている電動機も見えている。ただ、すこし顔を上げて前を見てみると、数分後から数十分後、その上をわたしが歩いている道は曲がりくねりながらも先に存在し、そのせいか都会の塞ぐ景色とは違って広がりを感じられた。それは周りに見えているもの一切が、自分に関係したものなのだという実感だった。青い稲が伸びる田園、うち捨てられた休耕地の土の色、畦道に立つ棒杭に引っ掛かった、風に吹かれる褪せた布切れ――誰も居ない道を一人で歩くときの心持はしたが、それは寂しさと言うよりも、やはり静けさというものに近かった。

 もういったい何と書いてあるのか分からない、塗装も剥げ、ぼろぼろに錆び、汚れてペンキのくすんだ看板が掛かった商店の前で立ち止まり、ベンチに座った。ベンチにも、ブリキの背もたれにどこかの企業の商品ロゴが書かれていたが、わたしには判別出来なかった。何となく、先入観でチョコレートかキャラメルか、プリンを作る製菓会社のものではないかと思った。おそらく無意識下に、そうあれば良いなという気持があり、看板をそう見せたのか。来るか分からないバスを待ちながら、目の前の景色を眺めている。ベンチの前には横に延びるアスファルトがあり、太陽の下で砂煙りを上げていた。それはわたしに浴びせかかる砂煙りではなく、フィルムの一コマのような、なにか想像上の切なさを感じさせる砂煙りだった。

 蹴飛ばすと足の骨を折りそうな黒い礫の混じった石の重石に、ペンキを塗った鉄パイプが上に伸び、丸く薄い看板が上に付いたバス停の標識には、もういつの制定か分からないダイヤが書かれている。雑草に点々と咲く黄色い野花を眺めていると、白線の引かれた日向のアスファルトには、陽炎と呼ぶにはさらに淡い、立ち上る空気の流れがあった。

 重層的に積り重なったシートのにおいがする。エンジンの油と、靴底を舐め続けた床、手すりに吊り革、整列して座る人たちが車内のにおいを作っていた。「におい」は鼻腔で感じるようであったけれど、そこには過去にドアを跨ぎ、デッキを往き過ぎた人間の「残り」も感じられた。車内を取り巻いているのはバスの雰囲気だった。過去を底にし、未来を蓋にした透明な瓶の中身だった。

 ガラス窓から外を眺めている。バスはカタカタと山道を走り、シートと窓ガラスに振動を伝えている。剥がれそうな針葉樹林の木肌が目の前にうち並ぶ。日は遮られ、辺りは鳥の音と風のふるえと山のにおいを溶かしている。サクサクと土の上で枝を踏み、呼吸をする。ひとつ息を吸ったとき森は飲み込まれ、ふたつ、息を吐いたとき――森はわたしの外に広がっている。みっつ、わたしは気が付く、吸気から呼気に移る瞬間で、暗い世界で瞬きをする。よっつ――水色のシャツを着た、茶色のジャケットを羽織った女の子を森の中から見守る。晴れた青空に投げ上げた、一粒のチョコレートを見るように。

 乗客の小学生が騒いでいる。皆はバスの中で夢中になって遊んでいる。吊り革にぶら下がり、スプリングの利いたシートの上で跳ねている。わたしも一緒になって追いかけまわし、右足を振り上げ、弓から放たれた棒のように一直線に跳び上がり、網棚の上に手を掛ける。よじのぼり、首をかがめて車内の世界を眼下に見る。うなじが、天井の揺れに伝わるほど迫る、網棚の狭い隙間で。上からの眺めは、さっき走っていたときとは全く違っている。今更のように気付くのは、一緒に遊んでいた子のほかにも十人、二十人と子どもが居る。床に座って、何か細々としたものを使って遊んでいる子たち、わたしが抜けても変わらず走り回る子も。わたしのなかで何か、さっきまでの興奮が床に抜け落ちていくのを感じる――ずっと追いかけっこをしていれば良かったかな――大人は何をしているのだろうという考えが頭をもたげる。前に続く山道から少し目を逸らして、車内を映すバックミラーに視線を向ける。乗客に大人は一人として居ない。全員が全員、置物のように整然として、椅子に座ってこちらを見ているのはみんな小さい子どもだ。わたしはフロントガラスの先に視線を戻し、ハンドルを切ってカーブを曲がる。シフトレバーを操作して、アクセルを踏み続ける。運転はとても楽だ。道は途切れ、一本の高いヒノキが前方に現れる。わたしはハンドルを切るか迷う――そんなことをしているうちにバスは、正面から、大きくて高いしっかりとしたヒノキにぶつかってゆく――。


 目が覚めると――布団のなかのうっとりとした、ぼんやりとした意識はすっと床に吸い込まれ、わたしは頭を上げた。枕もとに置いてある携帯電話の電源を入れて、時間を見た。朝七時――休みの日に限って早く起きられるのは興味深い問題だな。毎朝起こしに来るお母さんには腹立たしい問題だろうけれど。わたしは立って携帯電話を羽毛布団に放り、明るい部屋の中で伸びをした。青空の見える窓は、カーテンが開いている。兄のマットレスが無くなっている。わたしは畳の奥の部屋から、ひと続きの玄関近くのキッチンまで行ってみた。風呂場にもトイレにも兄は居なかった。玄関の鉄のドアの外で、頭の上の端の方から、誰かがどこかの扉を開けた。階上で、カンッ――とデッドボルトの響く音がした。コンビニにでも行ったのかな。

 洗面所兼浴室に行き、そこで歯を磨いた。ビニール袋に入れて持ってきた透明な歯ブラシを出し、オレンジ色の透明なアクリルの風呂椅子に足を置き、蓋をされたバスタブの縁に腰掛けた。棚には貝が飾ってある。歯を磨きながら、壁の水色のタイルを眺めていた。外の廊下に面した明かり取り用の窓からは、磨り硝子を透過して朝の白い光が浴室に差しこんでいた。北に向いているこの窓は、おそらく朝のこの時間帯が、一番光が入ってくる。浴室は壁も床も薄い水色のタイルだ。壁は手の平くらいの大きさの正方形のタイル、床は親指くらいの正方形のタイル。床のほうが細かく、少しだけ青が濃い。

 風呂桶に落ちないようにお尻の体重を浴槽の端にだけかけるようにする。床に転がっている、椅子とセットの透明なオレンジ色のアクリルの桶を、ぼんやり見ていた。銀色の蛇口と白い陶器の洗面台、その上の鏡、兄の使っている整髪料か化粧水か何かのビン。背後の、磨り硝子の窓は光の拡散で真っ白に輝いている。わたしは蛇口から水を出して直接口を漱ぎ、目をつぶって、鼻を白い陶器の洗面台に迫らせ顔を洗った。

 濡れたままの顔でベランダに面した奥の部屋に行き、昨日箪笥にしまったタオルを取り出して拭いた。上下とも、柔らかい、白に近いピンクのパジャマを脱いで裸になり、下着を着けて、ズボンを穿いた。リュックには水色のリネンのシャツが入っていた。身体に羽織ってボタンを下から着けてゆきながら、久しぶりに着るシャツの生地を眺めた。光沢のある麻特有の、経糸と緯糸の交差をぼんやり眺めた。布地は薄い青色で透明感があり、着て少し肩を動かすとそっくりわたしに馴染む。でもそれは木綿の布地のようにぴったりと身体に吸付くのではなくて、追随が遅い、独立した節度のある距離感だった。

 裸足で畳の部屋を二、三歩歩いて、スタンドミラーに水色のシャツを着たわたしを映した。男の一人暮らしで、姿見なんて要るのかと、ちらっと思ったけれど、すぐに鏡に映っている世界に意識が向いた。自分で言うのもなんだけれど、似合っていて、なかなか良かった。綺麗な空色――肌の色も明るく見える。漠然とした、一日に対する期待感みたいなものが湧いてきた。少し前に出て、鼻を見て、口を見て、眉の下の目を見つめた。自分の瞼の線を目で追って、瞳と瞳を合わせた。鏡に映った自分の姿がどこか新鮮で、黒い瞳孔をじっと見た。綺麗でくもり一つない鏡面だ。きちんとしたアニーのことだ。磨いたばかりなのかな――とどこか鏡に映っているわたしの方が考えていそうだ。鏡の奥を覗き、にっこり笑ってみた。その瞬間、いきなり玄関の扉が開いた。ふいに、何の前触れもなくドアが開いたので跳び上がりそうになった。

「早いじゃん、寝てると思ったよ」兄はビニール袋を提げながら笑って言った。わたしはじっと鏡の前に立って真剣に自分の姿に見入っていたと気づき、恥ずかしくなった。

「いきなりドア開けないでよ。びっくりする」わたしは努めて、何でもないように言った。兄はぴんと来ない顔をしている。別にこっそりと入って来たわけではない。堂々とビニール袋を持った手を振り、悠々と大股で歩いて来たのだ。それほど、我を忘れて鏡に見入っていたのだろうか。

「ノックの後にドアを開けて欲しかったら、自分の部屋に居るんだな」兄は別に皮肉でもなく、むしろ朗らかに言って、風呂場の洗面所に向かった。いやに機嫌が良さそうだ。鼻歌まじりに蛇口から水を出しているのが聞こえる。まあ人間、特に何が無くても、彼女が居なくても、何となく機嫌が良い日というか、気持が良い日というのはある。朝起きたときから、意識下に伴奏が鳴っているような日だ。兄にとっては、今日はそういう日なのだろう。兄は洗面所から出てくるとテーブルに白い皿を出し始めた。

「腹減ってる?」

 兄は白い薄いビニール袋から食パンを取り出した。食パンは透明なビニールの中で、袋の口が金色の針金でとめてある。

「まあまあ」

「スープは?」

 兄はインスタントのポタージュの箱を見せた。

「飲む」

「目玉焼きは」

 兄は冷蔵庫に行って、ベーコンと卵を取り出した。

「食べる」

「漬けたピクルスもある。もう一週間くらい前のだけど」

 兄は野菜が液体に浸かった、モンマルトルの街の雑貨屋にでも置いていそうな、薄く色の付いた小洒落たビンを出した。

「いいね」

 わたしは椅子に座ったけれど、鏡を見ている自分を見られた時から、どうもしっくりこない感じで、何となく兄の動作を見ていた。

 そのとき携帯電話がリンと鳴った。わたしのではない。畳に置いてある兄の上着から聞こえた。

「なんか携帯鳴ったよ」

「いいよ、メールか何かだろ」兄は目玉焼きの入ったフライパンに蓋をした。


 二人で朝食を食べ終えると、兄は出かけると言い出した。時計は十時頃を指している。

「どこ行くの」退屈だ、わたしも行こうか。

「服を見に行って、本屋に行く。昼には戻るよ」

「いってらっしゃい」

 わたしは畳の上に転がって、さっさっとそこらへんにある雑誌を取って言った。兄は小ざっぱりとしたシャツに上着を羽織ろうとしていた。アニーと何度か一緒に服屋を廻ったことがある。果たして兄に二、三万円もするシャツが必要か疑問だ。アニーは生意気にも結構高い服を買っている。生地の肌触りがいいとかなんとか。そういうお店は義務付けられているのだろうか、妹のわたしにもやたらと話し掛け、色々薦めてくるのだ。本当に、他人の買い物に付き合うべきではない。ただひとつだけ――色取り取りのボーダーのTシャツが並ぶお店は素敵だったけれど。あれはいつだったっけか――お母さんも居たような気がする。

 鉄の扉が閉まり、物音と共に兄は廊下を歩き去って行った。しばらくの間、畳に伏せてぼんやりしていたが、ふとお風呂に入ろうと思いついた。水色のタイルの浴室に行き、バスタブの蓋を開けた。ちょうど空で、洗ってあったので、そのまま風呂桶にお湯を溜めた。歌を歌いながらボタンを操作して、お湯が出てきたのを確かめ、また畳の部屋で横になった。床の上で兄の携帯のランプが光っていた。紫色の光がチカチカと。わたしは何故かふいにひとりごとが言いたくなった。「アニー、携帯忘れた」と、誰も居ない部屋で口にした。しばらく、べったりと畳に身体をくっつけて――今のひとりごとはわざとらしい。自分でない誰かが言ったみたいだったな――と本を読みながら考えた。

 浴槽にお湯が溜まったらしい。せっかく着替えたのにちょっと損だなと思ったが、裸になってタイルの上に立った。蓋を外せばもうもうと湯けむりが上がり、バスタブの真上にある磨り硝子の窓がそれをふんだんに浴びた。同じく磨り硝子の、中折れのドアを押して風呂場を閉め切り、身体にシャワーをあてた。

 静かに湯に入り、とっぷりと浸かった。目映い磨り硝子からの光――首まで水面が来て、魂まで抜けるくらい心の底から息をついたときに、一緒に周りの世界も湖の底に沈んだように感じた。青白い光の差す海底文明だ。そこではモノもヒトも一様に、同じ水に浸かっている――わたしの入浴で沈んでしまった、世界には大変迷惑だと思うけれど。

 ふいに携帯のベルが鳴った。兄のだ。今度は十も二十も、犬の吠えるようにけたたましく鳴り続けていた。わたしはすぐに放っておく決意を固めたけれど、なぜか居留守をする人のように、風呂桶のなかで身動きもせずじっとしていた。考えてみれば不思議なことだ。別に電話なんか鳴っていないかのように振る舞っても、相手に分かるはずはないのだから。……振る舞う?私は思った。電話が鳴ってしまった時点で、もう「真の入浴の自由」は失われてしまった――と。

 電話はまだ鳴り続けていた。もう三十も四十も呼び出し続け、一分を超えるんじゃないだろうか。諦めてくれるだろうか――いつ諦めてくれるだろうか――コール数を今からでも数えてみようか――五分にもなるくらい鳴っていたら、わたしはこの不快な状況を五分も我慢するのか――今からでも浴層を出て、押し入れの布団の下に投げ込んだほうが賢明だろうか――そういうふうにあれこれあれこれ、なぜ考えたくもないことを強いて考えさせられなきゃいけないのだろう――そういうのが一番わたしは頭に来る――。

 やがて携帯電話は鳴り止んだ。ほっとして、もう一分ほど浸かったら出て身体を洗おうと、うつむいた。透明な湯の中にはわたしの身体が沈んでいる。顎を引くと、ちょっと溜息をついた。たぶん、胸はほとんど大きくならないな。お母さんが、お母さんだし。湯の中で肩を撫ぜて、その手を見た。このさき指が長くなるとも思えない。モグラみたいに小さな手だ。髪も母親に似たらしい。量が多いのと、厄介なのは二つあるつむじを受け継いだせいで、生え方からどうしてもくせが出やすい。毎日五分ほどはこの髪に気を使わなければならない。通算すると一生涯ではどのくらいの時間煩わされることになるのか。わたしはため息をついた。

 湯船から出て、シャンプーで頭を洗っている間に、また兄の携帯が鳴った。「またか……」一分も二分も鳴り続け、鳴り止んだ。指の腹で頭皮をごしごしやりながら、わたしは携帯は嫌いだ――と思った。せーので、みんな一斉に琵琶湖に投げ込めばいいのに。


 風呂から上がるとカップに牛乳を容れ、時計を見た。針はもう11時30分を指していた。その針の角度は――何だか取り返しのつかない程、時が経ってしまって、もうこれでは何をする余裕も無い――と感じさせるような角度だった。家に帰ったら何をしよう――。

 入る前と同じ服を着、棚から小説を取り出して読んだ。ふいに――また電話が鳴った。一瞬ヒヤリとした。物凄い音量で鐘を打ち鳴らす。部屋の隅からだ。わたしの携帯だけれど、いつもと違う着信音。友達ではない。誰だ――。

 携帯の画面を見てみた――お父さん――と表示されていた。出た。

「はい――もしもし?」

「三奈か、あー今お兄ちゃんのマンション?」

「そうだよ。どうしたの」

 これが初めてなんじゃないだろうか。父の携帯から電話が掛かって来たのは。

「……お兄ちゃんは居るか」

 父と電話で話したことはほとんど無い――変な感じだ。

「今は出かけてる」

「そうか……じゃあいいや」

 もしかして、さっきまでずっと兄の携帯に何度も掛け続けたのはお父さん?わたしは、頭に――何か厭なモノがよぎった。

「アニーの携帯にずっと電話してた?」

「……」

「あのね、今駅の方に出かけてるんだけど、アニー、携帯家に忘れていったみたい。何かあったの?」

「何でもない。おまえは気にしなくていい」

 強いて普段通りに話をしようとしていたが、父が怒りを覚えているのが分かった。その途端、わたしのなかにもじわりと怒気が生まれた。声を抑えながら言った。

「気にしなくていいってなに?わたしにも知る権利があると思うんだけど」

「お父さんが知らなくていいと言ったら知らなくていいんだ。それに親に向かって偉そうな口をきくな」

 ほとんど怒鳴るような大きな声だ。わたしはその瞬間――破裂しそうな憎しみを覚えた。

「なに怒ってんの?人に訊いておいて……」

「なんだと?」

 わたしは我慢しようとした。しかし非常な憎しみと悔しさで――何故だか分からないけれど、必死になって声を出していた。

「自分が説明出来ないのを、親以前に人としての礼儀はどうなの……それで勝手に怒って、自分が偉そうにしてるのを」

「お前にそんなことを言われる筋合いは無い!親は黙っていても偉いんだ!切るぞ」

「……」

「いいか!子供のくせに親に偉そうな口を叩くな!お前も母さんと一緒だな。人の気も知らないで理屈ばかり並べる。ずっとそこに住め!もう家に帰ってくるな!」

 電話が切れた。わたしは感情を押し殺そうとした。全身の力を込めながら、押し止めようと思ったけれど……。怒りと言うよりも、悔しく、悲しくて、いつの間にかしゃくり上げていた。携帯電話を手に握りながら、部屋の時計を見た。いけない――泣き止まないと、アニーがもうすぐ帰ってくるかもしれない――牛乳を飲んだら落ち着くだろうか。わたしは冷蔵庫に行って、一リットルの牛乳パックを取り出した。黒い陶器のカップにそれをなみなみ注いだ。息が切れて、しゃくってなかなか飲めない――牛乳を半分ほど飲んだ。少し咳きこみ、ずっと右手に携帯を持っていたのに気が付いた。わたしはわざわざ畳の部屋まで歩いて、それを丁寧に机の上に置いた――顔を洗わないと――わたしは押し入れからタオルを取り出した。風呂場まで行って、水を出した。水は勢いよく出た。両手を差し出すと、思い切り撥ねながら両手に水が溜まり、顔を勢いよく洗った。そして何故だかうがいもしていた。

 畳に座って、静かに息をしようとした。正座したり、胡坐をかいたり。玄関近くまで行って、シンクの脇に置いてある洗った皿に気が付き、布巾を持ってきて拭いた。そしてまた畳に座った。時計を見ると、十二時半になっていた――アニーは一時に家を出る。そしたらわたしはどうしよう――アニーはまだ帰らないのだろうか。大学は大丈夫なのだろうか。十二時三十七分。わたしは本棚の見えるところから漫画を取り出した。一度読んだ漫画だが、内容は全然頭に入って来なかった。また時計を見た。十二時四十分。わたしはテーブルに座った。大学に遅れるんじゃないだろうか――もっと余裕をもって行動しろよ。兄はいつもそうだ。いつも人をいらいらさせる。もっとしっかり出来ないものだろうか。

 そのとき、ドアの外に人の気配を感じ、わたしは玄関の方を向いた。やがてドアノブが回る音がして兄が入って来た。兄は機嫌良く靴を脱いでそれを律義に揃え、わたしには目もくれずに風呂場に行った。そして顔を洗って出てくると、言った。

「もう帰る?オレはこのまま大学に行くけど、お昼はどうする?」

 もう一時にさしかかっているはずだ。

「……ご飯だけ食べてから帰ろうかな」

「じゃあ、鍵はポストに入れといてくれ」

「……」

 わたしは時計を見た。十二時五十二分――兄はせっせと自分の支度をしていた。バッグに本やらファイルやらを入れているようだった。わたしはじっと黙って、テーブルに落ちている水滴を見ていた。兄はわたしを気にも留めなかった。

「じゃあ大丈夫か?カップラーメンは棚にあるから食べていいよ。冷蔵庫にあるのも好きにしていいから」

「……」

 わたしはまた憎しみと共に悲しい気持になった。

「なんだ?お父さんからすごい着信来てる」

 ふいに兄は言った。瞬間――わたしは怯えるように、ぎくりとなった。兄の顔には緊張の色があった。

 兄は熱心に指を動かして、携帯電話の画面を見ているようだった。やがて壁の時計を見て、考えていた。どうしようか悩んでいるようだった。そして言った。

「お母さんは家に居る?」

「分からない。多分居ると思うけど」

 わたしは言った。兄は携帯を操作して、自分の耳にあてた。ずっと――何かを探り当てるように、マンションのひと続きの部屋で立っている。低い天井と畳の間で、ベランダの、遠くに見えるビルを背景にして。

「留守電になった」兄は時計を見て、迷っているようだったが再び電話を掛け始めた。「お母さんの携帯に電話してみる……」

「あっ、もしもし」

 わたしはトイレに行った。ドアを閉めて、便座に座った。目の前の壁にはカレンダーが下がっていた。ロゴの入ったどこかの建設会社のカレンダーだ。大きな写真の下に二か月分の日付が書いてある。フォントとか、あまりデザイン性があるとは言えない。何だか垢抜けない代物だ。でも――多分兄も、だから飾ったのだと思うが、写真が良かった。青白い光に包まれた、どこかの駅のプラットホームだ。鉄柱があり、屋根があり、線路があり、直線的で幾何的なグレーにぽつぽつと、橙色光と白色光が織り混ざっている。用を足しながら写真を見て、兄の電話で話す声を聞きながら、いつのまにか目の焦点は――絵のずっと先にあたっていた。

 電話も終わったようなのでトイレから出た。流水で手を洗い、タオルで拭いた。家に帰ったら、お母さんに何て説明しようかと思うと憂鬱になる。昨日の晩の重苦しい雰囲気――夫婦喧嘩でピリピリしているお母さんに、さらに心労の種を作りたくはなかった。結局、何も言わない未来が見える。お父さんが仕事から帰って来たときに、家で顔を合わせるときの場面を思うと――厭で、無しにしてしまいたいほど憂鬱だった。

 わたしが部屋に戻ってくると、何だか兄は怖ず怖ずとしてこちらを向いて言った。

「お母さん……家を出て行ったらしい」

「えっ?」

「もうお父さんとは暮らせないって……少し一人になって考えるって……」 

「……」わたしは――何だか身体の一部が消えていくような感覚をおぼえた。

「わるいけど、大学行かなきゃ……」兄は時計を見て言った。

「えっ……わたしはどうすればいいの?」

「家に帰った方がいいと思う……それでお父さんと話してさ。お母さんを説得してくれるように言えばさ」

 わたしはそのとき――強い怒りを覚えた。兄の姿がひどく情けなく、惨めったらしく見えた。こう感じていた。結局、兄は逃げようとしている――わたしに「何か」してもらいたがっている。自分がするのは面倒で、「何か」が解決してくれるのを待っている。でも、大学に行かなきゃいけないのも事実だ――。

 兄は用意を済ませて玄関まで行った。

「じゃあ……わるいね……」兄のすまなさそうな態度が、余計に怒りの気持を押し上げた。わたしは強い不満を顔中に漲らせ、兄の眼を見据えた。でも、何をしてくれるわけでも無いんだねと、言ってやりたかった。兄は扉を開けて、出て行った。鉄の扉がガチャンと閉まった。

 ひとりになった部屋で、玄関から一番奥の窓際まで行き、畳に座った。ベランダの窓が少し開いていて、レースのカーテンが膨らんでいた。一度――二度と撫でるように膨らむカーテンを見ていた。わたしは立ち上がり、窓を閉めた。カーテンは死んだように動きを止めた。

 隅に置いてあったリュックを背負って、鍵を取った。玄関に行って靴を履き、冷たいスチールのドアノブを回した。

 マンションの塀の外は、青空に白い綿雲が浮かんでいた。わたしは廊下を歩き、途中の非常階段に目を向けた。塀の切れ目を抜けて、鉄骨の構造物に足を下ろした。カン――と静かに鳴り、コン――コン――と階段を上って行った。踏み板と踏み板の合間からは、平行に上る一つ下の階段が見える。1階から9階まで、踊り場の無い真っ直ぐな階段が上下に並んでいるのを想像した。わたしは廊下の塀と柵の間を通り、また階段を上って行った。

 8階から9階の、階段の途中で腰を下ろした。リュックを隣に置いて景色を眺めた。国道の、車はひっきりなしに走り、雲は静かに流れていた。世の中は健やかで、平穏無事であるらしい。世界はわたしに対して責任など無いし、詰まるところ無関係なのだ。そんなことは分かっているが、少し悲しくなった。わたしは川を流れる水のような、車の次々に走って行くのをみていた。

 お父さんが電話をしたのは、お母さんが家を出てしまったからだろう。何があったのだろうか。お母さんは――もう帰って来ないつもりなのだろうか。わたしは、昨日家を出るところを思い出していた。学校から家に帰ると、母はひとりでテレビを見ていた。いつもやっている、何となくつけっぱなしにしておくような昼間の番組だ。ふたりで焼きそばを食べた。わたしはそのとき、美味くも、不味くもない味だなと思った。そしてお皿を洗うのをさぼった。母は玄関までわたしを見送りに行った。そして、わたしにお金を渡した。

 わたしには何も分からなかった――何もかもがよく分からなかった。わたしの携帯でお母さんに電話することは出来る。でも繋がったら、何と言えば良いのだろうか。どう話を進めていけば良いのだろうか。ごめんね、三奈――と言われたら?もし、言い合いになったら。わたしには、理由も分からない。父が悪いのか、母の方が悪いのか。様々な可能性が在る。……もし浮気だとしたら。例えばお母さんが、わたしたちにそれをずっと秘密にしていたとしたら?そんなことは無いと思うけれど、究極のところ、何でも起こる可能性はある――。知りたくもないんだ、お父さんとお母さんの喧嘩の理由なんて。わたしに教えて欲しくない。わたしに、何も告げないで欲しい。

 雲は何回か日を遮り、幾度か――辺りは静かになった。家に帰りたくない。部屋でお父さんと二人で居る場面を思うのは辛い。わたしもお母さんのように、どこかに行き失せてしまいたい。

 わたしは誰かに立たされるように立ち上がり、リュックを背負って階段を上り始めた。薄く、でも頑丈な鉄の踏み板は、コン――コン――と鳴る。足を滑らしそうな白いペンキ、松の葉状の滑り止めの突起に、煤煙のような埃が溜まっている。細い鉄柵。背骨のような肋骨のような、首の骨のような非常階段。隔てられて、浮かんでいる空の空間。コン――コン――と音だけが響いた。

 終点の9階まで行くと、通路の先の、柵の遥か遠くに空が見え、ビルが在った。遠いせいか、柵越しのせいなのか、ひどく離れて見える。

 柵のところまで行ってみようと思った。もう上は無い非常階段は、そこが桟橋のように突き出ている。柵の上の手摺りに手をかけて、下を覗き込もうと思った。歩きながら、ペンキを塗った冷たい手すり、煤で汚れる手のひら――そこまではっきりイメージ出来るほど柵に近づいたところで、「何か」に気付いた。

 非常階段と9階の廊下との境に、昨日の夜に見た白い箱が置いてあった。直方体の、高さのある箱だ。わたしは思わず取り上げた。間違いなく――昨日見た箱と同じだ。上蓋がテープでびっちり止めてある。「なんでここに」わたしは、まるで箱が勝手に動いてここに来たよう気がして、気味が悪くなった。

 階段と廊下の境に腰を下ろし、箱をまじまじと見た。わたしは意を決し、爪でテープの先を掻き、ゆっくりと引き剥がした。テープは何重にも巻いてある。二本の指に巻きつけるように剥がし続けた。ビニールテープを全て取り去り、親指を隙間に差し入れ蓋を開けた。

 蓋を開けて折り曲げると、中には――やっぱり何も無いじゃないか――と思ったのも束の間、箱の中のこちらの面に貼ってあるのは――わたしはテープを剥がして手に取った。「鍵だ……」

 何の変哲もないスチールの薄いカギだった。兄の部屋のものと同じタイプだ。ただキーホルダーが付いている。職員室に掛かっているような、事務的なプラスチックと紙の札のものだ。「505号室」

 わたしはカギを逆さにして持ち、座りながら考えていた。無意識の内にキーホルダーを振っている。柵の向こうでは、マンションのベランダの並びがこちらを視ていた。わたしはすぐそばの左下に目を落とし、地上を走る車の流れを見つめた。考えはゆっくりと落ちて行った。

 わたしは足元に置いてあるリュックを取り、非常階段の上で立ち上がった。そして敷居を跨いで廊下に上った。エレベーターの脇まで歩いて、薄暗い階段を下りて行った。一回――二回――三回と踊り場を回り、階段を下って行った。5階までゆき、暗がりのフロアを歩いた。西廊下の中途で立ち止まった。ドアの左上に、他と変わらないプレートが付いている。505号室。

 大体において、ここのマンションのフロアは灰色で出来ている。廊下や壁、ドアの色など。もちろん、一様にグレーで塗られているという訳ではないし、壁のペンキは煤のかかった白で、ドアも茶色や紺があったけれど、イメージカラーは――と聞かれたら、何となく灰色と答える。しかし、505号室のドアは黄色に塗られていた。わたしはそのドアが――まるで不調和そのものに感じられた。それは見るひとに嫌悪感を抱かせる中黄だった。

 変な人が住んでいるんじゃないだろうか――と思い、目に入る黄色が厭だったが、思い切ってインターホンを押してみた。「何かあっても何も言わないようにしよう。言われても絶対、部屋には入らないで。もしもの時は思いっ切り大きな声で叫ぶ。話し掛けられても、自分の名前や、兄がこのマンションに住んでるなんて言わない。そうすれば、最悪、大丈夫――」

 インターホンがプツッと繋がるのを今か、今かと待っていたけれど、マンションは静かなままだった。しようがなくもう一度押してみた。――遠くで走る車の音が聞こえるばかりで、まるで今このマンションに居るのはわたしひとりばかりと感じさせられた。そのとき、わたしは考えもなく右手を動かしてドアノブをつかんだ。そしてそれを回して引くと、ドアが開いてしまった。がちりと抵抗させられる、思い描いていたイメージに反して――すんなりと扉が開いてしまった。

「やばい!」と思った混乱のさなか腕は扉を開けていて、視線はもう、部屋の中の様子を探っていた。頭は止まっているのに、目は扉の隙間を覗こうと活発に動いていた。部屋の中は、わたしが開けたドアからの光を待ち受けていたように暗かった。わたしは強烈な疑問に襲われて、もっと中をよく見るためにドアを全開にした。

 ドアの先は、打ちっぱなしのコンクリートが見えていた。左右に目を向けたが、何も無い。うっすらとコンクリートの壁が見えている。部屋というより、ただの箱のような、およそ住まいとはいえない空間だった。トイレも洗面所も見えない。

 わたしは部屋の中に一歩、足を踏み入れてみた。ドアを押さえたまま、外からの光を頼りに内部を見た。黄色のドアの裏側は、白いペンキで塗られていた。玄関は無く、ドアを開いたところからすぐにコンクリートが広がる。鉄のドア枠もコンクリートの壁にいきなり付けられている。そのドア枠の横に、電気のスイッチがあった。ぱちっと一つだけあるスイッチをオンにした。手を離した扉はゆっくりと閉じて行き、閉め切り、ロックされた。

 数秒か、数十秒――辺りは真っ暗だった。試しに顔の近くまで右腕を上げたが見えなかった。腕を組んでじっと待っていたけれど、自分が立っているのかすら判別しない真の闇だった。そう考えると胸がざわつき、身体の奥の方で動悸が感じられた。そうだ、何も扉を閉めて待っていることもないと思い、手探りで扉を開けようとした。瞬間、電気が走った。振り返って上の方を覗きこむと、ぱちぱちと瞬き、パッと明かりが点いた。

 部屋は一気に明るくなった。ドアを開けていたときには気が付かなかったが、電灯は天井にびっしりと付いていた。変わった明かりだ。円形で無機質な、水生生物の卵みたいな電球が隙間なく填め込まれている。部屋の中が明るくなって、周囲を見渡した。東も西も、南側のベランダがあるはずのところさえ、一面の壁になっている。地下の駐車場や、無人の工事現場、空の体育館――何か、取り残された、という感じがする。

 自分の足元を見たが一面の明かりで影も無く、そのせいか白いスニーカーがぼんやりしていた。わたしは身体の感触を確かめるようにぎゅっと腕を組みながら、左の、方角で言えば北東の、面が三つ集まるコンクリートの隅の方に行った。この部屋には物が二つあった。さっきから気になっているそのうちの一つを観察した。

 それは、木の、膝の高さくらいの椅子に乗っていた。外国で、道端で青空床屋をするのにはうってつけのような、背もたれの無い椅子だった。ニスがところどころ剥がれている。コンクリートの床に、四本の木の脚が着いているのが何故か印象的だった。そして、その上にある「それ」は、何か綺麗で不思議なものだった。

 筒状のもので、上と下に厚みのある銀の円盤が付いている。その二つの底面を壮麗な、鈍い色をした銀細工が蔓状に伸びて繋ぎ、そのすき間から透明なガラスの瓶が覗いていた。中央でくびれた、上下対称の瓶の形から思った――砂時計?――きっとそうだ。あまりに上品で精緻な細工がしてあるけれど、この形の物は他に思いつかない。でも下の瓶に溜まっているのは液体のようだった。透明な薄い青紫色、日が地面の下に沈んだときの空の色だ。紫が、特別好きな色ではないけれど、このときはその色の美しさに打たれた。銀細工のなかの、ガラスの瓶に封入された紫色の液体は――それ自身がうつろい、漂い、なにか救われるような色だった。

 わたしはこの砂時計を引っくり返そうとした。持って逆さまにしようとしたが、砂時計は――椅子に固定されている。しかし覗き込んだときに気が付いた。砂時計の後ろにネジが付いている。オルゴールに付いているようなネジだ。それを回してみた。

 一回、二回とキリキリ回した。そして手を離して砂時計に正対すると驚いた。銀の筒の内側で、ガラスの瓶がひとりでに動き出した。ゆっくり上下逆さまになると、ネジが止まった。紫の液体が少しずつ、落ち始めた。ぽとぽとと底に溜まって行く。程なく上の液体が落ち切った。驚いたことに――全部落ちたなと思った瞬間、ネジがまた回り始めた。コンクリートの部屋の隅できりきりと音を立て、また砂時計を逆さまにした。

 二回、三回と、しゃがんで見ていたが、この砂時計(水時計?)は水が落ち切ると毎回巻いたネジが動いて、ガラスの瓶を返すらしい。わたしはその不思議な美しさ、機構にすっかり夢中になった。わたし自身がこの銀と紫の水の砂時計になった気さえした。水が少しずつ落ちる――ぽとりぽとりと上の水が無くなる――ネジがきりきりと動く――ゆっくりとガラスの瓶が返る――水が流れだす――。

 わたしは立ちあがり、振り返って部屋の奥に向かった。もう一つ、気になるものがある。殺風景に広がる壁の前には、ガラスのテーブルがあった。脚も天板も、全てガラスで出来ている。透過して見えるのは打ちっぱなしのコンクリートだけで、その透明さは際立っていた。

 その上に、あるものが乗っていた。五つのコンパス――懐中時計のような方位磁石が並べてあった。そのうちの一つは箱に入っている。このコンパスを入れるために作ったとしか思われない、正方形の、漆器のような黒い箱だ。その隣には四つのコンパスが、下ろし立ての鉛筆のように順に並んでいる。すぐにわたしは異変に気付いた。赤い針が正しくこちらを向いているのは、箱に入っているコンパスとすぐ隣のモノだけで、他の三つはばらばらな方向を指している。それだけでも一種異様な感じがしたが、てんでばらばらだったらまだ自然な感じがしただろう――他のものはぴったり九十度ずつずれていた。つまり他の三つの赤い針は、真東と真南と真西を指していた。

 部屋の隅で砂時計のネジがきりきりと音をたてた。わたしは並んでいるコンパスのうちの一つを取りあげた。手に取っても赤い針は、やはり反対側の南を向いている。壁の向こうにはベランダがあるはずだが――そういえば外から見たら、この部屋はどうなっているのだろうか。わたしは箱に入っているコンパスも取り出そうとした。左手の指でコンパスを取り上げたとき、この黒い箱もテーブルに固定されているのが分かった。取った瞬間、ふと――意識が打ち上げられるように足元がおぼつかなくなる感じがした。わたしは目の前のガラスのテーブルを見た。空になった黒い箱と、わたしが一つ取ったせいで、綺麗に空白が一つ出来ているコンパスの並びを見た。影も出来ないほど、部屋が一様に明るいせいで何だか存在が希薄だった。わたしは道に迷ったような気分になった。あまりそういう経験は無いのだけれど。

 遠くのほうで砂時計がまた回転したようだった。わたしは箱の中のコンパスを入れ替えてやろうとした。右手のコンパスを持ち、黒い箱に入れようとした。そっと指を使って箱に静置した。少しの間針はユラユラと揺れていたが、やがて赤い針は向こうの――ただ一点を指し示した。

 瞬間――部屋がぐらりとした。わたしは思わず透明なガラスのテーブルに手をついた。「やめて!目が回る!」ぐるぐるぐるぐると、信じられないほど周囲の景色が回転していた。遊園地のティーカップが暴走しているようだった。わたしはテーブルの天板を抱くようにもたれかかった。置いてある三つのコンパスに腕を滑らした。コンパスはコンクリートの床に転がり落ち、派手に音をたてた。わたしがしがみついているテーブルもおそろしい勢いで回転していた。部屋の中は、鎖の先に付けられたハンマーのようにブンブン振り回されているようだ。もう立っていられない。床に突っ伏した。冷やりとした床も、ピザ生地を延ばすようにぐるぐる回っていた。「吐いちゃだめだ!」と思ったのも束の間、わたしは嘔吐した。口につばきが溜まり、込み上げた。顔のそばにわたしの吐瀉物が広がった。瞬間、部屋の黄色いドアを思い返した。胃液の酸っぱい臭いがしたとき、わたしは気を失った。

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